ある物語をいくつかの観点から評価する際、「プロット/ストーリー」という項目に、いわゆる設定や世界観と呼ばれるものや、題材などを含めるのは妥当かという議論があった。
結論から言うと、僕は含めるべきではないと思っている。
題材
例えば題材。題材を「ストーリー/プロット」に含めるかどうか以前に、そもそも「ある題材を選んだこと」は、作品自体の評価の対象になるべきではない。勘違いしている(あるいは意図的に誤謬している)者が非常に多いが、重要なのは題材をどのように扱うかであって、題材そのものに価値判断の余地はない。
この種の誤謬のせいで、例えば近年のアカデミーをはじめとしたハイ・カルチャー界隈では、「性的マイノリティ」「アジア人」「従属階級」といった題材を使ったというだけで正の評価を受けたり、逆に裕福な白人男性の活劇はネガティブな評価を受けやすかったりする。
では、題材が評価と無関係であるかといえば、もちろんそうではない。物語を作るうえで評価されるような扱い方をしやすい題材は当然考えられるだろうし、そういった題材を選択するセンス自体は、作品や物語とは別の部分——たとえば作家性として——評価することも可能であろう。
世界
一般に、「世界観」「設定」と呼ばれるものもまた「ストーリー/プロット」に含めるべきではない。しかし、世界は題材とは異なり、それ自体が単独で評価の対象たりうる。
例えば以下のビデオゲーム。
『Atomic Heart』(2023)
一見しただけでも世界のユニークさには眼を見張るものがあるのがわかるだろう。トレーラー用のハリボテだというわけでもなく、実際にプレイしてみても、『Atomic Heart』における虚構世界は、実に精巧に、ボリューミーに、ユニークで魅力的に作られた、評価するべきものであるのがわかる。
では、『Atomic Heart』のその評価すべき「世界」が、ゲームプレイや物語の、あるいは「プロット/ストーリー」の面白さに繋がっているかというと、そこには有機的な繋がりはほとんど見られない。素晴らしい虚構世界を作るだけでは、作品——というより物語——は面白くならないのだ。
ここでは詳しく論じないが、参考までに、往年の傑作『BioShock』(2007)を比較対象として挙げておこう。両者は非常に共通点の多いビデオゲームであるが、『BioShock』においては、その虚構世界はストーリーやテーマ、ゲームデザインと密接に絡みあっており、作品の面白さを担保するうえでの欠かせない要素となっている。
評価の難しさ
単独で評価できる要素をひとつの評価軸にまとめてしまうことで、評価という行為自体がスポイルされることがある。
『Atomic Heart』の例で言えば、(5点満点で考えるとして)「世界観/設定」は文句なしの5点である一方、「脚本/プロット/ナラティブ」は2点ほどの評価しかできない。すると、両者をまとめた「ある評価項目」の点数は3.5点ということになるが、その点数は『Atomic Heart』の虚構世界の評価としても、ストーリーの評価としても、まったく役に立たない。
作品や物語の評価という行為はかなりセンシティブで、万人が納得できるような評価基準を制定するのは難しい。共通言語としての評価軸の制定には意味があると思うが、作家や批評家は、自分なりの評価軸を別で持っておくべきである。
空地カラス
記事ありがとうございます。小説への採点制度へのご意見かと思います。所見を述べさせていただきます(他の方へのメッセージも込めて)。反駁ではありません。
僕の想定する「題材」の評価は「商業的なネタ」という意味合いが強く、たとえばテレビドラマでは題材として時事のネタを取り入れることが商業的に効果を上げることが多いし、文学のような作品でも長いスパンでも時代ごとのネタがあるように思います(戦争とか)。過去に作品として取りあげられていない「題材」には希少性や新奇性があったりして、こういったものには「題材」としての価値があるように思います。商業的な意味ではとくにそうだし、「今まで無視されてきたマイノリティに注目を集める」といった意味合いは物語が社会に与える影響としての価値があるように感じます。
記事で例に挙げられている近年のアカデミーのような題材は、旬という意味ではもはや新奇性に欠けるので、題材としての評価は低くなると思います。ストーリーサークルでは「視点」+「題材」=「テーマ」としていますが、旬でない題材には独自の視点、新しい視点などがないと二番煎じになると思います。とはいえ、旬を過ぎた題材でも、そこそこの評価を受ける現状があるなら商業的には価値は残っていると言えてしまう気もします。
判断基準に、商業性を加味するかは価値観によるので、仰る通りの「自分なりの評価軸」をもつことで、良いのでないかと思います。僕は自分の基準として「高尚なテーマであろうとエンタメ性を保持するべきだ」という考えをもっているので、僕にとっては商業性は評価としてはプラスに感じます。別の価値観の人が、別の評価をするのは構わないし、むしろその方が採点に意味がでるとも思います。みんなが5点を付けてしまったら「そうだよね」で話は終わってしまいますが、一人でも1点をつけた人がいれば、その人の意見をぜひに聞いてみたくなります。ちなみに、分析会でも必ず言っているつもりですが、採点自体を拒否することも自由です。
そもそも点数など付けようのない「物語」に、あえて採点をするというやり方は認知行動療法の手法からくるものです。痛みや苦しみのような、あいまいな感覚に主観的な点数をつけつづけることで自分の中に基準が養われていき、客観視する能力が養われていくことを想定しています。この意味では1回や2回つけても意味がなく、つけ続けることが大事です。あえて数字にすることで、他者の感覚を想像しやすくなったり、平均との比較で、「自分なりの評価軸」も浮かびあがってくるのではないかと考えています(※誰しも無意識では評価するような読み方をしていて、それを点数をつけることで無理矢理にでも顕在化するかどうかの違いとも思いますが)。ご承知の通り「万人が納得できる評価基準」をつくることが目的ではなく、むしろ僕自身が「自分なりの評価軸を持つ」ために採点をしていきたいと考えています。
「分析」は長所を見つけたり、欠点を見つけて修正点を探るために行うものであり、そこに基準となる項目があるだけで、見つけやすくなるのではないかとも思います。病院の問診票のようなものです。物語を読んだとき、一般の人は「好き嫌い」や「面白かったかどうか」の主観的な感情ばかりで判断しがちですが、項目を意識することで学習者に気づきを生んでいけるのではないかとも期待しています。初心者には「プロット」と「キャラクター」のような違いすら意識できていない人もいるので、採点作業をくりかえすことで、「プロットって何だ? キャラクターって何だ?」と考えるきっかけになればと願います。
何にせよ、課題は項目の数と種類だと思います。今回の記事は、貴重な意見として非常に参考になります。
もちろん項目が無数に増えていくと実用性がないという弊害が生まれます。個人(僕自身)が作品を読んだときに面倒だと思うようなものは使いたくありません。けれど、大きくスポイルされるような項目は、少しで分けて増やしていく必要があると思います。完璧ななどできないと思うので、どこで割り切るかでもありますが。
記事を拝読して「設定」ないし「世界観」のような項目を追加するとか、はっきりと「商業性」という項目を作ってしまうのも良いかもしれないと思ったりしました。分析会でもお伝えしたとおり、僕も自信もないまま叩き台として決めた仮の項目でしかなく、今後、改善していく前提で動かしています(動かしながら、そのうち固まると期待しながら)。また、今度、じっくりとお話させていただければ嬉しく思います。記事のつづきも楽しみにしております。