飼い馴らされた文学(文学#83)

飼い犬は主人に従い役目を果たすことで、エサを与えられる。

主人に「人を喰い殺す命令」をされて、殺した犬には罪はないのか?

飼い主の犯罪になるだろうが、それは人間の法律でのこと。

動物は下等生物で命令に従うしかない、というのが人間の見立て。

人間は違う。人間性がある。

だから、マインドコントロールされて人を殺せば、飼い犬のような人間も罪に問われる。

物語の役割は、社会に向かって無意味に吠えたり、噛みつくことではない。

だが、本質的な問題に抵抗しなくてはならない。それが人間性であろう。

抵抗しているように見せて、その実、従っているような物語は飼い馴らされた文学だ。

吠えているようで、主人が許容してくれる範囲をわかった上で吠えるあざとい飼い犬だ。

手に負えなければ処分される。

だが、それは飼われることからの解放も意味する。

自由であることは難しい。支配は無意識でなされる。

経済活動での難しさではない。金持ちを見ればわかる。

貧しさからの解放を求めて裕福になった者は、経済活動の維持に縛られる。

売れている作家――生活に困らないほどに売れている作家は、文学性を問われる。

噛みつくように言えば、こうだ。

「生活に困ってもいないのに、そんな物語を書いて、まだ金儲けをしたいか?」

同様の言葉が、売れたいと夢見る作家にも投げつけられる。

「お前は所詮、金が欲しくて、書いているだけか?」

社会や経済に無自覚で書いているのか、自覚的に書いているのか。

無自覚であれば不幸か、あるいは作家として未熟だ。

自覚的であれば罪深い(もちろん僕自身を含む)。

アークプロットのようなエンタメ構造は全体主義のような力をもっていると感じる。

社会に抵抗する者を主人公に据えたところで、ドラマツルギーの命令に逆らえなければ、それは飼い馴らされた文学だ。

吠えたところで主人の命令に逆らえない犬と同じで。

飼い馴らされていても、無意識的な支配に抗おうとしている姿勢に好感をもてる物語もある。

ある一線を越えて、主人から解放をされた自由が描かれた物語は魅力的ではあるが、独善的でもある。

自分だけが自由になれても、社会は良くならない。

それは解放を目指す文学ではなく、絶望した文学に過ぎない。

絶望の先には必ず死がある。死による解放を求めるのは、生の否定でしかない。

死に憧れるではなく、安直に否定するのでなく、死を乗りこえることは、神話の時代から続く物語の使命でもある。

社会の主義や経済活動、肉体的な死の恐怖など、無意識的な支配に飼い馴らされてはならない。

本当の自由を求めて抗わなくてはならない。

緋片イルカ 2023.6.15

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