文学とは何か?2(文学#75)

ずいぶんと前に文学とは何か?(文学#55)という記事を書いていた。

「物語を、避けられない問題に対して、何とかして取り組む人々を描いたものだと定義している」

カラスさんの言葉自体は忘れていたけど、改めて読んで「いい定義」だなと思うし、カラスさんんも僕も、今もその延長で書いているなと思った。

今回の記事は前記事との関連はないが「テーマ」「社会における物語の意義」という視点から、今考えている「文学とは何か?」を書いてみようと思う。

「支配」と「利益」

 現代において単独で生活している人間は皆無ではないかと思う。無人島で自給自足しているような人でさえ、流れ着いてきたFedExの荷物を利用していたら数パーセントは現代社会(つまり他人の生活)に依存しているといえる(『キャスト・アウェイ』)。都会で暮らすホームレスは言わずもがな。原始時代のような狩猟中心の生活では、一匹狼として自然との関係のみで生存していた人もいたかもしれないが、人類は集団をつくり、村をつくり、国家をつくり、さまざまな共同体(あるいは集団や組織と呼んでもいい)を築いてきた。共同体に対する感覚は、身近な関係を想像するとわかりやすい。結婚やルームシャアなど他人同士が共同生活を始めたり、友達同士が集まって起業するとか、部活やスポーツチームの中にも、歴史上の共同体と似た関係性が潜んでいる。
 共同体に所属する人間は「ルール」に従う必要がある。日本という国にも法律がある。刑法のように「ルール」を破る者への罰則が設けられ、「ルール」が適用されない者は国外追放される(不法滞在者など)。「ルール」が機能せず、各人が好き勝手行動していたら、もはや共同体にはならない。「ルール」は「個人の自由」を制限するものであるともいえる。「個人の自由」を制限してまで「ルール」に従うには理由がある。「支配」か「利益」である。
 「支配」から発達していく共同体を「支配型共同体」と名付ける。これは、強者が弱者を都合よく従わせることで維持されている共同体である。単独生活における、一人分の利益を10という数字で表すなら、二人で狩りをすれば20になる。そのうち強者が13をとり支配者となり、弱者は生存のために7をもらって働き続ける被支配者となる。13とか7という数字は喩えに過ぎない。支配力によって変わる。14と6でも構わない。ただ20と0では「略奪」となり共同体にならない。被支配者が死亡してしまうと、支配者も単独生活に戻ってしまうからである。被支配者の数が増えるに従って「支配型共同体」の規模は拡大していく。やがて共同体を維持するための「ルール」が必要になる。働かなくても利益を得られるようになった支配者は、負担の大きい肉体労働がから離れ、被支配者を働かせるための「ルール」を作る立場になっていく。さらに「ルール」を立てる仕事すら任せるようになると、支配者は「偶像」となっていく。世界は神によって創られ、その神の末裔である支配者に従うことは正しいことであるという「神話」が作られ、それは、共同体のアイデンティティとなり、ルールに従う根拠ともなる。支配者は王や神と呼ばれ、祭事に参加するのが仕事の中心となる。ここでは「神話」のような物語が必要になる。
 「利益」から発達していく共同体を「協力型共同体」と名付ける。これは、目的のために役割分担をすることで効率を高めようとする共同体である。それぞれの得意な能力を活かして全体としての利益を追求する。会社やスポーツでは役割分担が明確なので、イメージしやすいだろう。個人の感情を無視した基本的な方針としては、一人分で10だった利益が、三人での合計が30を越えていて、利益を分配したときに10以上になるのであれば、共同体に所属する「利益」があると言える。だが、実際の三人の内訳は13、10、9などとアンバランスかもしれない。13の利益を生み出している者にとっては単独生活をしている方が利益が多くなる。それでも、一人で作業したときには効率が悪くなり13は生み出せないかもしれないとか、将来的には自分が9しか生み出せないことがあるかもしれないが、そんな時でも分配によって安定を得られるメリットがあるかもしれない(保険)。いずれにせよ、少人数であれば所属する者の気持ち次第である。愛する家族や友人のためであれば、一方的に与えるだけの「施与」の関係であっても共同体を維持しようとするだろう。あるいは多くの「利益」を生み出せる者が支配的になり「支配型共同体」へと変化していくこともあるだろう。いぜれにせよ、共同体に所属する人間が増えるにつれて、さまざまな立場や意見が生まれ、不満が発生する。アンバランスさを解消するための民法のような「ルール」が必要になってくる。皆の不満を解消する調整能力や計算力に長けた者が「ルール」を決めた立場となっていく。彼らの中に私欲を肥やそうと思う者が現れると「ルール」を都合良くねじ曲げて「独占」という格差を生んで、支配者層のようになっていく。
 共同体の維持は「支配」と「利益」に基づいている。現代日本では「個人の自由」は法律の範囲内(公共の福祉に反しないかぎり)認められている。逆らうと身体的な罰を受けるような奴隷のような身分ではないが、教育や文化などで倫理観を植え付けられて「ルール」に従うことを善とする精神的な奴隷となってしまっている人もいる。「利益」と「支配」の正当な範囲、すなわち「ルール」の正しさを肯定・強化する範囲のテーマで描かれたものはプロパガンダやエンタメ物語である。ヒーローが悪者を退治する勧善懲悪ストーリーを楽しむことは、自覚的であれ、無自覚であれ、その社会で「悪者」とされる存在を否定し、自らの価値観を肯定することで楽しんでいる。ファンタジーやSFの設定という仮装をされていても、それに類似の存在を現実社会で目にしたときに否定する教育を受けている危険性がある。これは「支配型共同体」の神話と同等の怖ろしさを保っている。「神作品」「神マンガ」など、一部の作品を崇拝するファンの前で「神」を否定することを想像してみるとわかりやすい。そういった当たり前や善とされている価値観(ルール)から、外れることこそ「芸術」の意義であり、物語を通して芸術に挑むことを狭い意味での文学、芸術的な文学と僕は呼びたい。(広い意味での文学はサイト紹介にも書いたとおりSNSのつぶやきや、カフェでのおしゃべりでも、物語的なものすべて)。

「説得」と「挑発」

 芸術によって世界を良くしたいと思う立場の者は、作品を通して「説得」をしようとする。たとえば、世間からはみ出した弱者を描くことで、世間一般では善と思われてる価値観の陰で虐げられている人がいることを伝えようとする。これはプロパガンダやエンタメの延長線上にある。新しい価値観を提示して、それに従わせようとする点では、プロパガンダと構造的には同じだからだ。「説得」を試みる作家は、自分の価値観が偽善かもしれない可能性も自覚しているべきである。
 芸術作品を通して「挑発」する立場の者は、社会を良くしたいという動機は持ち合わせていないかもしれない。作家本人にとっては、苛立ちや生活での不満を作品に込めているだけかもしれない。それでも、作品が文学的価値を持つことがある。プラスの方向であれ、マイナスの方向であれ、ルールから外れた価値観が提示されていれば、社会に気づきをもたらすことがある。社会の破壊を試みているようで、芸術表現という法律の範囲内で行っている分、社会的行動にも見える。法律の範囲を越えてしまう芸術活動もある。反社会的であることと芸術的は混同されることがあるが、芸術の意義は、違法かどうかではなく、社会に対して何を提示しているかによって判断されるべきかもしれない。

※もう少し、書き切れていないことがあるような気もするのだけど、うまくまとめきれていないので、この記事(現段階)ではここまでにします。いずれ「文学とは何か?3」を書くかもしれません。

緋片イルカ 2023.3.1

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