1994年ヴェネチア映画祭で金獅子賞(グランプリ)以下10部門を独占制覇し、同年度のゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞外国語映画賞にダブルノミネート!
そんな傑作中の傑作が、HDマスター使用で遂に初DVD化!!【INTRODUCTION】
1994年ヴェネチア映画祭のフィナーレ、観衆の拍手は一人の若き映画作家のためにあった。金獅子賞(グランプリ)以下の10部門を独占した大傑作『ビフォア・ザ・レイン』の監督
ミルチョ・マンチェフスキー、衝撃のデビューの瞬間であった。ミュージックビデオやTV-CMの世界で活躍した彼ならではの、卓越した映像センスと確かな演出力、
更に自らが書き下ろした脚本の斬新さに、「処女作にして既にマスターピース!」「ロマン・ポランスキーのデビューを彷彿とさせる!」など各国のメディアは過去最大級の賛辞を送り、
星取りでは軒並み満点を与え、この新しい才能を誉め称えたのだ。【STORY】
やがて“メビウスの輪”となる三部構成の物語
■第一部「言葉」
マケドニアの美しい山岳地帯。歴史に取り残されたかのように佇む修道院で、沈黙の修行を守る若い僧キリル(グレゴワール・コラン)とマケドニア人戦闘部隊に追われ
この修道院に逃げ込んだ敵対民族アルバニア人少女ザミラ(ラビナ・ミテフスカ)の恋。民俗も宗教も言葉も異なる二人の恋の行方は悲劇を予感させる。
■第二部「顔」
ロンドンの出版社で働く女性編集者アン(カトリン・カートリッジ)の気持ちは、マケドニア出身の世界的戦場キャメラマンで愛人のアレックス(レード・セルベッジア)と、
愛してはいるが退屈な夫との間で揺れている。夫の子どもを妊娠しているアンだが、愛人からの一緒に故郷マケドニアに帰ろうとの誘いに悩んだ末、夫に離婚を切り出す。そこで凄惨な事件が起こる…
■第三部「写真」
マケドニア出身の世界的戦場キャメラマンのアレックスは、ロンドンでの生活も地位も名誉も捨てて故郷の村へと帰るが、そこは民族紛争で荒れ果て、人々は銃で武装していた。ある日アレックスの従弟が
アルバニア人に殺される。殺したのはアレックスの初恋のアルバニア人女性の娘ザミラだった。復讐の火蓋が切って落とされる中、彼の取った行動は…(Amazon商品解説より)
知らなかった映画でしたがDVDをいただいて見てみました。
構成が面白かったのでかるく分析してみました。
商品解説に「メビウスの輪となる」とある通り、時間軸をズラした構成です。
リンダ・シーガーの『アカデミー賞を獲る脚本術』(原書『Advanced Screenwriting: Raising Your Script to the Academy Award Level』)には、「循環型構成」として解説されています。
ちなみに時間ズラしで有名な『パルプ・フィクション』や『マルホランド・ドライブ』などはリンダ・シーガーの分類では「ループ型構成」で別になっています。
時間軸をズラす構成は、テーマを伝えるのに効果を狙って行わなければなりません。
「ああ、こうなるのか!」と観客を驚かせるだけでは、こけおどしに過ぎません。
この作品では、どんな効果が生まれているか? どんなテーマが読みとれるか? 客観的な視点から考えてみます。
以下、ネタバレを含みますので、ご注意ください。
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以下、ネタバレを含みます
三幕構成と三部の構成
この作品はテロップが入って、はっきりと分かれる三部構成になっています。
演出上の三幕構成(プロットアーク)では大きな「三つの死」がそれぞれプロットポイントとミッドポイントになっています。
プロットポイント1:アルバニア人少女ザミラの死
ミッドポイント:女性編集者アンの夫の死
プロットポイント2:戦場カメラマン・アレックスの友人(名前不明の小太りの男)の死
一部と二部は30分ずつ、三部だけ60分です。時間配分では三幕と三部は一致していませんが三幕構成のリズムにはなっています。
(※その他のビートもとれますが、群像劇の説明も必要になるので今回は省略します。群像劇については『そして誰もいなくなった』アガサ・クリスティー(三幕構成分析#27)の記事で触れています)
「循環型構成」とはラストシーンが、オープニングシーンに繋がるので物語がループしているように見える構成です。
ストーリー上の時間順に置くと「二部→三部→一部」となります。
おおよそは、これでいいのですが細かいシーンには矛盾点があります。
それは「二部の主人公である女性編集者アンが、一部で殺された少女の写真を見ているシーン」です。
二部のすべてのシーンが、一部より先に起きた出来事となると、未来で死ぬはずの少女の死の写真を見られるわけがないのです。
初見では、このシーンがあるために二部は一部のあとだとミスリードされ、その延長で見ていると三部が一部に繋がるラストに驚かされるのです。
このシーンを忘れている人は、循環したこと自体に驚いて拍手してしまうのでしょうが、忘れていない人には「疑問」が残されます。
この矛盾は何なのでしょう?
矛盾シーンの意義は?
議論や解釈を呼ぶような作品は、よく見ればしっかりと謎解きが出来るように作られているものと、そうでないものもあります。
作り手の狙いがあったとして、それをインタビューで答えていたりしたとしても、作品で、その通りに伝わらなければ、失敗しているともいえます。
この作品について結論をいうと「映像からは結論づけられない作り」になっています。意図的にそうしたのか、伝わりきっていないのかはわかりません。
以下は、ふたつの解釈と、それぞれの解釈にしたがった場合の読み取りです。
ひとつめの解釈はSF的な世界観として、わざと矛盾点をつくったとする場合です。
もしも、この矛盾シーンがなかったとすると、シンプルに時間軸を入れ換えただけの話になってしまい、冒頭で言ったような「こけおどし」に過ぎません。初見殺しと言ってもいいでしょう。二回目に見るときには、オチを知っているので、驚かしの効果はありません。
しかし「時間的な矛盾シーン」があることで、二回目に見たときには「?」となります。時間がねじ曲げられて、まさに「メビウスの輪」のようになるわけです。
矛盾シーン=時間的なねじれのシーンです。
リアリティとして明らかに矛盾しているシーンはは、このシーンだけなので意図的に入れたと言えるでしょう。「ボーッと生きてる」人は見逃してしまいがちです。
この解釈でテーマをとらえると「争いは無限につづく」となります。苦しみとしての輪廻転生を思わせます。
リンダ・シーガーは「矛盾シーン」については触れていませんが、テーマとしてはこの立場をとっています。
この作品は、ある本質を映画特有の方法で表現したものなのだ。暴力は本質的に繰り返し続くものである、解決策もないまま暴力は永遠に繰り返され、男も女もみな暴力の犠牲になっている、ということを訴えた作品なのである。(『アカデミー賞を獲る脚本術』)
ストーリーの時間軸に並べ直してみる
もうひとつの解釈は「二部には時間の異なるシーンが混じっている」と、とらえることです。
つまり「二部のいくつかのシーン」は「一部→三部」の前ではなくて後なのです。
この立場をとるには、どのシーンが前なのか? 後なのか? 正確に区分けしていかなくてはいけません。
まずは二部を、映像順にシークエンスごとに抜き出します。(※ここからはシーンの細かい部分に触れますので未見の方、忘れている方は読み飛ばしてください)
1:シャワーを浴びているアン。泣いている。悲劇の後のような。
2:仕事をしているアン。郵便を届ける若者がいて、ロックな音楽がBGM。アン写真を見ている。ナチスの腕章をしている男が映っているので、おそらくボスニアの写真。ドンドンという工事現場の騒音のような、動揺する心拍のようなBGMにかわる。ドクターから電話がかかってくる。「彼、喜ぶわ」というセリフから妊娠とわかる。鏡に映った顔が歪んでいるのは迷いの象徴的。引き出しから、悲惨な子供の写真。吐き気は、精神的なものか、つわりかは不明。
3:会社の玄関。アレックスがやってくる。入れ違いでアンが出ていく。
4:母と歩きながらの会話。夫とは今夜会うと言っている。アレックスがやってきて、母は去って行く。「大雨になる」とアレックス。
5:アレックスとタクシー。マケドニアで暮らそうと言われて、「子供が欲しい」と答えている。顔をそらすアレックスは子供は欲しくないという考えだったと思われ「変わるよ」と答える。タクシーから下りて、アレックスと別れる。歩いてる若い女性のテープからロックな音楽。
6:職場のアン。BGMは前シーンから引き継いでいる。ここで矛盾点となるマケドニアの写真を見ている。アレックス宛の電話。おそらく一部で少女ザミラを守ろうとした若い僧キリル。イギリスに叔父がいると言っていたので、叔父=アレックスだったと思われる。
7:マケドニアへ向かうアレックス。壁の落書き「TIME NEVER DIES THE CIRCLE IS NOT ROUND」(字幕:時は死なず、巡ることなし)
8:外を歩いて空を眺めているアン。雷が鳴って雲行きがあやしい。
9:夫とのディナーからテロまでのシーン。
以上を区分けしていきます。
時間軸を判断するとき、役者の衣裳や周りの様子で日付や季節が違うことを判断できることがありますが、演出が巧みにコントロールされていて確定できませんでした。どのシーンでもアンは白い服を着ているのです。具体的には2と6のシーンでは同じ服で、3~5と8はその上にニットとコートを着ているようです。これは屋外に出るときに羽織ったとも考えられます。9では別の服装ですが、これもディナーのために着替えたとも考えられます。連続するシーンで、全く違う服を着ていれば別の日と確定できるのですが「同じ日」か「たまたま同じ服を着ていた別の日なのか」判断できないつくりになっています。(ちなみにこの手のコントロールが巧いのが最近の『TENET』や『インセプション』で有名なクリストファー・ノーラン監督です)
衣裳ではない視点から区分けていきます。
まず「矛盾シーン」を時間的なねじれではないという立場をとるので、リアリティに即して「三部で死ぬアレックスが登場しているシーン」はすべて「三部→一部より前」=回想シーンと考えます。番号でいうと3~5(と7)のシーンです。
3~5の前後はロック調の音楽で挟み込んでいます。映像演出では時間軸を戻したことを混乱させないために、よく使われる手法です。
雰囲気のためだけにBGMを入れる監督はともかく、一流の監督でBGMに意味を持たせない監督などいません。この映画の他のシーンを見れば、そういうことをコントロールしている監督であることは明らかです。意図的に演出しているといえそうです。
3~5のシーンを回想と釈すると、挟み込んでいる2と6のシーンは現在シーンとなります。「三部→一部」より後、マケドニアから帰ってきた後となります。
アンがマケドニアに行ったことはすぐ分かるので前提としましたが、一部にあるアレックスの葬式シーンでアンがサングラスを外すシーンがあります。アンはマケドニアまで行っています。
区分けに戻ります。
現在シーンとした2ではボスニアの写真、6ではマケドニアの写真を見ていますが、これらはマケドニアから持ち帰ったと考えられます。
写真を誰が撮ったかという疑問を持つ人もいるようですが、アレックスの葬式シーンで写真を撮っている少年がいます。
アレックスのカメラを勝手に持ち出したものだと推測できます。三部で、勝手に銃を持ち出している下半身裸の子供や、カメラに興味を示している子供のシーンがあったので、アレックスのカメラを勝手に持ち出したのだと推測されます。マケドニア人側の少年なので、少女ザミラが殺された現場にいることも可能です。アレックスがアン宛てに手紙を書いてるシーンでは「誰にも見せていない写真を君に託す」とも言っていることともつながります。
ボスニアとマケドニアの写真が同じフィルムのものとなると、同じシーンでドクターから妊娠の電話を受けているので、これも現在となります。アレックスと会ったときには妊娠していなかったことになります。
当然、妊娠の話をしている夫とのディナー、9のシーンも現在になります。
ストーリーの時間軸に沿って、整理すると以下になります。
二部の回想シーン
アレックスがボスニアから帰ってきてマケドニアで暮らそうと誘うが断り、アレックスは一人で旅立つ(上記3~5、7、8のシーン)。母との会話にでてきた「夫と今夜話す」というのと、「ディナー」(9のシーン)はミスリードでストーリー上では別の日となります。タクシーの中でアレックスに「I want baby」と言うのは昔の話(アンの心理としても妊娠がわかっていたなら「欲しい」ではなく別の言い方をするでしょう)。また妊を知ったことから「回想シーン」に入るのも心理的なつなぎとしても不自然ではない。
三部
アレックスがひとりでマケドニアへ帰ってきたところから三部が始まる。アンはアレックスとは一緒には行かなかったが、連絡は取ろうとしている(マケドニアに電話しているシーンがあります)。三部は時間軸のとおりに進む。アレックスの友人(小太りの男)が、少女ザミラに殺される。そのザミラを救おうとしてアレックスが撃たれて、このとき雨がふる。少女ザミラは修道院へ逃げていく。(※少女ザミラが本当に殺したのか疑問を抱く人もいるかもしれませんが、羊の子供が産まれるシーンにヒントがあります。小屋からでてくる小太りの男を見つめている男女が映っていて二又のヤリのようなものを持っています。遺体の刺し傷とも一致します。後ろ姿だけでザミラかは判然としませんが、一部に罰として髪を切られたというセリフがありましたので、髪を切られる前です。わざわざ、そんな情報を入れているのは謎解きのためでしょう。また、アレックスと友人達がテーブルで食事をしているシーンで、小太りの男はハルの娘=ザミラを見たと言っていますし、妻とは別のカーテという女性の足を触っていて女癖は悪いことも窺えます。つまり小太りの男による強姦などがあり、その復讐であったことが暗示されています)。
一部
修行僧キリルの日常シーンのあと、アレックスの葬式。ここでイギリスからやってきたアンがサングラスを外している。マケドニア人たちは逃亡した少女ザミラを追って修道院へ。ザミラを匿っていたことが僧キリルはことが主教にバレて追い出される。イギリスの叔父(アレックス)を頼ろうとしている。二人は途中でつかまり、ザミラは撃たれて死亡。呆然としているキリルを写真に撮ったのは少年。アンはこのカメラかフィルムを手にいれて帰国したと思われる。
二部の現在シーン
冒頭でシャワーを浴びているアンは、アレックスのことを思い出している。職場にでてアレックスの写真を現像してアレックスとの過去を思い出しつつ、写真に思いを馳せている。このとき、僧キリルからの電話(IMDBのTriviaによると、カットされたシーンでキリルがイギリスの空港に来たときにアレックスと入れ違うシーンがあったらしい)。ドクターから電話があり、妊娠を告げられる。子供を欲しいと思っていたアンの願いは叶うが複雑な心境。アレックスがボスニアへ行って変わってしまったように、アンもマケドニアへ行って変わってしまった。その迷いは、夫との会話中にも表れている。夫のことは本当に愛しているが、この世界で子供をもつこと自体への葛藤が生まれつつある。しきりに「話したい」というアンの言葉にも、耳を傾けず夫は「時間が解決してくれる」と言い、テロ行為によって命を落とす。
以上のようになります。
では、この解釈に従った場合のテーマはどうなるでしょうか?
大切なのは、謎解きやつじつま合わせではなく、それによって見えてくるテーマです。
タイトル「雨」の意味
この映画のタイトルは「雨の前」です。
雨とは何を象徴しているのでしょうか?
乾いた土地では雨は恵みとなります。
一方、台風のような激しい豪雨は災害です。
この映画ではどちらを象徴しているのでしょう?
リンクが貼れなかったのですが「ドーハ日本人学校 学校通信 No.28 11 月 26 日(文責 池田 光辰)」によると、「イスラム教徒にとって雨が降ることはいいことです。雨が降っている間にアッラー【神様】に心から自分の願い事を祈ると,その願いがかないますという教えがあるからです」だそうです。
主教(こちらはギリシャ正教徒です)のセリフで雷を銃声のように聞こえると言っていたり、雨が降りそうという後に死が起こってばかりなので、こういったところに引っ張られると、雨が争いを暗示しているように思えてしまいます。
しかし冒頭のオープニングクレジットに重なった映像では、僧キリルが野菜(トマト?)を摘んでいます。葉は枯れかけています。恵の雨を待つように空を見上げます。これに対して、映画のラストでは雨が降ります。(ビートでいうところの「オープニングイメージ」と「ファイナルイメージ」です。)
この作品では雨が恵みとして描かれていることは明らかです。
アレックスは少女ザミラを助けたいと願ったとき「雨」は降りました。
作品の構成にもなっているテーマは「争いの連鎖」あるいは「争いの循環」です。
アレックスの友人の医師は「異常だ」という言葉に「だから、じっとしている」と答えています。傍観者でいるのです。
ボスニアから絶望して帰ってきたアレックスも同じでした。
しかし、ハナに「自分の子供のように思って」と言われて他人事ではいられなくなったのです。
その勇気と行動は神から祝福されたように「雨」が降りました。
「雨」はまた新しい命を生みます。僧キリルやアンに引き継がれるのです。
少女ザミラが殺されたシーンでも、アンの夫が殺されるシーンでも雨は降っていません(レストランは屋内ですが銃を乱射する男が濡れてはいないので、まだ降っていないようです)。
二人の行動はまだ十分とは言えないのでしょう。祝福の「雨」は降りません。
簡単に解決できる問題ではありません。アレックスのように命がけで行動することだけが正しいとも言えません。
けれど、アンの中では何かが芽生えています。
イギリスとアンの夫がレストランで殺される前にも「時間が解決してくれる」と、解決のため「話し合おうとしている」アンと対照的です。アンは銃を乱射して立ち去ろうとする男に「待って」と声までかけています。
夫は「時間が解決する」と言い放ちます。自分の結婚のことなのに他人事です。
その直後に夫は撃たれて死ぬのです。待っていては解決はしないのです。見てみぬ振りしていれば争いの連鎖はつづくのです。
嵐のような、銃乱射が去ったあと死体の山が築かれます。
その中でアンはお腹の赤ん坊とともに生きのびます。
レストランにいた少女も生き残っています(※演出上、少女の立ち位置は露骨で、明らかに意味を込めています。小さな植木鉢も映ります。また映画を通して母を象徴するように乳房を強調するシーンやショットがありますが、ここでも撃たれてアンに覆い被さっている男がすがるようにアンの乳房を求めています)。
メビウスの輪のように無限につづく連鎖を、ただ虚無に描いているのではなく、それを断ち切る希望を監督自身も模索しているのだと思います。
それはアレックスのように自らの命をかけて行動することだけではなく、新しい命を育んでいくことでもあるのかもしれません。
何が正しいとも言えないし、簡単なことであはりません。はっきりとした答えも解決方法もわかりません。
だけど「Before the Rain」なのです。
苦しい時代でも、今はまだ、雨が降る前の状態に過ぎない。そんな希望がタイトルに込められているのだと思います。
(※ちなみにアンの夫が死ぬシーンはミッドポイントであるとは最初に述べました。プロットアークとしてのミッドポイントですが、同時に演出上の意義ではなく、物語論の意義に則せば「気づき」や「発見」をして変化を体感するタイミングです。アンはまさにアレックスと夫という二人の死を経て、これから変わっていくのでしょう)
いい映画とは
いただいたDVDには映像特典にミルチョ・マンチェフスキ監督のインタビューが収められていました。
まずは単純にドラマ性のある恋愛映画になればいいと思った
もしくは悲劇とかアクションと呼ばれてもいい
でも社会問題を取り上げてる
今こうしている間にも起きている現実を描いたんだ
そういうとニュースと比べられるけどドキュメンタリーじゃなくて劇映画だからね(DVD映像特典の日本語字幕より)
この映画がループ型構成のために、そちらの謎解きばかりに注目がいってしまいテーマを見落とすのはもったいないと思います。
構成はあくまでテーマを伝えるための語り口です。
「複雑な構成にする意味があったのだろうか?」
「ストレートなドラマとして描いても、いい映画になったのではないか?」
そんな疑問もよぎります。
けれど「ドキュメンタリーじゃなくて劇映画」です。
ただ、社会問題をストレートに訴えるならドキュメンタリーでいいのです。ボランティアをしたり、政治家に立候補して真正面から取り組むことだってできます。
映画で社会問題をとりあげることは遠回りにも思えます。
その矛盾は、作中で、ボスニアへ行ったアレックスが写真を撮るのを嫌になってしまった気持ちにも出ているように思います。アンや医師の友人との会話にもありました。
世の中には政治色が強い映画を嫌う人がいます。
映画はエンターテイメントで、嫌な現実を見せられるより、楽しませてくれさえすればいいという立場の人です。
ループ型構成のような映画的な楽しみは、そういった人々に見やすいものになっている効果もあります。
見やすくして楽しみも提供しながらも、社会問題にも目を向けてもらう。それも物語のひとつの役目です。
事実、知りもしなかったマケドニアの人種間の争いについて知りました。(ちなみに発音はマケドニアではなくマセドニアに聞こえますね)
この作品は1994年の映画です。
マケドニア人とアルバニア人の争いを、現代のキリスト教とイスラム教の争いにかこつけて論じることもできるでしょうが、映画で描かられたものはやはり人間です。
新聞やニュースで知るのとは違って、映画にはひとりひとりの人間ドラマがあります。
ニュースでは「ある村で一人の少女が殺されてしまった」となってしまうだけのところを、ザミラという少女のドラマを通して描いているのです。
また、随所に映されているマケドニアの自然の美しさも、この映画の魅力のひとつです。
こういった自然の中に生まれて、死んでいった人々が描かれているのです。
インタビューのつづきで「映画に込めた希望とは?」という質問に、監督は次のように答えています。
映画全体を通してテーマを前面に出さず控えめにしたかった
伝えたいことも控えめにした
大げさな表現は苦手なんだ
カメラワークや観客へのメッセージも同じようにオーバーになっていなければいいと思う(同)
ミルチョ・マンチェフスキ監督は、その後もたくさんの映画を撮っていますが日本では上映されていないようです(参照:IMDB)。
こういった重いテーマの作品を見る見ないは個人の自由としても、上映されていないことに日本での関心の低さがうかがえます。
十代の青春・恋愛アニメや、アメリカナイズされたエンタメばかり見ていていいのか?と思ってしまいますが……(それはそれで面白いのですが)
作中でアンが夫に抱いている気持ちは、これに近いのではないかと思います。
アンの夫は健全な人間です。店で起きたトラブルに怒ることもなく店員に気遣いを見せています。
イギリスという国で、子供を育てて生活していく(それが以前のアンの希望だった)には良い夫でしょう。
「けれど、本当にそれだけでいいのか?」という迷いがアンの葛藤の本質でしょう。
離婚したいと言うと、夫は「Why?」と尋ねますが答えられません。
「I don’t understand」という夫。
アンの「I still love you」というセリフもウソではないのでしょう。サブテクストの効いた、見事な会話シーンだと思います。
話をもどします。
ミルチョ・マンチェフスキ監督の2019年公開の『Willow』の予告です。
あらすじは、
Three Macedonian women have to contend with control over their bodies, tradition, loyalty, pregnancy and adoption. They have not set out to change the world or society, but their struggle to become mothers makes them unlikely heroines. The three bittersweet stories, one medieval, two contemporary, mirror and contrast one another, exploring themes of love, trust and motherhood.
マケドニアの3人の女性は、自分の体、伝統、忠誠心、妊娠、養子縁組の管理に取り組む必要があります。 彼らは世界や社会を変えるために着手していませんが、母親になるための彼らの闘争は彼らをヒロインになりそうにありません。 愛、信頼、母性のテーマを探求する、3つのほろ苦い物語、1つは中世、2つは現代、鏡とコントラスト。(IMDBのSummariesとgoogle翻訳より)
この母親の葛藤は『ビフォア・ザ・レイン』のアンの延長ともいえるテーマといえるかもしれません。
監督は、表現したいものにはっきりとした核を持っているのだと思います。
緋片イルカ 2020/10/18