「ファーストキッス」

 爺さんは目を覚ますと年甲斐もなく涙を流していた。夢を見ていたのだ。横で婆さんはまだ寝ている。まだ四時だった。年を取ると早起きになるのは眠りが浅いからかもしれないが、そのくせ見た夢など覚えていない。久しぶりに見た夢に熱い気持ちになるのもおかしなことではないな、と爺さんは思った。
 次に爺さんが目を覚ましたのは隣の部屋からがさごそとやる音のせいだった。婆さんだった。
「何をしているんだい?」
「あら、おはよう。ずいぶん寝ましたね。もうお昼ですよ。」
 たしかに窓の外は昼間の明るさだった。婆さんは電気も点けずに押し入れから出したらしい段ボールから手紙などを広げている。見覚えのある手紙だ。
「ああ、夜中に一度目が覚めたんだが、眠ってしまった。夢を見たんだ。」
「そうですか。どんな夢ですか?」
「うむ。」
 爺さんはそう言われて無いようをほとんど覚えていないことに気が付いた。
「忘れてしまった。ただ、初恋の人が出てきたのは覚えている。」
「あらあら、お若い。」
「勘違いするな。そんなんじゃない。」
「そうですか。」
 婆さんは区切りをつけるようにまとめて、
「ご飯にします?」
「うむ。」
 子供達が各々出て行き何十年になるか、大きすぎる家を持てあましている。台所一つとってもそうだ。婆さんが漬け物を出そうと開けた冷蔵庫の中はずいぶんと空きがあるし、それを載せたテーブルは二人分の料理には広すぎるし、ご飯の炊飯器も二人分を炊くには要領が悪い。
「今夜は鰺でも焼こうと思うんです。昼は簡単になってしまいますが。卵でも焼きましょうか。」
「かまわんよ、何でも。」
 婆さんがフライパンを火にかけたのを見て、
「焼かないでいいよ。ご飯にかけて食うから。」
「そうですか?」
 婆さんは火を止めた。
「すまんな。」
「いえ。では頂きましょうか?」
「うむ。」
 爺さんは卵を割って醤油を垂らしてかき混ぜて、とろっとご飯にかけた。おかずは昆布と大豆の佃煮、煮物、きゅうりの漬けもの。きゅうりを噛んで、
「これは昨夜漬けていたのか?」
「ええ。薄いですか?」
「ちょうど良いよ。」
「ああ、お豆腐ありますけど、食べます?」
「かまわんよ、これだけで。」
「そうですか。」
 婆さんはまだ申し訳なさそうだ。
「何をしてたんだ?」
「ええ、ちょっと奥の整理を。」
「なんか出てきたか。」
「さっき見えました? お手紙。」
「あれは昔に私が送ったやつかい?」
「そうですよ。結婚する前に。」
「何年前かな?」
「何年前になりますかね。」
 そのまま二人はしばらく黙ってしまった。それから爺さんは唐突に、
「婆さんと、初めてキッスしたのはいつだったかな。」
「なんです? 急に。」
「いや、いいんだ。覚えている。」
「ええ。初めてのデートの時帰りの公園ですよ。」
「ああ。」
「私は初めてだったんでびっくりしましたよ。」
 婆さんは箸を止めて少女のように話している。
「話に水を差したら悪いんだが。」
「ええ、何でしょう?」
「今思い出したんだがね。」
 爺さんはそう前置きして、箸を茶碗の上に揃えて置いた。ご飯はまだ残っていた。
「私のファーストキッスは初恋の人なんだが、その人は初めてではなかった。」
「ええ。そこまでは聞いたことがあります。」
「彼女ははじめ、そのことを隠して私が初めての相手だと言ったんだ。後で事実を知って私は怒った。騙されたような気がした。嫉妬もしたよ。」
「ええ。」
「彼女はどうして嘘をついたんだろう?」
「それはあなたに嫌われたくなかったからじゃないでしょうか?」
「そうだね。そう思うよ。どうして今頃そんなことを思い出すのか。」
「それが見た夢なんですの?」
「いいや、夢は別な話だった気がする。」
「そうですか。でも死ぬまでに思い出せてよかったですね。」
「どういう意味だい?」
「だって、怒った気持ちのまま忘れてらしたんでしょう? そんな気持ちをもったまま死んでいくのも嫌でございましょう?」
「うむ。」
 爺さんは箸を取り直して、お昼を続けた。
(了)

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