『星の銀貨』グリム童話(三幕構成分析#22)

がっつり分析は三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。


音声で聴きたい方はこちらをどうぞ。

著作権フリーの作品を使ってビートを示してみます。

いうまでもありませんが、グリム童話は民話です。グリム兄弟が書いたお話ではなく、彼らが集めた民話です。民話とは民衆の間で語り継がれていた物語のことです。誰かが聞き集めて、文字にしなければ忘れ去られてしまいます。現代では民俗学者と呼ばれ、日本では柳田国男『遠野物語』などが有名ですが、『今昔物語』や『風土記』のような編者不明のもの民話といえます。ただし『古事記』や『日本書紀』のように国家権力によって作られたものは作為が含まれます(神を扱えば神話とも呼びます)。

こういった神話・民話からモノミスがつくられ、それが三幕構成へとつながっています。しかし、ブレイク・スナイダーのビートシートのような現代的なビートは民話にはあてはまりません。そのあたりの違いに注意しながら解説していきます。

短い作品なので、まずはビートを探しながら本文を先にお読み下さい。

青空文庫
『星の銀貨』(1036字)

※分析は広告の後から始まります。










『星の銀貨』(1036字)ビート分析

※本文中のルビはイルカが削除しました。

 むかし、むかし、小さい女の子がありました。この子には、おとうさんもおかあさんもありませんでした。たいへんびんぼうでしたから、しまいには、もう住むにもへやはないし、もうねるにも寝床がないようになって、とうとうおしまいには、からだにつけたもののほかは、手にもったパンひとかけきりで、それもなさけぶかい人がめぐんでくれたものでした。
 でも、この子は、心のすなおな、信心のあつい子でありました。それでも、こんなにして世の中からまるで見すてられてしまっているので、この子は、やさしい神さまのお力にだけすがって、ひとりぼっち、野原の上をあるいて行きました。


「主人公のセットアップ」:両親もなく貧乏な少女の設定が語られ、神さまにすがるというWANTもみられます。あくまで生存欲求なのでキャラクターとは言いがたいWANTです。民話は、いわば著作権フリーで語り継がれてきたものなので、話し手が自由に描写を加えることがあります。それが面白かったり矛盾点を解消している場合には改変された物語が語られていきます。このようにして多くの人に語り継がれるうちに構造だけが残り、三幕構成のビートへとつながっていきます。「野原の上をあるいて行く」というのが旅の始まり=「プロットポイント1(PP1)」です。

すると、そこへ、びんぼうらしい男が出て来て、
「ねえ、なにかたべるものをおくれ。おなかがすいてたまらないよ。」と、いいました。
 女の子は、もっていたパンひとかけのこらず、その男にやってしまいました。そして、
「どうぞ神さまのおめぐみのありますように。」と、いのってやって、またあるきだしました。すると、こんどは、こどもがひとり泣きながらやって来て、
「あたい、あたまがさむくて、こおりそうなの。なにかかぶるものちょうだい。」と、いいました。
 そこで、女の子は、かぶっていたずきんをぬいで、子どもにやりました。
 それから、女の子がまたすこし行くと、こんど出て来たこどもは、着物一枚着ずにふるえていました。そこで、じぶんの上着をぬいで着せてやりました。それからまたすこし行くと、こんど出てきたこどもは、スカートがほしいというので、女の子はそれもぬいで、やりました。
 そのうち、女の子はある森にたどり着きました。


「プロットポイント2」:森にたどりつき「野原を行く」旅は終わります。そして肌着までねだられるという最後の戦い「ビッグバトル」へと入ります、それを渡すことによって神の教えに従い(物語中にはないが、アブラハムが息子の命を捧げようとしたのと同じ論理が働いている)、銀貨を得ます。

もうくらくなっていましたが、また、もうひとりこどもが出て来て、肌着をねだりました。あくまで心のすなおな女の子は、(もうまっくらになっているからだれにもみられやしないでしょう。いいわ、肌着もぬいであげることにしましょう。)と、おもって、とうとう肌着までぬいで、やってしまいました。
 さて、それまでしてやって、それこそ、ないといって、きれいさっぱりなくなってしまったとき、たちまち、たかい空の上から、お星さまがばらばらおちて来ました。しかも、それがまったくの、ちかちかと白銀色をした、ターレル銀貨でありました。そのうえ、ついいましがた、肌着をぬいでやってしまったばかりなのに、女の子は、いつのまにか新しい肌着をきていて、しかもそれは、この上なくしなやかな麻の肌着でありました。
 女の子は、銀貨をひろいあつめて、それで一しょうゆたかにくらしました。

底本:「世界おとぎ文庫(グリム篇)森の小人」小峰書店
   1949(昭和24)年2月20日初版発行
   1949(昭和24)年12月30日4版発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
入力:大久保ゆう
校正:浅原庸子
2004年6月16日作成
2005年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

行ったきり帰ってこない物語

アクト2を「旅」ととらえるなら「出発」と「到着」としてのプロットポイント1、2が想定されます。しかし、この童話では「ミッドポイント」らしいものがありません。PP2とした「そのうち、女の子はある森にたどり着きました。」という一文があるので、シーンに変化が生まれていますが、この一文がなくても、物語は成立します。つまり野原を行く中で「肌着」をねだられても同じなのです。

これが「ミッドポイントがないこと」とも関連します。

つまり、この物語をキャラクターアークだけでとれば「行ったきり帰って来ていない」のです。帰ってきていない物語を喩えるなら、浦島太郎が竜宮城に行ったきり帰ってこないような物語です。

民話には元となる事件があったと思われます。物語を創作する作家はいなかったのです。浦島太郎でいえば「ある漁師が海にいったきり帰ってこなかった」という事件があって、それを天国で幸せに暮らしているという死者への弔いとして「竜宮城へ行って幸せに暮らしている」と空想したのかもしれません。または「海で遭難して行方不明になっていた漁師が、数年後に村に帰ってきた」という事件があったかもしれません。その男は、どこか違う国へ流れついていたのかもしれません。そういった話が、改変されて語られるうちに、いつしか「竜宮城に行って帰って来た漁師の話」になっていくのです。記録がないので、研究や推測はできても、確証は得られませんが、ただ事件を踏まえて民話が作られていったことは、多分にありえます。

この「星の銀貨」の主人公である、両親を亡くした貧しい少女が実際にいたのは、グリムの時代を考えれば不思議なことではありません。貧しい少女に誰かが、本当に銀貨を与えた事件があったのか、あるいは少女が盗んだ銀貨を神様にもらったと嘘をついたのか、あるいは誰も助けずに死んでしまった少女への罪悪感から美化する物語をつくりあげたのか、真相はわかりませんが、似たような事件があったことは考えられます。

ちなみに「(もうまっくらになっているからだれにもみられやしないでしょう。いいわ、肌着もぬいであげることにしましょう。)と、おもって、」という一文は、くり返し語られるうちに、倫理観が付け加えられたように感じられます(もしかしたらグリム兄弟か翻訳者が付けた?)。

こういう解釈をしていくと少女が辿り着いた「森」は死の世界で、死んで天国へと昇天したのだといった解釈をする人が必ずでてきます。これは「行ったきり帰ってこない」タイプの物語はすべて「死後の世界」という解釈をつけることができるからです。この手の「実は死んでいる解釈」は現代のアニメなどでもよくありますが、ただ物語構造のビートに気付いただけなのです。

「行ったきり帰ってこない」タイプの物語はモノミス上では、「父親との一体化」し「「究極の恵み」を得るところまでの物語といえます。

「父親との一体化」とは「神の教えとの一致」=「肌着をさしだす」

「究極の恵み」とは「銀貨」と解釈できます。

現代的なビートシートでは「行って帰る構造」すべてを一つの物語の中に組み込むべきというのがセオリーですが、それは面白くするためのセオリーで、物語の構造では行ったきり帰ってこない物語もたくさんあるのです。

それでも「森にたどり着きました」という一文が入っていることには意味を感じます。民話の語り手がリズムをつけようと、付け加えたように見えるのです。「さあ、いよいよ、最後の一枚」という盛り上げる演出があるように僕には感じるのです。いかに三幕構造が元型的かということです。

緋片イルカ 2020/04/07

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