文学とは何か?(文学#55)

前回の読書会で参加者の空地さんが、以下のようにおっしゃてました。

「物語を、避けられない問題に対して、何とかして取り組む人々を描いたものだと定義している」

これは、なるほどと思わされました。

空地さんは「物語の定義」とおっしゃってましたが、勝手に「文学の定義」と置き換えることもできるのではないかと思います。

「文学とは何か?」という問いかけに対しては、あらゆる作家が、あらゆる答え方をしていると思います。

どれも正しい側面もあるし、揚げ足をとることもできるでしょう。

それは言葉というものがもった固着機能ゆえ、仕方のないことです。(【ことばの固着機能】(文学#24)

「文学とはAである」と言い切ってしまうと、Aでないものはもちろん、極めてA寄りのBや、BよりのAといったものが論理的に否定することになってしまうのです。

では「Aである(※ただし例外としてA寄りのBは含む)」などと、厳密な定義を求めたところで「じゃあ、A寄りのCは含まないのか?」などと続いてしまうのです。

言葉で命名するということは、対象に光を射す反面、影をつくるのです。それが言葉というものです。

だから「文学とは何か?」という問いに、一言で答えるなどということはできないと思っていました。

それ故、空地さんの一言にハッとさせられるものがあったのだと思います。

定義して、言葉にすることは勇気のいることではあるし、批判を受ける可能性もあります。だけど、それをしていくのが作家なのではないかと思います。

改めて、自分の定義を考えてみて、浮かんだのは、

コズモゴニックアークをもった物語が文学である」というのが僕の定義でした。

これには「コズモゴニックアークとは何か?」を説明しなくてはいけないので説明が億劫だし、一部の人にしか理解してもらえる自信もありません(とくにビートに関しての考えがない人には伝えられないと思っています)。

作家は、定義よりも作品を創りだすことが仕事なので、コズモゴニックアークの説明をするよりも、それに基づいた作品を提示することが大切だとも思っていますが、僕がいまだ、納得のいく小説は書けていないのは、結局は「コズモゴニックアーク」の定義があいまい故に、作品に投影しきれていないからかもしれないとも思いました。

空地さんの言葉をお借りするなら、コズモゴニックアークとは「避けられない問題に対して、何とかして取り組み、何らかの答えを提示したもの」です。

ここには矛盾があります。

現実的には「答えの出せないからこそ、避けられない問題」なのであり、簡単に答えがでるような問題であれば、そもそも「避けられない問題」にならないのです。だから「避けられない問題」に対して「答えを提示する」というのは矛盾を孕みます。

それでも、答えを出さなくてはいけない、出したいと僕は思います。

たとえば、こんな問いがあります「生きることに意味はあるのか?」

人間はただの動物で、ただ産まれて、生存、生殖して、死んでいくだけで意味などないのだという考え方があります。

産まれてきた人間には、人生のうちで全うしなくてはいけない使命のようなものがあるのだという考え方もあります。

どちらが、正しいなどとは言い切れません。

安易に、どちらかの立場に立つことは簡単です。飲み会の席で持論を展開するぐらいな、責任感を伴わない意見を言うのなら簡単なのです。

しかし、本当の意味で答えを提示するということは、先の「Aを選びとり、Bを否定する」覚悟をもつことと同じです。

「生きることに意味がある」という立場に立つのであれば、「意味が無い」という立場の人々の批判を受け、対話していく覚悟が必要なのだと思うのです。

現実的には「話し合いの通じない人」もいます。その特定の人と話し合うことはできなくても、反対意見自体とは向き合わなくてはいけないのだと思います。

「答えを提示する」ことは「文学」あるいは「物語」というものが、人類に対して貢献できる役割でないかと思ったりもします。

腹の足しにもならない「物語」が太古の時代から、大切にされてきた理由でもあると思います。人間には物語が必要なのです。

作家は答えを出すために挑み、結果的にたどり着けないこともあるでしょう。

たどり着けなくても、たどり着こうとしたということは、空地さんのおっしゃるような「問題に対して、何とかして取り組む人々を描いたもの」であり、結局、僕も空地さんも考え方は似ているのだと思います。

似ているからこそ、ハッキリと定義された空地さんの言葉が響いたのです。

読書会でも読み上げた、松浦寿輝さんの選評を思い出したので、引用してみます。

わたしの個人的な文学観なので、大方の賛同を得られないかもしれないが、小説で何を描くか、何を語るか、どんな主題を扱うか、その主題のためにどんな文体を選ぶか、等々といった問いより、もっと重要な問題があり、それは、「小説で何をやろうとしているか」という問いだと思う。それでも、実際に何を「やり遂げたか」より何を「やろうとしたか」のほうにむしろ意味がある。たとえうまく行かなかったところ、失敗したところ、独りよがりに終わったところが残ったとしても、少なくとも何ごとかをやろうと試みたという気概と意欲が伝わってくる作品を読みたい。(『文藝春秋』2021年9月号芥川賞選評より)

この言葉には、賛同できる部分と、違和感を覚える部分があります。

「たとえ失敗しても、何かをやろうとしたことに意味がある」という部分には同感です。

けれど「何を描くか」「何を語るか」「どんな主題を扱うか」「どんな文体を選ぶか」よりも「何をやろうとしているか」が重要だという部分には違和感を覚えます。

題材、テーマ、文体、構成、キャラクター、そういうものがすべて統合されて小説ができていて、そこから「何をやろうとしているか」が滲みでてこなくては読者には伝わりません。

諸要素よりも「何をやろうとしているか」が重要という言い方は、威勢はいいけど実質を伴わない乱暴な言い方に感じます。

マルセル・デュシャンという人が、便器を展示して「泉」というタイトルをつけたアート作品がありました。

これが芸術といえるのか? という論争は今もあるでしょうが、現代のアーティストがやったら笑われるだけです。今となっては小学生でも考える発想です。

しかし、その時代の凝り固まっていた美術観を打ち破るという意図としては成功したので、美術史には残っているのだと思います(感動する作品ではありませんが)。

新しいものを創造するには、古いものを破壊しなくてはいけないという考え方があります。

だけど、壊すべきものを間違えたり、壊すこと自体が目的になれば、ただの破壊者です。

人々の願望をすくい上げて既成概念を壊した者は英雄と呼ばれますが、己の願望に従って破壊するだけでは犯罪者です。

小説で新しいことをやろうとするのであれば、小説の既成概念との戦いです。

「何を描くか、何を語るか、どんな主題を扱うか、その主題のためにどんな文体を選ぶか」を無視したものは、もはや小説ではないでしょう。

白紙の原稿用紙を重ねて「これは、自分の言葉を失った現代人を象徴した物語だ」などと言ったところで、アーティストにはなれるかもしれませんが、作家ではありません。

また、松浦さんのおっしゃる文学観に、受賞作となった『貝に続く場所にて』が則していると言えるのかも疑問でした。

3.11をいかにして文学作品へと昇華するというモチーフから書かれた作品はすでにかなりの数にのぼるが、サバイバーズ・ギルド(生き残った者の罪悪感)を抱えつづけることの意味を、こうした意表を突く設定で描き切った力業に敬意を表したい。その「罪悪感」が「透明に抜け落ちる」とされている結末を、いい気なものだと評する意見も出たが、わたしとしては、佶屈のうえに佶屈したスタイルで、これだけの量の言葉を費やして執り行われた「祓い」の儀礼によって慰藉を得られると信じたいのなら、それもまた作者の権利ではないかと思われた。(同)

この受賞作の、どの点において「何ごとかをやろうと試みたという気概と意欲」を感じられたのかが、いまいちわかりません。

「意表を突く設定」でしょうか?(※ただし、それは重要でないとおっしゃった「何を描くか」の範疇になってしまいます)

松浦さんの文学観には、賛同できる部分と違和感を覚える部分があるのです。

また、これも読書会で読み上げた文章ですが、作者の石沢麻依さんはインタビューで以下のようにおっしゃってました。

私は幽霊にこの作品では重要な役割を与えていますが、安直に使ってはいけないと考えました。今でも帰りを待っている方が大勢いるのです。それなのに私が、家族や友人、恋人が帰ってくるという小説を書いてしまうと、土足で強い関係性に踏み込んで、勝手に利用していることになる。そこは非常に大事で、触れてはいけない部分ですから。(『群像』2021年9月号受賞者インタビュー)

僕は、土足で踏み込んでいって描くことこそが作家の役割だと思います。もちろん幽霊を家族や恋人にした方がいいという、表面的な意味ではなく、創作姿勢についてです。

土足で踏み込むには勇気と責任がいります。でも、書くことに真摯であれば、あるいは書かざるを得ない気持ちがあれば、踏み込むべきなのではないかと思うのです。

だから、石沢さんの発言は批判を回避する建前のように聞こえてしまうのです。読書会で、安全なところから書いていると言ったのはこの辺りの印象です。

もう一つ、思い出しました。村上龍さんの言葉です。

「作家が自由なのは、作品のモチーフを選ぶときだけで、あとはそのモチーフが、文体、プロット、構成などを規制する。作品のテーマが、作者の構想、作業を規定するのだ」(『文藝春秋』2016年3月号芥川賞選評より)

僕はこの意見の方がしっくりきますが、村上さんが正しいとも、松浦さんや石沢さんが間違っているというつもりも、ありません。

どれも「文学とは何か?」に対する、ひとつの答えです。

ああでもない、こうでもないと、言葉を用いながら、今生きている人たちが、答えを求め続けていくこと自体が、文学なのだと思ったりもします。

まさに、作家自身も空地さんの言う「避けられない問題に対して、何とかして取り組む人々」です。

間違ってもいいし、考え方を変えてもいいのです。それは死んでしまった作家にはできないことです。

いま、生きている同時代の作家は、勇気をもって断定していくことも、それに対して批判を受けて、対話し、また新しい言葉を見つけていくことが、役割なのだと思います。

空地さんの「物語の定義」を聞いて、思ったこと、感じたことを、とりとめもなく書きました。

「文学とは何か?」という問いは今後もつづけていこうと思います。

緋片イルカ 2021/09/19

SNSシェア

フォローする