AIが作るプロットについて(三幕構成49)

最近、身近な人数名から「AIで、こんなにプロットが作れてしまう!」という情報をもらった。

そのうち、一つは「Save the cat」のビートシートに則って作ってくれるという。

作家としては向き合わなくてはいけない問題にも感じるので、現時点での考えをまとめてみる。

AIで物語を分析したり、作るという試みは昔からあって『ベストセラーコード』は2016年。

最近は、どうなっているか知らないが「ドラマティカ」のような、専用ソフトは20年以上前からあるはず。

なんだか、手塚治虫のやつもあった(参考:手塚治虫AIのマンガ『ぱいどん』に欠けているもの(三幕構成14)

そんな中で、最近のAIでは「誰でも、手軽に」が加わって、物語の特に「構成」に興味がある人たちの中でちょっと騒がれているのではないかと感じる。

僕自身は、本格的に使ってみたことはないが、作られたプロットを読んだときの、率直な印象は「よくできてるな」というかんじ。良い意味でも悪い意味でも。

ビートをそれなりに押さえているし、面白い要素をとり入れていて、良くできている。

けれど、良くできているだけで、本質的な面白さではない。

物語として新しくないという方が近いかもしれない。

「面白い要素」もクリシェだし(AIの仕組みを考えれば当然か?)、血の通っていない味気ないかんじがする。

この記事で「芸術がAIに可能か?」とか踏み込むつもりはないが、率直に「おお、面白い!」と感情を動かされるようなプロットではなかった。

主観的な意見ではあるが、「感情を動かす」というところに物語の中心的な役割であって、それをAIが担うことができるかというと、今のところは怪しい。

AIが書いていようが、人間が書いていようが「良くできている」だけでは人を感動させれらない。

「AIが書いた」という文言を切除して考えたら、どうだろう。

格付けチェックじゃないが、プロデューサーなんかにAIが書いたと隠してと読ませたら「よく書けてるけど、なんか物足りないね」とか言われそうなかんじ。

AIの文章が人間の感情を動かせるのか?

それができるとしたら、たとえば、精神科医をAIが担えるような世界ではないか?と想像する。

「感情操作」がそこまで理論化されている社会であれば、AIが作った物語に人類が一喜一憂されているかもしれない。もちろん完全に管理・支配されているSFの世界みたい。

逆に言えば、そこまでの社会にならなければ「AIには感動的な物語は書けない」とも言えるのではないか、と僕は思う。

シンギュラリティなんて言葉も、最近はあまり耳にしなくなったが20年後ぐらいにどうなっているかはわからない。

自分が生きている間に、そういった大きな変化が来るかどうかもわからない。

ただ、現時点としてAIの物語なんてマダマダだなというかんじ。

ただし「よくできている」ことは事実でもある。

そこそこでも、よくできているなら、使い道はあると思う。

例えば、見習い中の作家は、師匠が受けた仕事のプロットや初稿を代筆することがある。

最近では、こういった徒弟制度はあまりないかもしれないが、文学村の「ライターズルーム」ではチームで書くという方針から近い感覚をもっている。

経験の浅いライターでも、チームの中で仕事をして、経験を積みながらレベルアップをしてもらう。昔のピクサーも、そうだった。

初稿は雑でも、おおよその構成や魅力的なシーンがあれば、ベテランがブラッシュアップしていくことができる。

けれど、AIに「よくできているプロット」を創れてしまうとき、見習いは必要だろうか?

「ライターズルーム」のように「育てる」という名目の下では「AIより下手でもいいから、経験を積ませる」ということをするが、それでも費用対効果もある。

AIの強みは何よりもスピードだろう。

見習いに頼んで1週間もかかるプロットと、打ち込んだら数秒で出来上がるプロットと、後者の方が面白かったとき。

見習いは相当の危機感をもった方がいいと思う。

「AIすげー!」などともて囃してないで「AIに仕事を奪われる」と焦るべきではないか?

AIには出来ない大きな要素は「描写」である。

何年か前に、AIが書いたショートショート小説が、コンクールで何次通過したというようなニュースがあったが、これも技術としての凄さはあれど、作品としてのレベルはその程度ということ。

『ベストセラーコード』にあるように英文の分析にかけては、ベテラン編集者の感覚を凌駕するほどの結果を出しているが、日本語ではまだだし「描写する」=「本文を書く」となるとマダマダ。

AIが「よくできているプロット」を創ってくれても、それを「描写」するのが腕がないライターだったら、つまらない作品にしかならないだろう。

逆説として、面白い「描写」ができる作家は、そのシーンの片鱗が「プロット」にも込められている。

AIのプロットを読んだときに感じた、面白くなさ、味気なさの原因はそこだとも思う。

物語のセンスがある人が、AIに対する指示を工夫していったら、そのあたりも改善していけるかもしれない。

たとえば、古今東西の名ゼリフをビッグデータ化して、今の時代の空気感をジャッジする項目も追加して、いくつかの候補を挙げさせる。

けれど、その候補から「これにしよう!」と判断する人は、所詮は作者だ。

結局は、作者が自分でたくさんの物語を入力(見たり呼んだり)して感性を磨いていなければ「判断力」が養われないし、「判断力」があれば作者自身が考えられるはず。

「構成」という観点からも、そもそも「Save the cat」のビートシートなど時代遅れである。古い型に則ったところで、古い構成にしかならない。
参考:『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』に潜む3つの問題点(中級編6) ※ちなみにブレイク・スナイダーのビートシートは20年以上前の最新です。

ハリウッド映画を見ればわかる。

日本でも公開されるようなハリウッド作品を書けるレベルの脚本家は、学生時代にビートシートなんて当たり前に習っている。

それでも、ハリウッド映画に面白いものと、つまらないものがあるのは何故か?ということ。

新しいタイプの「面白い物語」が出てきて、それをAIに取りこんでいき、2匹目、3匹目のドジョウ作戦はあるかもしれない。

でも、その新しいタイプの物語を書くことが、クリエイターの役目ではないのか?とも思う。

そんなことを考えていると、いろいろと使い道の可能性は出てきていると思うが、まだまだ、現時点では、AIプロットの実用レベルには遠いのではないかと感じる。

僕は技術に疎いタイプではあるが、頭ごなしに「AIなんかで作れるか!」というスタンスでもないので、今後もアンテナを張って、使い道を模索していきたいとは思っている。

現時点で一番、効果的かもしれないと思うのは「学習目的」。

ビートを理解できていないレベルや、使いこなせていないレベルの人に、AIのプロットで作品を書かせてしまう。

あるいは、自分の作ったログラインから、自分の作ったプロットと、AIの作ったプロットを比べさせる。

こういう中で、AIから「よくできている」部分を学ぶことができるし、AIに欠けているものを考えることで「ドラマの本質」に気づけるかもしれない。

物語には、ある程度のセオリーはあるけれど、公式=フォーミュラーはない。科学のような絶対法則はない。

ましてや、物語は人間のためのもの。時代や個人によっても価値観は変わる。

そういう、感情や同時代の空気を読み取って、作品に込めなくては「面白いもの」(人の感情を動かすもの)にはならない。

AIのつくったプロットをもて囃している人で、早さではなく、ストーリー自体も凄いと感じてしまうレベルの人は危機感をもった方がいい。

「作家としての視点」をもった上で、使っていかないと、振り回されて、パターン化したハリウッド映画みたいな駄作しか創れなくなる。

これはブレイク・スナイダーのビートシートを絶対視して、発想を縛られている人たちに似ている(きちんと分析してみれば、ビートなどズレていても面白いものが、いくらでもあることがわかる)。

一方、うまく使えば、可能性があるのも間違いない。

もて囃してないで、うまく使う方法、工夫を考えて、積極的に使って行けば、自分にしか書けない物語の手助けになるかもしれない。

ビッグデータに頼ることで、自身の感性を磨かなくなるのも危険かもしれない。

学校教育でもタブレットや映像を駆使するようになって、空間認知やイメージ力は高まる反面、思考力や想像力は落ちている。

同じようにAIに頼る人が増えると、その部分での作家の能力、言うなれば世界全体の物語力が低下する部分があるかもしれない。

そんなとき、しっかりと自身の感性(たとえばAIの導き出したことへの判断力)を磨いている人の方が、AIを駆使した良い物語を生み出せるかもしれない。

誰にでも使えてしまうような技術は、自身が最先端を走っていない限り、周りからのアドバンテージは得られない。

物語は人類発生の頃から、紡がれ続けてきた歴史の深いもの。

携帯電話の技術のように、数年やそこらで、入れ替わるものではない。

自分という一人の人間、一人の作家として、何を描いて、何を残したいのか。

そういうところと向き合って上で、必要なら使えばいいし、必要でないなら無理に時代に付き合うこともないのではないかと思う。

緋片イルカ 2023.2.27
2023.3.1 一部修正

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