『父という病』岡田尊司(読書#19)

(051)父という病 (ポプラ新書)

前回、ご紹介した『母という病』とはタイトル通り対をなすような本著。
まずは父親という立場の変遷から、

 二十世紀の初め、フロイトが精神分析を創始してから半世紀近く、その中心にあったのは父親だった。フロイトがエディプス・コンプレックスを発見したのは、フロイト自身の自己分析によってだ。父親に対して恐怖と嫉妬を覚えていたが、それが何に由来するかと考えたとき、母親に対して性的な願望をもっていたからではないかと自己分析したのだ。(中略)
 だが、それはフロイトが強い家父長制の時代に生きていたからった。今日のように、母親との関係が問題の中心になる時代が来ようとは、フロイトも思わなかっただろう。(中略)
 母親の役割の重要性に着目した先駆者は、やはり女性だった。そのひとりメラニー・クラインは乳幼児からの母親との関係が、あらゆる対人関係の基礎を築いていくことを見出した。(中略)
 さらに、母親の重要な役割について研究を進めたのが、イギリスの医師ウィニコットやボウルビィだった。ウィニコットは、「ほどよい母親」が、乳児期の子どもに対して、母性的没頭を捧げることが、子どもの健全な発達のベースになるとした。しかし、「ほどよい父親」の必要性については、特に述べなかった。(中略)
 さらにその状況を加速したのは、自傷行為や自殺企図を繰り返す境界性パーソナリティ障害の存在がクローズアップされ、乳幼児期の母子関係に原因があると考えられ始めたことだ。(中略)一九六〇年代以降、母子の愛着が、父親との関係など及びもつかないほど、子どもの生存と安心感の確立に深く関わっていることが明らかにになっていく。
 いつのまにか主役の座が、すっかり入れ替わったのだ。

 こうして強い家父長権が前提となっていた父親への恐怖と反逆のエディプス神話は、その前提から崩れ出した。不在の父親は、もはや子どもの強い恐怖も反逆心も催させることがなくなり、激しい葛藤を生じさせる相手ではなくなった。代わりに生まれたのは、家に残された母と子の密着という事態だ。いうなれば、母と子の精神的な”近親相姦”が、ごく普通のこととなったのだ。(中略)
 そうした流れに警鐘を鳴らし、改めて父親の重要性を指摘したのが、フロイトへの回帰を主張したフランスの精神分析医ジャック・ラカンだった。ラカンは、枠組みを与える父親の機能を、「父の名(ノム・ド・ペール)」と呼んだ。「父の名(ノム・ド・ペール)」は「父の名(ノン・ド・ペール)」でもあり、父親の存在は、掟に背くことをダメだと禁止することによって、野放図な欲望をコントロールする働きをもつと考えた。(中略)
 ラカンは、子どもは母親の欲望を映しだ出す鏡だと捉える。しかし、母親の欲望に呑み込まれたままでは、健全な成長が遂げられない。そこに、父親の役割が必要になってくる。(中略)たとえば、母親に対する欲望が際限のないものにならないように、父親はそれにブレーキをかける役割を果たしている。また、母親に呑み込まれるのを防ぐべく、外の世界へと連れ出す役割を果たす。こうした父親の役割が、子どもがバランスよく育つためには必要だということになる。

父性と母性のちがいを生物学レベルで見てみます。

 父親と母親の役割の違いは、ホルモンレベルでの静物描く的な違いでもある。子どもとの愛着や意気地を支えるホルモン的な仕組みは、愛着システムと呼ばれ、オキシトシンというホルモンによって司られている。このオキシトシンが母性の正体だ。
 一方、父親では、アルギニン・バンプレシン(以下、バンプレシン)というホルモンが重要な役割を果たしている。これが父性を支える生物学的な仕組みと考えられている。(中略)
 バンプレシンは、オキシトシンと構造の類似したホルモンであり、どちらも子育てや愛情にかかわっているが、その働きは、オキシトシンと興味深い違いを見せる。
 オキシトシンが、心を落けさせ、活動を鎮静化し、じっとしていることに耐えやすくするのに対して、バンプレシンは、活動性を高め、愛着した存在を守るために探索や攻撃を活発にする。(中略)
 この攻撃性の強さは、父親に二つの顔を与えることになる。一つは、強く頼もしい庇護者としての父親であり、もう一つの顔は、恐ろしい畏怖の対象である父親だ。

 オキシトシンとバンプレシンの働きには、他にも対照的な違いがある。その一つは、オキシトシンが関心を人に対して向けようとすることに関係が深いのに対して、バンプレシンは、事物に関心を向けることに関係していることだ。
 関心の性質も異なっている。オキシトシンは共感的な関心にかかわっているのに対して、バンプレシンは、敵を見定めるための冷徹な関心にかかわっている。オキシトシンは優しい愛情に、バンプレシンは厳格な支配に関係していると言えるかもしれない。そうした

愛着との関連、オキシトシンとバンプレシンのバランスから、父性のタイプを分類しています。以下は要約。

①愛情深く、強い父親(オキシトシンもバンプレシンも豊かなタイプ)
・安定・外向型。
・愛情深く、絆も安定している。
・行動的で強くたくましい父親。
・古き良き時代の理想的な父親像。
・フロイトのようなタイプ。
・偉大すぎる父親をもつことにより、理想像に縛られてしまうこともある。

②自己愛的な父親(オキシトシンは乏しいが、バンプレシンが豊かなタイプ)
・不安定・外向型。
・攻撃的で、行動力があり、男性的。
・愛情や絆の安定性には欠ける。
・子どもに対しても妻に対しても横暴で、自分勝手。子どもや妻を捨ててしまうことも多い。
・浮気性。家庭には落ち着かず、次々と浮名を流す。
・優れたもの美しいものを好み、劣ったもの欠点を嫌う。優れた子どもを愛するが、劣った子どもや失敗した子どもには無関心。憎み、忌み嫌うこともある。
・反社会性タイプになる。

③母性的な父親(オキシトシンが豊富だが、バンプレシンが乏しいタイプ)
・安定・内向型。
・愛情深く、よく世話をし、絆もしっかりしている。家庭的で、育児にも協力的。
・攻撃性や行動力には欠ける。
・穏やかで落ちついた生活を好む。
・男性的な魅力には欠け、冒険心も乏しい。
・ピカソの父ホセのようなタイプ

④回避的な父親(オキシトシンもバンプレシンも乏しいタイプ)
・愛着や子どもへの関心が乏しいだけでなく、行動力は冒険心にも欠ける。
・積極的な社交やチャレンジも避ける。
・もっとも存在感の乏しい父親。
・回避型は、親密な信頼関係を好まない。シゾイド・タイプ。
・子どもをもち、世話をすることで愛着が活性化することもある。
・ユングの父パウルのようなタイプ。

 子どもは父親の偉大さやパワーというものに同一化し、それを取り込む一方、父親とは違う独自の自分を確立していかねばならない。父親が理想像として貧弱過ぎ、失望の対象でしかないとき、その子は他者に対する尊敬や自分に対する尊敬を育みにくく、冷笑的で、ニヒリスティックな人格になる。偉大な価値を信じ、それに向かって強い意志で進んでいくというエネルギーをもつことができない。しかし、逆に父親が偉大過ぎ、その存在の大きさを乗り越えられないと、同一化が思春期以降も続いてしまい、父親という縛りから抜け出せなくなってしまう。

 現実に父親がいるかいないかよりも、どういう父親像をもつかが重要だ。父親とは、現実の存在以上に、いわば社会の掟や秩序の体系を象徴する存在でもある。たとえ現実の父親がそばにいなくても、周囲の人が、不在の父親に対して払う尊敬や畏怖の念によって、子どもは父親のイメージを手に入れ、敬いや怖れを抱いたり、同一化することができる。その場合、重要になるのは、母親が心の中に抱く父親像であり、また母親が子どもの父親をどう思っているかということだ。

父親の不在がもたらすものについても引用します。この場合の「不在」は現実にいるかどうかではなく、存在感としての不在です。(以下、要約)

①母親への依存と母子融合
二歳頃から母子分離を始めた子どもは、三歳頃、再び母親に甘える「最接近期」。このとき、外界を探索したい欲求と、母親の庇護に頼りたい不安で葛藤している。この時期の介添え役として父親の存在がある。それがうまくいかないと、母子融合が続き、子どもは母親に執着し依存する一方で、母親に対して支配的で、攻撃的になる。

②誇大な願望と自己コントロールの弱さ
父親は子どもに社会の掟や現実の厳しさを教えこむ役割がある。過剰な受容や甘やかしが行き過ぎると、子どもの中に自分を律するブレーキ機能が育たない。誇大な万能感や自己顕示性がそのまま残り、社会適応を妨げる。

③不安が強くストレスに敏感
父親が社会へ歩み出す助けをするファシリテーターになれないと、生ぬるい空想に子どもをとどめ、外界での現実的なアイデンティティの確立を、ハードルの高いものにする。うつに罹患するリスクや、不幸だと感じている割合も高くなる。

④三者関係が苦手
複数の関係よりも、一対一を好む。一対一でしか、安心して自分を出せない。父親が機能的に不在だと、第三者は邪魔者としか感じられず、不満と疎外感を覚え、集団不適応の原因ともなる。

岡田さんのエディプス・コンプレックスの現代的に問い直す視点はとても鋭いと思います。

 母とまぐわい、王である父を殺す運命にあるとの不吉な予言を免れるために、川に捨てられたエディプスが、農民夫婦に拾われて育てられ、その予言を実現してしまうという悲劇は、現代的に解釈すれば、見捨てられた子どもの、無意識的な復讐の物語だとも言えるが、そこには、語られていないもう一つの無意識のダイナミズムがある。それは、子どもを奪われた妻の夫に対する怒りであり、子どもを取り返そうとする怨念だ。それが、子どもをして夫を排除させ、、母子の密着した関係を取り戻させる。言うなれば、母親の願望を体現した息子が、父親から母親を奪い返すということだ。
 そうした事態は、現代では珍しくない。父親殺しに加担するのは、子どもの無意識的衝動だけでなく、子どもを自分だけのものとして取り戻したいという母親の無意識的願望のなせる業でもある。(中略)エディプス的な願望は、子どもの願望である以上に母親の願望であるということだ。それは、エディプス・コンプレックスというよりも、母親イオカステーの欲望に子どもが呑み込まれた結果だと解することもでき、イオカステー・コンプレックスという名の方がふさわしいのかもしれない。

父親のDVのような暴力行為の背景にも、母親によるコントロールが働いている事例がいくつも紹介されています。

さいごに紹介されている医療少年院に送られてきた少年の話にも考えさせられるものがありました。

『母という病』を読まれた方には、この『父という病』も合わせて読むことをおすすめいたします。

緋片イルカ 2020/02/12

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