※漢字の答えは広告の下にあります。小説内にお題の漢字が出てくるので、よかったら推測しながらお読み下さい。
妻の浮気シリーズは「綺羅星」読めますか?(ゲス漢16)からの連作です。
わたしは、閉めた扉を押さえつけるように体をくっつけた。ひんやりとした真っ平らな感触が頬と首筋を冷やす。
寝室まで夫が追いかけてくるかもしれないと思ったが来なかった。来てくれなかった。怒ってるのかもしれない。あたり前だ。わたしのしたことを考えれば怒って当然だ。
鍵のない扉を死守しながら、それでいて、こじ開けて入ってきて欲しいキモチもあるのだ。
「ただの気の迷いだったんだ。もう気にしなくていい。忘れよう」
浮気なわたしを優しく抱き留めてほしい……。
「娘に感づかれるようなことはするな」
ピシャリと叩かれたように夫の険しい声が蘇る。
あんなに家族思いで、浮気なんか絶対にしない紳士な夫に、あんな言葉を吐かせてしまったわたしは妻失格だ。偕老同穴の契りを結んだはずなのに。
裏切るつもりなんかなかった。言い訳にしか聞こえないだろうけど、ほんとうに気がつかなかった。松山くんがわたしのをそういう目で見ていたことにも、松山くんに惹かれている自分のキモチにすら気づいてなかったのだ。
松山くんは高校のクラスメイトだった。
二年生の秋に席が隣になったことがあるだけだった。大学受験を意識して焦り始めていたわたしをよそに、松山くんは窓際の席で居眠りして先生に怒られてばかりいた。
「なあ、人間がぜったいに避けられないものって知ってる?」
眠そうな顔をしながら、へんな問いを投げかけてくる。
「なあに?」
「勉強できるくせに、お前、そんなことも知らねえんだな」
「なに、教えてよ」
「自分の頭使えよ。教科書ばっか読んでねえでさ」
男子から話しかけられるなんて皆無だったわたしが、松山くんに惹かれていくのは無理もなかった。
「お前って田部シメ子に似てるな」
「ん、だれ?」
「太宰治と心中した女」
「ええ、なにそれ、なんか気味悪い」
「いいじゃん。褒めてるんだって」
三学期になって席が離れてしまうと、松山くんと話さなくなった。
通学路で一緒になってあいさつしても、んんっと返してくれるだけだった。二人ともあまり喋るタイプではなかったから、席が隣同士という大義名分がなくなってしまうと、話しかけるきっかけがつかめなかった。やがて受験勉強に追われはじめて、松山くんのことは疲れたときにふっと想い出すだけになって、その時間もだんだん短くなって、ついには目が合ってもさっと逸らすようになった。それでも、何度も目が合っていたのはお互いが意識していたからかもしれない。
大学に入ると初めての恋人ができた。綺羅、星のごとく居並ぶ可愛い子達の中からわたしなんかを選んでくれたのが今の夫だった。
赤ん坊を身ごもった。十八歳だった。
大学は中退して籍を入れ、翌年には息子を産んだ。
両親は驚いたけど反対はしなかった。まだ女は結婚して当然と思われている時代だったし、相手が良家なのも幸いした。もちろん夫の人柄も申し分ない。
あれから二十九年、妻として貞淑に努めてきた。
それが、こんなキモチになる日がやってくるとは想いもよらなかった。
あの日、松山くんと再会するまでは……。
(つづく)
今日の漢字:「偕老同穴」(かいろうどうけつ)
1:偕老は生きてはともに老いる、同穴は同じ穴に埋まる=同じ墓に埋まるという意味。夫婦の契りの固さをいい、結納などでも使われる言葉。
2:深海に住む海綿動物のこと。
(緋片イルカ2018/11/16)