書籍『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』多木浩二(読書メモ)

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引用とメモ

以下、ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」の中からの引用と私的解釈。
作者(多木浩二さん)の部分ではなく、ベンヤミンの文章から。

芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。しかも芸術作品は、この一回限りの存在によってことその歴史をもつのであって、そしてそれが存続するあいだ、歴史の支配を受けつづける。(p.139)

アウラの説明、実存性というもの。

アウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを、目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。(p.144)

アウラは美的なものでありながら、既存の歴史と結びついたとき、それは権力となる。

現代の大衆は、事物を自分に「近づける」ことをきわめて情熱的な関心事としているとともに、あらゆる事象の複製を手中にすることをつうじて、事象の一回性を克服しようとする傾向をもっている。(p.144)

アウラの影を、あるいはわずかに残ったアウラの残滓を搔き集めるかのように、現代人は蒐集に走る。

一回性と耐久性が、絵画や彫刻において密接に絡まり合っているとすれば、複製においては、一時性と反復性が同様に絡まり合っている。対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることは、「世界における平等への感覚」を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを奪い取るのだ。(p.145)

写真にとられると魂が抜かれるという迷信を信じる人はもはやいないが、その実はアウラを喪失していた。ただし、アウラの崩壊は権力の崩壊でもあり、平等への感覚を発達させた。権力が民衆へと移っていく過程ともいえる。

芸術作品の技術的な複製が可能になったことが、世界史上で初めて芸術作品を、儀式への寄生から解放することになる、という認識だ。複製される芸術作品はしだいに、あらかじめ複製されることを狙いとした作品の、複製となる度合を高めてゆく。(p.147)

芸術史を、芸術作品自体における二つの対極の対決としてえがきだし、その対決の歴史過程を、芸術作品における重点が一方の極から他方の極へと移行しては、また反転しては後者から前者へと移行する過程の、交替と見なすことも、あるいは可能かもしれない。この二つの極は、芸術作品の礼拝的価値と、展示的価値とである。(p.148)

肖像写真が初期の写真の中心に位置するのは、偶然ではない。はるかな恋人や故人を追憶するという礼拝的行為のなかに、映像の礼拝的価値は最後の避難所を見いだす。人間の顔のつかのまの表情となって、初期の写真から、これを最後としてアウラが手招きする。だからこそ憂愁にみちた、比類を絶した美しさが、そこに生まれでる。(p.152-153)

人間は初めて、かれの生きた全人格をもってではあるにせよ、しかし人格のアウラを断念して、活動せざるをえない状態に立ち至った(p.163)

アウラをもった時代の芸術作品は礼拝的価値とともにあった。複製技術によって、それを喪失したいま、展示的価値によって芸術作品とみなされる。スター性。その背景にアウラはなく「展示される作品」あるいは現代的、映像的表現を使うなら「視聴される映像」で評価される。制作段階における作品そのものより、完成された作品がどう受容されるかで価値が決まる。演劇の役者は観客に向かって演じてアウラを感じさせるが、映画の役者はカメラに向かって、視聴する大衆を意識しながら、あるいはレンズの向こうにアウラが届くと勘違いしながら、演じる。大衆は抜け殻のような作品を見て、スクリーンの向こうのアウラに思いを馳せる。すなわち演じてるだけの役者を作中のキャラクターと同一ししたり、アイドルという偶像や、ファンタジー世界ですら崇拝する。これはベンヤミンのいう極から極への移行ともいえる。ベンヤミンが書いた1936年から、100年に近づこうとしている今では、肌身離さず持ち歩くスマホのカメラによって、誰もが複製作品を作れてしまう。人類は、複製技術を身体に備えてしまったといえるかもしれない。崇拝に値する偶像を求めつつ、セルフィーのようにして自らが偶像そのものになろうとさえする。

真剣さと遊戯性、厳格さと無拘束性は、あらゆる芸術作品のなかに、絡まり合って現出している――その比率は千差万別だとしても。(中略)第一の技術は、自然を制御することをめざしていた。しかし第二の技術はむしろ、自然と人間との共同の遊戯をめざすものであって、こんにちの芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの共同遊戯を練習することなのだ。このことは、とりわけ映画についていえる。映画は、人間生活においてほとんど一日ごとにその役わりが増大してきている機構との、密接なかかわりによって条件づけられた(p.151)

真剣さと遊戯性はシリアスと笑い、厳格さと無拘束性は束縛と自由と、言い換えてみるとすんなり入る。笑いは異化作用によって起こるともいえる。たとえば権力者を笑うトリックスターのようにして束縛からの解放をめざす。共同遊戯すなわち映像を通して、世界そのものをあざ笑うことはプロレタリア革命に似た側面をもつかもしれないが、同時にニヒリズムにも陥ったり、フェイクニュースのように映像を意図的に利用する者によって、メディアの奴隷と化してしまう危険性もはらんでいる。

映画は資本主義的に搾取されていて、自分自身を再現したいという現代人のまっとうな要求を、いまだに無視している。のみならず、失業が大衆を生産から排除していて、労働過程のなかで自分を再現したいという第一義の要求をすらも、大衆に拒んでいる。このような状況のもとで映画産業は、荒唐無稽な空想やいかがわしい思惑によって大衆の関心をかきたてることに、もっぱら血道をあげている。この目的のもとに映画産業は、巨大なジャーナリズム機構を動員して、スターたちの出世物語やら恋愛沙汰やらを騒ぎ立てさせたり、人気投票や美人コンクールを催させたりしている。こういったすべては、映画への大衆の根源的で正当な関心――自己認識、それとともに階級的認識への関心――を、腐敗した方向へそらせるためのものである。したがって、一般にファシズムに妥当することが、特殊には映画資本に妥当する。すなわち、新しい社会構造への不可避的な要求が、少数の有産階級に好都合なように、こっそりと搾取されているわけだ。映画資本を接収することは、それゆえすでに、プロレタリアートの緊急の必要となっている。(p.169-170)

ベンヤミンの視点にはファシズムとマルクス主義が強いので、現代にアップデートして読まなくてはいけない気がする。「映画産業がファシズムに妥当する」というのは的確で、影響力をもったメディア人の発言が独裁的な力をもっている側面がある。同時に、彼らも支持する大衆によって支えられているだけの存在で、ひとたび人気が崩れればあっという間に崩壊もする。堅固で独占的な影響力をもちえている企業などは権力者のように機能をしている。同時に、それを見抜くことができず「正当な関心を腐敗した方向へそらさせるための」いわば愚民政策に翻弄されている大衆がいる。ナチスを支持したのは当時の大衆であったように、ファシズムの問題は民衆のリテラシーと関連しているか。ファシズムか衆愚政治か。

カメラを利用する方法は、異常心理をもつひとや夢みるひとの個人的知覚をも、集団的知覚が自分のものとしてゆくことを可能とする手続きに、ひとしい。古代ギリシアの哲人ヘラクレイトスが語った真理――目覚めているひとたちは世界を共有しているが、眠っているひとはそれぞれに自己の世界をもつ、という――に、映画は風穴をあけてしまった。しかも、夢の世界を描出することによって、というよりもむしろ、ミッキー・マウスのように万国に通用する集団的な夢の形象を創出することによって。
 技術の進展の結果としてどんなに危険な心理的緊張――この緊張は、危機的な段階に至ると、異常心理の性格をおびてくる――が、大衆のなかに生みだされていおるかを、よく考察してみるならば、その反面でひとは、つぎのような認識に到達するだろう。すなわち、同一の技術的進展が、そのような大衆の異常心理に抗する心理的な予防接種の効果をもちうるものをも、ある種の映画というかたちで、すでに産出していることである。この種の映画において、サディストの幻想やマゾヒストの妄想をことさらに強調して展開してみせることは、大衆のなかでそのような幻想や妄想が自然に危険なまでに成熟してゆくことを、防止することができるのだ。集団的な哄笑が、そのような大衆の異常心理を、予防的に爆発させて治癒することになる。映画において大量のグロテスクな情景が消費されている現状は、人類が文明の随伴する心理的抑圧におびやかされちえる危険な状況の、ドラスティックな一徴候にほかならない。ディズニーの映画やアメリカのグロテスク映画は、無意識のものを爆破するという精神療法的な効果をもっている。(p.177-178)

映像の無意識領域への影響を指摘している点は鋭いが「精神療法的な効果」はプラス面しか見ていない。マイナス面を見ればトラウマを埋め込みもするのである。青少年の残虐な事件が起こるとアニメやゲームの影響が取り沙汰されて、そういった発言を愚かだとするアンチ勢が現れる。こういった議論の本質的な誤りは、議論を是か非かの単純化してしまうことである。アニメやゲームの影響だけで殺人事件を起こすなどと思っている専門家はいない(アホなタレントは知らんが)。アニメやゲーム、それだけでなく小説や映画も物語全般すべて含めるべきだが、そういったものが人格形成にまったく影響しないというのであれば「好きなアニメは、あなたに一切影響を与えない」ということにもなる。こんな論破ゲームはどうでもよくて、実際に『タクシードライバー』を見て大統領暗殺のアイデアを得た者がいるし、幼少期のトラウマを語らせると実際に経験したことよりも幼い頃に見たホラー映画などを挙げる人も多い。個人差、影響の度合い差はあれど、物語やメディアは人格形成に影響はするものである。そういったことを思うと、「集団的な哄笑」が「大衆の異常心理を、予防的に爆発させて治癒する」というのは楽観的にも思える。ただし、ベンヤミンの言いたいことはこういうことだろう。メディア化、作品可することは、客観視することになる。精神分析でいう無意識の顕在化であり、そうすることで他者が介入する余地もあるし、人間の意志によって改善していく希望も見える。現在の、映画だけでなく世界中に垂れ流されている「映像」の渦を、人類の無意識の表出と見るのはとても面白い。無意識は人格を崩壊させる強大な力を持ち得ている。社会がヒステリーを起こしているなら、全世界的な超自我を確立しなくては、人類は生命を維持していけないのかもしれない。

ひとびとはこう非難する。芸術愛好家は精神を集中して芸術作品に近づくのに、大衆は作品にくつろぎをもとめている、作品は芸術愛好家にとっては崇拝の対象だが、大衆にとっては娯楽の種でしかない、と。――この点は、もっと精密に考察しなけれればならぬ。くつろぎと精神集中とは互いに対極にあり、この対極性はつぎのように定式化できる。芸術作品を前にして精神を集中するひとは、作品に沈潜し、そのなかへはいりこむ。ちょうど、自分の仕上げた絵のなかへはいってゆく中国の画家の伝説が、物語るような工合に。これに反して、くつろいだ大衆のほうは、芸術作品を自分のなかへ沈潜させる。大衆は海の波のように作品をしぶきで取りかこみ、自分のなかに包みこむ。この場合、建築物を例にとるのが、いちばん分かりやすい。建築は古来、その受容がくつろいでなされる、しかも集団によってなされる芸術作品の、典型だった。建築を受容する諸法則は、何より示唆に富んでいる。(p.181-182)

建築物は二重のしかたで、使用することと鑑賞することによって、受容される。あるいは、触覚的ならびに視覚的に、といったほうがよいだろうか。このような受容の概念は、たとえば旅行者が有名な建築物を前にしたときの通例のような、精神集中の在り方とは、似ても似つかない。つまり、視覚的な受容の側での静観に似たものが、触覚的な受容の側にはないからだ。触覚的な受容は、注目という方途よりも、むしろ慣れという方途を辿る。建築においては、慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる。また、視覚的な受容にしても、もともと緊張して注目するところからよりも以上に、ふと目を向けるところから、おこなわれるのである。建築において学ばれるこのような受容のしかたは、しかも、ある種の状況のもとでは規範的な価値をもつ。じじつ、歴史の転換期にあって人間の知覚器官に課される諸問題は、たんなる視覚の方途では、すなわち静観をもってしては、少しも解決されえない。それらの課題は時間をかけて、触覚的な受容に導かれた慣れをつうじて、解決されてゆくほかない。(p.183)

視覚的=触われない≒礼拝的価値
複製技術によってもたらされた展示的価値は所有欲を引き出す≒触りたい=触覚的

アウラは芸術作品自体がもつものではなく、芸術を鑑賞したときに「鑑賞者が知覚するもの」ではないか。初期の魔術的芸術や、美術館の芸術のように触りたいけど触れない、故人の写真のように会いたいけど会えないという愛おしさのようなものがアウラ。アニメのフィギュアなどの例もそうかもしれない。けれど、フィギュアで満足できないように(満足できている人の心理については社会的なマスではないので個別の症例として考えるべきだと思う)、手にいれたときにはアウラが失われてしまったり、そこにアウラがないことに気づいてしまうことがあるかもしれない。レア商品のように、手に入れる前には欲しいのに、手に入れてしまうと何でも無く感じてしまったり。これは鑑賞者の知覚に原因があって、むかしは欲しくても手に入らないものがたくさんあったが、複製技術は疑似的なものであれ手に入るようになってしまった故にかなしさ。あるいはオーク書なんど「金さえだせば手に入る」という現実を目の当たりにして、「手に入れた」「触れたい」という礼拝的な願望が、現実的に叶わないものであると数字的に突き付けられて絶望に変わってしまう。アイドルの結婚によるショックと怒りなども似ているだろうか。一方で、禅や茶の湯の精神、一期一会の精神は「いま、ここに在る」の感覚に従う思想で、たとえば、千利休の茶具を使ってこそ価値のあるものとするのは、まさに礼拝的価値にある茶器を、触覚的に体験することにもつながる。この感覚をとりもどせれば、現代でもまたアウラを感じることはできるのではないか。複製技術時代では、アウラは消失したのではなく、感じにくくなっただけではないか? 少なくとも僕はそういった人類のポジティブな可能性を信じたいし、それを証明するために文学と向き合っていきたいと思っている。

以下は原注からの引用。

模倣するひとはその行為を、もっぱら仮象としておこなう。しかも最古の模倣行為は、それをなすべき材料をひとつしか、つまり模倣者自身の肉体しか、知らない。舞踊と言語、身ぶりと唇の動きが、模倣の最初期の表出だった。――模倣するひとは、かれが関心をもつものを、仮象の行為にする。かれはそれを遊戯している、といってもよい。したがって、ミメーシスのなかにある両義性が気づかれよう。ミメーシスのなかには、芸術の二つの側面が、仮象と遊戯が、二枚の子葉のように絡まり合ってまどろんでいる。といっても、この両義性に弁証法的な思想家が関心を抱くのは、この両義性が歴史的な役割を演ずる場合に限られるのだが、しかしじじつ、これは歴史的な役わりを演じている。しかもこの役わりは、あの第一の技術と第二の技術とのあいだの世界史的な対決によって、規定されている。第一の技術のすべての魔術的方法の、もっとも使い古されているが同時にもっとも永続的でもある図式が、仮象でもあるのにたいして、第二技術のすべての実験的方法の、無尽蔵の貯蔵庫は、遊戯なのだ。在来の美学は、このような仮象の概念とも、また遊戯の概念とも、縁がない。そして、この一対の概念から、礼拝的価値と展示的価値という一対の概念が生まれてくるといっても、その限りでは何ということもないけれども、これらの概念が歴史と関係づけられれば、とたんに事情は一変する。そこからは実践的な洞察が得られる。すなわち、芸術の諸作品において仮象が衰微し、アウラが凋落するにともなって、巨大な遊戯空間が獲得される、という洞察が。(p.194)

遊戯は「哄笑」と同じ意味あいだろうと感じるが、少ししっくりきていないところもある。このあたりはアガンベンの「遊び」の話のがしっくりきた。

緋片イルカ 2023.6.12

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