生きることとしてのダイアローグ: バフチン対話思想のエッセンス
二〇世紀ロシアの思想家ミハイル・バフチンによる〈対話〉の思想が、近年、教育や精神医療の現場で注目されている。単なる話し合いではない、人を決めつけない、つねに未完成の関係性にひらかれた対話とは何か。「複数の対等な意識」「心に染み入る言葉」など、バフチン自身のテクストを紹介しながら、ポイントをわかりやすく解説する。(Amazon商品解説より)
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昨年の読書会以来、研究会では大江先生の本を読み、バフチンの「対話論」「対話主義」「ポリフォニー論」というのに注目していて知りたいと思っていたが、原書にあたるのはなかなかハードルが高いので、この本を読んだ。わかったつもりになっていた部分と違う発見が多々あり、オープンダイアローグへのつながりも見えて面白い本だった。
Ⅰ 対話的人間
以下、本書に引用されているバフチンの言葉から気になったものを引用(以下同)。
存るということは、対話的に交通するということなのである。対話がおわるとき、すべてはおわる。したがって、対話はじっさいにはおわることはありえないし、おわるべきではない。(p.3)
「交通する」:やりとりすること。
ひとつの声はなにもおわらせはしないし、なにも解決しない。ふたつの声が、生きていくための必要最低限の条件(ミニマム)であり、存在していくための必要最低限の条件(ミニマム)なのである。(p.7)
生きるということは、対話に参加するということなのである。すなわち、問いかける、注目する、応答する、同意する等々といった具合である。こうした対話に、ひとは生涯にわたり全身全霊をもって参加している。すなわち、眼、唇、手、精神、身体全体、行為でもって。(p.8)
生きた人間を、当事者不在のまま完結させてしまうような認識にとっての、声なき客体と化してはならない。人間のうちには、本人だけが自意識と言葉による自由な行為のなかで開示できるなにかがつねに存在しており、それは、当事者不在のまま外面化してしまうような定義ではとらえきれない。[…]人間は生きているかぎりは、自分がいまだ完結していないこと、いまだ自分の最後の言葉をいいおわっていないことを生の糧としているのである。(p.16)
「客体化する」:相手をモノとして扱うこと。小説でいえばテクストとしてのみ読むこと。主体的の主体の対義語。
対話的に向けられないまま他者の口から語られる、人間にかんする真実、すなわち当事者不在の真実は、もしそれがそのひとの「神聖不可侵」の部分、つまり〈人間の内なる人間〉にふれているばあいには、そのひとをいやしめる致命的な虚偽となる。(p.20)
これだけでバフチンにとっての「対話」とは何かがよくわかる。
他者の存在に対して敬意をもって接するということ。
それを小説の登場人物に対しても適応すること。
自立しており融合していない複数の声や意識、すなわち十全な価値をもった声たちの真のポリフォニーは、じっさい、ドストエフスキーの長編小説の基本的特性となっている。作品のなかでくりひろげられているのは、ただひとつの作者の意識に照らされたただひとつの客観的世界における複数の運命や生ではない。そうではなく、ここでは、自分たちの世界をもった複数の対等な意識こそが、みずからの非融合状態を保ちながら組み合わさって、ある出来事という統合状態をなしているのである。実際、ドストエフスキーの主人公たちは、ほかならぬ芸術家の創作構想のなかで、作者の言葉の客体であるばかりでなく、直接に意味をおびた自分自身の言葉の主体にもなっているのである。(p.26)
ドストエフスキーのすべての小説がポリフォーニーではなく、あくまで以下の長編小説らしい。
『罪と罰』
『白痴』
『悪霊』
『未成年』
『カラマーゾフの兄弟』
すべてのおもな登場人物は、対話の参加者である。かれらは、かれらについてほかの者たちが話すことすべてを耳にしており、すべてに応答している(かれらについては、かれらが不在の場所や閉じた扉の向こう側でなにひとつ話されることがない)。作者も、対話の参加者(および対話の組織者)であるにすぎない。当人不在で、対話の外でひびいており、モノ化するような言葉はごくわずかであり、それらは、二次的な客体的登場人物にとってのみ本質的で完結させるような意味をもっている。(p.31)
ドストエフスキーの小説では作者の意識はまったく表現されていない、とかんがえるとしたら、それはばかげたことであろう。ポリフォニー小説の創作者の意識は、小説中につねにいたるところに存在しており、そこで最高度に能動的になっている。けれどもその意識の機能や、その能動性の形式は、モノローグ小説のばあいとは異なっている。すなわち、作者の意識は、ほかの他者の意識(つまり登場人物たちの意識)を客体と化すようなことはしておらず、それらの意識に当事者不在で完結させるような定義をくだしていない。(p.38)
他者の意識を相手にして可能なのは、対話的に交通することだけである。他者の意識についてかんがえるとは、すなわちそれらと語り合うことである。さもなければ、それらはすぐさまこちらに客体としての側面を向けてよこすことだろう。そしてだまりこみ、自己を閉ざし、凍りついて、完結した客体的イメージとなろう。(p.39)
ポリフォニー小説の作者は、極度に張りついた大いなる対話的能動性を要求される。それが弱るやいなや、主人公たちは凍りつき、モノと化しはじめ、小説中にはモノローグ的に形式化された生の断片が出現することになる。ポリフォニー的構想からこぼれ落ちたそのような断片は、ドストエフスキーのあらゆる長篇小説に見いだすことができるが、もちろん全体の性格を規定しているのはそれらではない。
ポリフォニー小説の作者に要求されるのは、自分や自分の意識をすてることではなく、この意識を極度に拡大し、深め、意識を(もっとも、一定の方向へではあるが)きずきなおすことによって、そこに十全な権利をもった他者の意識たちを収容できるようにすることなのである。それはきわめて困難な未曾有の作業であった。(p.40)
創作者の立場からいえば、キャラクターに尊厳をもって接し、作者の思い通りに、都合良く動かさないこと。
キャラクターに従うといっても、作者の意識は、消えるわけではないし、むしろ、普通以上に注力しなくては、キャラクターの尊厳を保ちながら、物語を進めることなどできない。
モノローグ小説は作者の思惑通りに動くもの。作者の声だけが、一方的に話している。
「対話」は語り手だけでなく、聞き手あるい読者との関わりにある。
ドストエフスキーの小説をモノローグ的にとらえるのではなくドストエフスキーのようなあらたな作者の立場にまで高まりうる能力のある、ほんものの読者ならだれしも、自分の意識のこうした独特な能動的拡大を感じる。それは、あたらしい客体の書くという意味においてだけではなく[…]まず第一に、他者の十全な権利をもった意識と対話的に交通し、人間の完結不能な深みへと能動的に対話的に染みこんでいくといったようなことをはじめて経験するという意味においてである。(p.41)
ある意味では、優位に立っているのは能動的原理としての応答にほかならない。[…]
能動的理解は、理解対象を理解者のあたらしい視野のなかに参加させ、理解対象との一連の複雑な相互関係や共鳴、不協和をうちたて、理解対象をあたらしい諸契機で豊かにする。まさにこのような理解を、話し手も考慮に入れているのである。(p.45)
話し手が聴き手に注目しているということは、聞き手固有の視野、聴き手固有の世界に注目していることにほからないのであって、そうした視野や世界はまったくあたらしい契機を話し手の言葉のなかにもちこむ。このときには、相異なるコンテクストや相異なる視点、相異なる視野、相異なる表現的アクセント体系、相異なる社会的〈言語〉が、相互に作用しあうのである。(p.46)
言葉とは、わたしと他者とのあいだに渡された架け橋である。その架け橋の片方の端をわたしがささえているとすれば、他方の端は、話し相手がささえている。言葉とは、話し手と話し相手の共通の領土なのである。(p.48)
聴き手の自立した役割を無視することほど、美学にとって致命的なことはない。[…]通の聴き手の立場は作者の立場のたんなる再現であるべきだといった、すこぶるひろく普及している見解がある。だがじっさいには、それはただしくない。むしろ、逆の命題を立てることができよう。つまり、聴き手はけっして作者とひとしくない。聴き手は、芸術的創造という出来事における独自のかけがえのない場所をもっている。(p.50)
モノローグ主義は、極端なばあい、みずからの外部に、対等な権利をもち対等に応答しようとするもうひとつの意識、もうひとつの対等な〈わたし〉(〈なんじ〉)が存在することを否定する。(極端なかたちや純粋なかたちの)モノローグ的アプローチのさいには〈他者〉は、もうひとつの意識ではなく全面的に意識の対象にすぎないままである。モノローグは完結しており、他人の応答に耳をかさず、応答を待ち受けず、応答が決定的な力をもつことを認めない。モノローグは、他者なしですまそうとしており、またそれゆえに現実全体をまる程度モノ化している。モノローグは、最後の言葉であるかにふるまう。モノローグは、描かれた世界や描かれた人びとを閉じこめる。(p.51)
バフチンの引用ではなく、著者のことばで「言語学や文学研究、あるいはその他さまざまな学問は、こうした対話的関係をうまくとらえられずにあります。言語や文学作品を〈客体〉、分析対象として一方的にあつかっているからです。かりにバフチンのいうような対話的なアプローチを優先するとなると、それぞれの学じたいの根本的な再構築や解体すら必要となってくるかもしれません(p.49)」という言葉も気になった。
分析に対して、新しい側面を入れていけるかもしれない。
第二部ついては改めて。
緋片イルカ 2022/01/20
ポリフォニー・・・今日の話のやつですね・・・おもしろい!
奥泉光さん「書かれるべき切実さあった」 砂川文次さんに芥川賞
https://mainichi.jp/articles/20220119/k00/00m/040/387000c
(朝日じゃなくて毎日でした)
「あこがれの賞に号泣」 直木賞受賞の今村翔吾さん
https://news.goo.ne.jp/article/sankei/life/sankei-_life_arts_TDPYZSIEUNKUTLN3EX53RCBYKI.html
直木賞の記事は多分これかな?