「原始物語」から物語の力を考える

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「主人公(英雄)が、宝物を得て、帰ってくる」というのはすべての物語の基本構造(「モノミス」)でした。
その意義を考察するために「原始物語」から「神話」や「民話」にいたる過程を考えていきます。

そもそも人類は物語をいつから、どのように語っていたのでしょうか?

現在、伝わっている過去の物語は主に文字として残されたものです。しかし、それ以前にも物語は存在しました。『古事記』は稗田阿礼という人物が暗記していたものを書き写したものだとありますし、もっと遡ってピラミッドのような古代文明やラスコー洞窟の壁画にも、明らかに物語らしきものが描かれています。解読が不能なだけです。「人間とは物語る動物である」とでもいうほど「物語」は人類に必要不可欠なものだったのです。

まずは原始人の生活を想像してみましょう。

現代人は原始人の暮らしというと、食料が不足していて、不便で、チンパンジーに近いような生活を想像してしまいがちですが文化はありました。縄文土器を見て「どうしてこんな模様をつけたのだろう?」と考えてみてください。遊び心や宗教的な意義がなければ、あのような無駄な労力を使ったりはしなかったはずです。ちなみに農耕民族よりも狩猟民族の方が飢えていなかったというデータもあります。(『『銃・病原菌・鉄』』など参照)

もちろん生活の範囲は狭かったでしょう。場所は森でも、海辺でもかまいませんが、いくつかの家族が共同生活をしている小さな村を想像してみます。

村人達は小さな子供から、年老いた老人まで協力して生活をしています。村人達の共通目的は存続と繁栄です。体の丈夫なものは村から出て食料を調達します。できないものは家事を担当します。学校はありませんから、大人から子供へ技術や知恵が伝えられていきます。自然現象を説明する科学は遅れていますからアニミズムが生まれます。雨は神の恵みで、雷は神鳴りなのです。神という形而上の存在の始まりです。

子供達は海や山を眺めて「あの先には何があるのだろう?」と想像したことでしょう。

村にはルールがあります。文字にされていなくても、村人達の間では暗黙に了承されています。そのルールに外れそうな者がいれば、長老のような年配者が諭します。
「森には入っていけない」
しかし好奇心の強い者は問いかけます。
「なぜですか?」
長老は物語を話してきかせます。「森には神が住んでいてルールを破ると怒りをかう」とか「過去に森に入って鬼に殺された者がいる」など。長老自身もそれが本当かどうかは知らないが、子供の頃からそう聞かされて育ってきたのです。

この頃の「原始物語」にはいくつかの要素が混在しています。
「村のルールを正当化する物語」
「村の歴史を伝える物語」
「食料を得るための知恵を伝える物語」
など。現在の物語とは違う記録としての意味合いをもっていました。しかし、そういった実用的な知識は、現代ではニュースや歴史の教科書のようなものとして物語と解離していきます。

「原始物語」を語る長老のような存在はストーリーテラーです。シャーマンのような存在だったかもしれません。落語家のように話すのが上手だったかもしれません。つまらない話は眠くなってしまいますから、興味を引きつけるように語られて、観客は気づかぬうちに「教訓」を得ているのです。やがて、村人達はそのエンターテイメント性を追求するようになります。現代人が居酒屋で昔話に花を咲かせて楽しむように「原始物語」の中で面白いものばかりが何度も話されるようになっていきます。この繰り返しの中で、小説が推敲されるように物語が洗練されていきます。ムダが削ぎ落とされたり、不足するビートが補われていくのです。(アラン・ダンダスの物語最小単位も参照ください)。

「原始物語」の中でも特に人気があるのがモノミスの英雄神話の構造をもった物語だったのではないでしょうか?

村は世界の各地に存在しました。豊かで存続できる村は平和に過ごせていましたが、そうでない村もあります。飢饉や津波などの自然災害によって危機に陥る村もあります。

ある村の勇気ある者は、不足した食糧を補うために危険な森に入っていき、新たな土地を開拓します。村に富をもたらした者は「英雄」として扱われます。これがモノミスの基本構造である「主人公が旅に出て『宝物』を得て、帰ってくる」構造の原型です。もちろん戻らなかった英雄もたくさんいました。そういう村では「旅には出るべきではない」という物語が残ったかもしれません。そして村自体が滅びてしまったため、今に伝わらなかった民話もあるはずです。あるいは、村を出て、別の村へ行き着き、そこに居座って戻らなかった者もいたはずです。
映画のビートシートではNGになっているような展開もモノミスは受容します。モノミスの円環には正規の道とは別に枝分かれした道のビートも含みます。ノベルゲームで選択肢によってはBAD ENDを迎えるのを想像すると理解しやすいかもしれません。BAD ENDを知っているからこそ、本来の道の正しさも理解できるようになるのです。

さて、土地が無限にあれば、村は拡大しづけられますが、そうもいきません。やがて村同士の衝突が起こります。同調して合併する村もあるでしょうが、文化や価値観が違えば、なかなかうまくいきません。
村のルールには、外部の村を尊重する「人権」の考えなどはありません(侵略にきたスペイン人を神と勘違いしたアステカのような例もありますが)。そして人間同士の戦争の始まります。
こうして、村を繁栄させた者は英雄として語りつがれていきます。この頃の英雄が持ち帰る「宝物」は、別の村の宝物で、村人達には初めて見るもので、感動や驚きとともに英雄を讃えれことでしょう。

村同士の小競り合いは、中央集権ができるまで続きます。日本史でいえば大和政権です。他を圧倒する力をもった村には、戦争をせずに服従するようになるのです。こうしてムラはクニになっていきます。国家を存続させるために必要なものは、収入源、つまり税収です。税収がなければ軍隊を雇えませんし、軍隊がなければいつ転覆させられるかわかりません。そこで税収のための法律が作られていきます(歴史でいう律令国家)。

法律には物語は必要ありませんが、国家の正当性を主張するためには物語が利用されます。「王は神の子である」といった権威付けです。そうして作られたものが神話です。
神話には語り継がれて洗練された「原始物語」を土台にしつつも、権力の都合によって新たな物語が人為的に作られます。焚書坑儒のように都合の悪い価値観を焼き捨てるような歴史もありました。

一方で、民衆の間ではおもしろおかしく物語が語り継がれていきます。これは民話と呼ばれます。地域ごとのアレンジが加えられつつ、ときには新しい物語と合体して語り継がれていくのです。

このように、モノミスの構造には、みんなが面白いと感じる民話的なエンターテイメント性と、権力による権威付けに使われるほどの説得力を含んでいます。

モノミスのエンターテイメント性の部分を使えば、ハリウッドのアクション映画のような娯楽に使えます。好き嫌いはともかくハリウッド映画が、全世界に配給していることは注目に値します。歴史も文化も違う国の人々がアメリカのティーンが変身して戦うストーリーを楽しんでしてたりするのです。価値観がわからなくとも、構造から伝わるのです。モノミスの構造を意図的に活用することはレヴィ=ストロースが未開社会を構造的に研究することで文明があることを発見したことの逆用のように思われます(『野生の思考』)。
また、権威付けの説得力としてモノミスを使おうとする例もたくさんあります。三幕構成がスピーチやプレゼンにも応用できると謳ったビジネス書があったり、教会の教義や、新興宗教の洗脳、軍国主義のプロパガンダなどに使われた歴史は枚挙に暇がありません。
モノミスの構造は、物語の持つ力を公式化したようなものです。

明日は「民話・神話」のその後から、現代人にとって物語の意義を考えます。→「現代人にとっての物語を考える」

(緋片イルカ2019/01/17)

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