前回は「原始物語」が神話や民話になる過程を想像しながら、物語の力を考えていきました。
今回はそのつづきで、現代人にとっての物語を考えていきます。
「神話」によって権威付けされた物語は、やがて科学や思想の発展とともに効力をうしなっていきます。国家と国民の関係は神による絶対的なものではなく、契約なのだというルソーの『社会契約論』のように、過去の物語を否定するのにも、新しい物語が作られる動きには人間の本質があります。人は単に「変わらなくていけない」と言われてもなかなか変わろうと思えません。新しい世界を想像できたときには、本当に変わろうと思えるものなのです。変わるには物語が必要なのです。
「人間は(私は)何のために生きているのだろう?」
これは現代人なら一度は考えたことある疑問ではないでしょうか。衣食住が満たされ、生きることに余裕ができた現代人は目的を見失いました。地球規模で、世界のことが見えてくると自国を繁栄させた「英雄」は「侵略者」のように見えてきます。
「安寧」や「繁栄」という基本的な目標は変わらないのに、どの規模でそれを追求していいのか決めかねてしまうのです。
地球規模での平和を願うなら、貧困や内戦に苦しむ人々がいるのに何もしないでいていいのだろうか?
国家規模での繁栄を願ってアメリカのように保護主義的になるのがいいのだろうか? それとも?
家族規模や個人規模での安寧を求めて、日々を生活していくことだけで本当にいいのか?
いろいろな階層での正しさが揺らいで、「答え」は見つかりません。答えらしきものを持って強く自分の人生を生きる人もたくさんいますが、他人は他人。自分の「答え」ではありません。価値観が多様化している上に、情報として簡単に手に入ってしまう社会では、ただ一つの「答え」など存在しないのだと子供でも気づいてしまいます。
それが生きる不安につながるのです。
1つの「物語」は1つの答えを示します。
「人のために生きることが大切だ」
「自分のやりたいことをやるべきだ」
「家族を築いて、一生懸命働けばいいんだ」
「悩んだままでもいいんだ」
そういった答えが多くの人に受け入れられてヒットすることもあれば、ネットで書かれた個人的な小説が、ただ一人の読者の人生を変えるかもしれません。あるいは物語を書くことで、作者自身が救われることもあるかもしれません。
モノミスの基本構造は「主人公(英雄)が、宝物を得て、帰ってくる」でした。
現代人にとっての「宝物」は一つの生き方を示すことへと変化したのです。
たとえば「人のために生きることが大切だ」ということが作者のメッセージであれば、それをただ訴えるだけの主人公を見て共感できるでしょうか? お役所や学校教材のような説教臭いドラマが浮かんでしまいませんか?
テーマを観客に伝えるには、神話がそうであったように、モノミスの構造にのっとる必要があるのです。
より具体的に言うなら「人に生きることが大切だ」ということをミッドポイントで得る「宝物」とするなら、アクト1では「自分勝手な主人公」を設定すればいいのです。
「自分のやりたいことをやるべきだ」を宝物とするなら、「やりたいことを我慢している主人公」を。「家族を築いて、一生懸命働けばいいんだ」が宝物なら、その逆を。
そして、彼らが「旅」を経て、大切なことに気づいて変化します。アクト3ではそのことを証明する「ビッグバトル」に勝利します。
こういった物語を見た観客は感動して、自分もそうなりたいと願って元気を取り戻します。その後に、その人が実際に生活を変えるかは問題ではなく物語に接して元気を取り戻せば、現代人にとっての物語としては充分なのです。社会全体ではそのように物語が消費されていきます。それでも、ときには人生に変化をもたらすような「自分だけの神話」をみつける人もいるでしょう。
さて、この「主人公の変化」を描くにはリアリティが必要になってきます。神をも信じない現代人を納得させるのは大変です。モノミスの構造をなぞるだけでは通じなくなってきたのです。そして心理学的な解釈がモノミスに加えられることになるのです。明日はそのことについて考えていきます。→「「心の旅」としてのビートの意義を考える」へ
(緋片イルカ2019/01/18)