映画『ジョーカー』(三幕構成分析#30)

がっつり分析は三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。今回はとくに中級レベルの解説をしていますので混乱しないように気を付けてください。

2019年の映画。コアなファンがいるキャラクターを主人公とした作品です。

それだけに主観的な感想が多くなりがちな映画です。

バットマンシリーズなどのジョーカーのキャラクターに魅力を感じていれば「好き」、狂気なシーンも魅力的に見えるでしょう(残酷描写あれど狂気なシーンはありませんが)。

また、過去にこのキャラクターを演じたジャック・ニコルソンやヒースレジャーなど、いわくつきの役をホアキン・フェニックスがどう演じるかというのも、映画好きには見所のひとつといえそうです(アカデミー主演男優賞を受賞しました)

とはいえ、あくまで三幕構成の分析によって、ストーリーを客観的に判断していきたいと思います。

分析表


 

ビート分析

ストーリーは2つの大きな「殺人」で分けられています。
1つめは「電車での3人のサラリーマンの射殺」です。
2つめは「母親の殺害」です。
ここを「プロットポイント」のように3幕をとらえると構造が掴みやすいと思います。

以下、アクトごとにみていきます。

アクト1:
トップシーンは鏡にピエロの化粧をしているアーサー(ジョーカー)から始まります。口に指を突っ込んで、無理矢理に笑顔をつくっていながら、目の下の化粧が落ちて涙のように流れています。わかりやすい「オープニングイメージ」です。キャラクターアーク中心に描かれている作品なので、「主人公のセットアップ」はたくさんありますが、とりあえず「カウンセリングを受けている」「母親の世話をしている」という設定、「コメディアンになりたい」というWANTがあります。このキャラクターのコアにあるものは、マレー・フランクリンのテレビショーを見ながら妄想癖している中で描かれている「愛情」(承認欲求と言ってもいいでしょう)を求めていることです。

また、「狂っているのは僕か? それとも世間?」というセリフはテーマを表すプレミスです。アーサーという人間を描くことで投げかけようとしているテーマであり、またダークヒーローであるジョーカーと観客をつなぐ価値観でもあります。

「カタリスト」は「ランドルというピエロの同僚が銃をくれること」です。これがきっかけとなって、仕事をクビになり、電車で射殺をするからです。これは16分のところにあり、近年の映画のカタリストとしてはかなり遅い位置にあります。また、機能としても弱いともいえます。たとえば、アーサーが「殺してやりたい」という衝動性をもったタイプの人間であれば、観客は「拳銃を入手した」ことに対して意味を感じますが、それまで精神病患者という危険生は含みつつも、あくまで気弱な性格として描かれているので、銃をもらったことで、事件を予見させる緊張感が弱いのです。それゆえ、「カタリスト」以降に働く「ディベート」もあまり機能していません。銃を眺めながら考え事をしたりしていて理屈上はディベートですが、緊張感に欠けます。『タクシードライバー』を思わせる十を弄ぶシーンは大きく好みの分かれるところでしょう。そのせいでサブプロット的な母親との関係、エレベーターで出会う黒人の母子といった方に目がいきがちです。

ようやく事件が起こるのは地下鉄でのサラリーマンの射殺です。サラリーマン達は上流階級でありながら品のない3人組として、女性をからかっています。結果的にとはいえ、ここでの殺害はヒロイックに描かれています。「妄想癖」という設定からしても、もっと狂気的な動機による殺害もありえたのかもしれないとも感じます。原作の設定にどこまで忠実なのかは知りませんが、CCとしてセットアップしたものとのズレがあり、ベタなシーンになってしまっているのです。ちなみに似たようなシーンとテーマが『狼よさらば』(原題:Death Wish)という映画にありますが、これと比べてみると、ジョーカーというキャラクターばかりが出ていて、主人公がテーマを背負いきれていないのがわかると思います。

ともかく「デス」が起こり、アクト2へと入っていきます。カタリストがきちんと機能している映画であれば「デス」はアクト2へ入る起爆剤となります。サラリーマンの射殺で進む方向は「連続殺人者になっていく」や「犯罪を隠す」といった非日常になっていくのですが、この映画ではその非日常感はなく、「コメディアンになる道」を進み始めます。アンバランスですが、これが「プロットポイント1」となります。(だから、最初に二つの死で大きく分かれていると捉える方がわかりやすいと言ったのです)。43分36%という位置もPP1としては遅すぎです。これはライターが「サラリーマンの射殺」をPP1として書いているためにズレが起きていると感じます。ハリウッドのビートシートには「デス」というビートがないので、機能の違いが意識されていないのです。

アクト2
アクト2の非日常では変装をしたり、偽名を使ったり、ウソや秘密を持つといったことが、よく起こります(構成表は「Dress」と呼んでます)。映画はビジュアルなストーリーなので、とくに衣裳と演出がわかりやすく替わることもあります。アーサーはそれまでのピエロの衣裳をやめるのです。

「バトル」としてはコメディアンとして舞台に立つこと、また、奇妙な(無意味とも思える)演出で成功したようにミスリードされ、シングルマザーとデートしたかのようなシーンまで入ります。これは後半での「ターンオーバー」へのフリですが、まったく機能していると言えません。

母親の手紙を読むことで、もう一つのwantが生まれます。「父親探し」です。これはアーサーの「愛情不足」というキャラクターコアともつながる重要な展開です。ジョーカーというキャラクターからはイメージしづらいかもしれませんが、思春期の子供の親探しというストーリーのタイプはあります。その骨格にのせてジョーカーとしてのアレンジをすれば、「ジョーカーがどうやって生まれたか?」というストーリーにもできたはずです。つまり、こちらをメインプロットに置くこともできたのです(ちなみに、そうするなら「母親の手紙を読む」シーンはカタリストに置くことになります)。キャラが湿っぽくなるのを避けたのか、この重要そうなストーリーがサブプロットの位置に置かれています。「ピンチ1」の位置で、もう1つのプロットが始まることはよくありますが、ここからメインストーリーを始めるには遅すぎます。メインプロットが「コメディアンになる」なので、サブプロットとしても機能していません。サブプロットは、本来、メインプロットを別の視点から掘り下げるために入れるものなのです。「コメディアンになりたいこと」「父親がいないこと」「母親にはハッピーと呼ばれ、笑顔が幸せにすると言われたこと」などが、キャラの中で分離してしまっているのです。

ストーリーに勢いのないまま「コメディアンになる」「父親探し」の二つのWANTは「ミッドポイント」に到達します。「コメディアンになる」目的は「マレー・フランクリンの番組に呼ばれること」、「父親はウェインと会うこと」によって成功します。

ウェインにあった直後、母親が精神病だったと告げられ、殴られます。すぐにストーリーの折返し(「フォール」)が始まります。以降、精神病院を訪れ、母の過去を知り、病室の母を殺します。「父親探し」=「愛情探し」は終わり、ここが「プロットポイント2」となります。

時間は前後しますが、補足しておくと「ピンチ2」としては、MPの前で「ピンチ1」として母親の手紙を読んで父親がウェインだったことを知り、MP後の「ピンチ2」として母親自身が精神病院にいたことを知り、対になっています。

またシングルマザーとのラブっぽいサブプロットが妄想であったことがわかります。この「ターンオーバー」は、妄想癖のキャラクターという意味では使うことを許されていますが、ストーリー上の機能がまったくなく、無意味でしかありません。もっと、アーサー自身を掘り下げることに時間を使えたはずです。

PP2のあとは、「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」ですが、ある種、闇落ちであるジョーカーにおいてはダークナイトではなく、明るいのが面白いところです。再びピエロの化粧も始めてアクト3に入っていきます。

アクト3
衣裳は、馴染みのある赤いスーツで、緑髪のジョーカーになります。階段でのダンスのシーンなどもいかにもな演出です。刑事との追いかけっこでエンジンとしてのサスペンスがあり、世の中ではピエロたちとのデモが起きていて、クライマックスのお膳立てはできていますが、ストーリー上では「ビッグバトル」に魅力があるようには見えません。ジョーカーが何をしようとしているのかが欠けているからです。警察との追いかけっこもただのアクションシーンでストーリー上の意義はありません。観客の誰一人として、この時点でジョーカーが捕まるとも思っていません(その割にシーンが長いのです・せめて、最初の看板を盗んだ子ども達とのシーンとの対比などになっていればいいのですが・・・)。トークショーでの会話は一番、見せ場とのなっているシーンです。ロバート・デニーロを使っているのも意味深ですが、それゆえ、『キング・オブ・コメディ』の焼き回し感が強く見えてしまうのも好き嫌いが分かれるところでしょう。マレー・フランクリンを射殺すること、また、暴動のさなかで間接的にウェイン夫妻を殺すことは「父親殺し」を意味するのか? 理屈上ではそう解釈はできそうですが、ミッドポイントがうまく機能していれば、もっと明確にテーマが浮かび上がったと思います。

精神病院で診察を受けるジョーカーの笑い方は晴れやかで、ピエロの化粧もしていません。これが「ファイナルイメージ」となります。

キャラクターの力に頼りすぎている

やはり有名キャラを原作するストーリーの難しさとも言えるのかもしれません。ジョーカーというキャラクター自体の強さは言うまではないのでしょう。格差社会で、このキャラクターが共感されやすくなっていることも、わざわざ指摘するまでもありません。この映画の好きな人は、おそらくその辺りへの共感が大きいのだと思います。しかし、あくまでストーリー構成という視点で見た場合、シーンは説明的でキャラクターアークをしっかり描いているとは言えません。原作に沿って映像化しているだけのような印象すらあります。『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』を意識していることひゃ明白ですが、それだけでなく、モノを蹴るとか、二人組の刑事や、射殺されるサラリーマン3人組のチープさ、おざなりのカウンセラーなどなど、どこかの映画で見たことのあるクリシェばかりです。音楽とシーンにズレがあることで狂気が引き立つという演出は、数々の名作で繰り返し使われてきた手法ですが、そのあたりの演出も効果的とは思えないのは、笑いとダンスで狂気を表現しようとしているシーンが多すぎるためでしょう。ホアキン・フェニックスという役者を見せるためにはとても役だっている反面、ややうんざりするほど、似たようなシーンが出てきます。ストーリーの核をつかめていれば、ここぞというシーンで、そういう演出をすればいいのですが、ストーリーが立っていないので何度も何度も見せようとしているのです。ミニプロット系、アート系などと呼ばれる、キャラクターを描くことを中心に据えたストーリーであれば、長回し、アップの多用などの演出がありますが、そこまでキャラクターの個性や内面を掘り下げられてはいません。精神病という設定が言い訳になってしまっている部分もあるように見えます。精神病や、辛い環境でジョーカーになったという展開を避けたかったのかもしれませんが、それに変わる狂気さが出ていないのです(たとえばサイコパスとして描くなら、もっと意味不明であるべきです)ジョーカーというキャラクターに頼りすぎていて、ストーリーや演出が、それ以上になりきれていない感のある映画でした。魅力的だと感じたシーンは、ランドルという元同僚を殺したあと、玄関の鍵を開けられない小人症の元同僚のために、開けてやるシーンでしょうか。ここはオリジナリティやサスペンスの中にユーモアが効いていて、いいシーンだと思いました。

ちなみに、演技に関しては専門でないので主観的な意見ですが『ザ・マスター』のが好きかな、と。

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