【物語にできること(5)】(文学#14)

前回まで「言葉」や「物語」を信じることはその人の生きることそのものであるが、一つの「物語」を崇拝するかのように囚われて、思考を放棄することは「固定観念」であることを考えてきた。

最後に僕の考える「物語」や「文芸」の意義について書いておわりにしたいと思う。

思想史について専門ではないので、まちがいもたくさんあると思うが、僕なりの「モダン」「ポストモダン」という捉え方がある。

「モダン」は近代。文学でいえば明治時代。夏目漱石や森鷗外のころをイメージする。
鎖国をしていた日本は黒船以降、諸外国に振り回されて「この国(日本)をどうするか」という状況に追い込まれていく。

どの本で読んだのか忘れてしまったが、ムラ社会では「わたしとは何か?」という問いかけは必要なかったという。生まれたときから、八百屋のタロウなんてアイデンティティが作られていて、将来は親の跡を継ぐこともきまっている。都会にでていこうなんて発想も願望もなければ、迷うこともない。もちろん変わり者はいただろうが、交通網が発達していて、情報も入ってきて、都会に憧れをもって「おら、こんなムラいやだ」と出ていくのとはちがう。こんな時代に、ムラをわざわざでていくのは相当な変わり者か、村八分にされたり罪人が多かったろう。

交通や情報が発達することで、ムラは拓かれていく。日本という単位で考えれば、明治以降の動乱といえよう。漱石も鴎外も日本をでて(税金で)「この国をどうするか?」という模索とともに「わたしはどう生きるべきか?」という疑問を持ったであろう。近代的自我などという言葉もある。

時代的な動乱は、それまでの価値観を壊す。これまでに書いてきた例でいえば、「努力すれば夢は叶う」と信じていた者が、夢破れた心理と似ている。

その後、戦争に突入し「軍国主義」へと傾いていく。
これは民衆の思考の放棄であり、民衆に恐怖や不安があったことの裏返しでもあるし、ある時期から負け戦をやめられなかったのは固定観念でもある。神風なんて神話まで持ち出して物語に囚われていたともいえる。

ともかく、戦争に敗れ、また新しいアイデンティティを模索することを求められる。
平和を喜ぶのは一般的な感覚だろう。衣食住に不自由をしている状態からすれば、経済の発展はありがたい。復興や発展は平和の象徴で、誰もが求めていた。ここでは「経済成長の神話」がうまれと言える。イザナギ景気とか、ここでも神の名前が持ち出されているのも意味深い。

「ポストモダンとは大きな物語の終焉」という言葉があるが、まさにこういった神話が崩れたときがポストモダンの始まりである。

(長いので次回につづける)

緋片イルカ 2019/10/20

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