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感想
パトリシア・ハイスミスという作家が「真摯」に物語に向き合っていたということが、ひしひしと伝わってくる。サスペンス作家と括られることを嫌がりながらも、あえて『サスペンスの書き方』という本を書くことに、背負う覚悟のようなものも感じる。「ハウツー式の手引書ではない」と序文にありながら、細かい、物語を書いたことのある人にはよくある気持ちや行き詰まりなどについても真摯に語り、彼女のやり方を述べてくれていて、それが下手な理論書のハウツー本より参考になる。彼女とタイプが合わない人にはほとんど参考にならないような本だと思うが、映像と小説の中間で書いているような部分も含め、僕には共感するところが多かった。さいごの第11章がすばらしかったが、ヘンリー・ジェームズを挙げていたところにも奇妙な偶然の一致がある。彼女の小説の翻訳本が絶版になっているのが残念だが、『11の物語』は買えた。「批評家たちからは純文学であり、その時点での私の最高傑作だとみなされた」という『イーディスの日記』は古本で買えた。第10章で詳細に解説している『ガラスの独房』は図書館で見つけられたので作品を読んでから、この章を読む予定。映画は『リプリー』と、作者自身がもっとも「成功している映画」のひとつとして挙げている『アメリカの友人』は見る。『キャロル』の原作だったことは知らなかった。
緋片イルカ 2023.7.16
引用
必要な勢い、すなわち本を終わらせるための着実な力を得るには、物語が溢れ出すまで待つべきである。それは展開とプロットに取り組む過程でゆっくりとやってくるものであって、急いで済ませられるものではない。感情的なプロセスであり、感情的に終われると感じるものなのだ。ある日、自分自身に「本当にすばらしいに物語だから、語らずにいられない!」とい言いたくなるような感覚が訪れる。それから書き始めればいい。(p.34)
この話の教訓は、あらすじのみであっても、良い話の筋をともなった物語は決して手放すなということだ。夫婦だけが別荘にいて、夫が妻を殺そうとしているとなれば、たちまち物語はサスペンス・ストーリーになる。けれども、貯蔵庫に潜んでいる犯罪者が登場し、その凶暴な男を夫が守ろうと決めるといった驚きの展開が、物語の成功の原因となり、サスペンスをぐっと高めるのである。その展開がなければ、この物語は無数に存在する潜在的な暴力の話にすぎないだろう。(p.57)
プロットを改良する、あるいは厚くすることは、ヒーローかその敵たちに関わる込み入った状況を積み重ねていくことである。複雑な状況というのが、意外な出来事の形式の中でもっとも効果的なのだ。作家がプロットを厚くして読者を驚かせられれば、プロットは論理的には改良される。ただし、単なる論理からいつでも良い本が生み出せるわけではない。しばしば見事なプロットはきわめて単純なものである。たとえば、ストレートな「決闘と追跡」のプロットや、単に夫を殺したいのに殺人に至らない女性の物語からなるプロット(優柔不断の物語)など。この「優柔不断」という骨組みは、単純そのものだ。文字通りには何も起こらないにもかかわらず、物語に込み入った状況を追加していけるかもしれない――あくまで、「かもしれない」だけだが。(p.61)
プロットを厚くする要素は、プロットの補強とも呼べるかもしれない。考え出すのはもっとも論理的な要素(考え出される以上、本質的にいくらかは非論理的になんでだろうが、それは利点でもある)、物語をより信じやすく、強化させる要素に絞るべきだ。時には二十か三十もの補強材料を考え出すこともできるだろうが、それでは読者を説得させるのではなく失笑させることになってしまう。(p.70)
作家は物語の中で、出来事をもっとも楽しませられる流れに配置すべきだし、ゆっくりか速いか中くらかといった適切な文章のテンポも、おそらくその結果として生じるはずである。(p.86)
読者を単に驚かして衝撃を与えようとすると、とりわけ論理を犠牲にしている場合には陳腐なトリックになってしまう。そして、作者自身による発明が欠如している時には、センセーショナルなアクションと巧みな文章で埋め合わせるのも不可能だ。明瞭なことを書くのは一種の怠慢でもあり、実のところそれでは読者を楽しませられない。理想的なのは、主人公たちの行動に合理的な一貫性がありつつ、出来事に予期せぬひねりが加わることである。読者の信じる気持ちと論理の感覚を最大限に引き伸ばして――かなりの伸縮性があるものだ――かつ壊さないようにする。そうすることで、新しい何か、自分自身も読者も驚かせて楽しませるものが書けるだろう。(p.88-89)
サスペンス小説の第1章には、アクションかアクションの見込みが存在するべきなのである。あらゆる優れた小説にアクションもしくはアクションの見込みが存在するが、サスペンスの物語の中では、そのアクションがより暴力的なものになりがちだ。そこが唯一の違いである。(p.103)
たとえば部屋を描写する時、蜘蛛の巣とウェディングケーキなど、興味深く不釣り合いなもので部屋がいっぱいという場合は別にして、そこにあるすべてのものを描く必要はない。通常、ひとつかふたつ示せば十分に、その部屋を豊かにも貧しくも清潔にも乱雑にも神経質にも男性的にも女性的にも描写できる。
会話でも同様に、初心者はすべての言葉を書き込んでしまいがちである。四十行の会話の要点は、多くの場合三行の文章で伝えられる。対話は劇的であり、控えめに使った方がよい。効果が劇的になりすぎるからだ。たとえばある本の中の勇ましい口論をまとめると、次のようになるだろう。「彼女は三十分たっぷり議論したが、ハワードは意見を曲げなかった。とうとう彼女はあきらめた」その後で、ひとつの発話を付け加えればよい。たとえば――「あなたはいつも我を通すだけ」ジェーンは言った。「それで連戦連勝ってわけ」。(p.103-104)
作家が物語中に生じさせるものとは、作り出したい効果と関係している――悲劇、喜劇、メランコリー、それ以外のどのようなものでも。その本に取り掛かる前に、作り出したい効果をよく意識すべきである。ここでこの点をくりかえすのは、行き詰まった時にそれが役立つからだ。意図していた効果へと立ち返ることで、出来事やプロットの変化が容易にひらめくのである。(p.120)
作家はつねに、自分が紙の上に作り出す効果、自分が書いてる内容の真実味に敏感であるべきだ。機械工がエンジンの異音を聞き分けるように素早く、何かが変だと感じ取らなければならないし、さらに悪くなる前に修正しておかなければならない。(p.121)
メモ:giftであり「狙い」でもある。
一人称単数は長編小説を書くうえでもっとも難しい形式だ。視点に関する他のことでは何も意見が一致せずとも、この点については作家たちの同意を得られるだろう。私は一人称単数の本を書いていて二度、泥沼にはまり込んだことがある。あまりに深くはまり込んだために、それらの本を書くための一切のアイディアを放棄してしまった。何が問題だったのかはわからないが、ただ「私」という代名詞を書くのにほとほとうんざりしたし、物語を語っている人物が机に向かってその作品を書いているというばかげた感覚に苦しめられた。致命的である。くわえて、主人公たちの内省をかなりの程度含め、それをすべて一人称で書くことで、不快な謀略家という印象を強めてしまった。もちろん実際にそうなのだが、全知の語り手に彼らの頭の中で起きていることを語らせれば、その印象は弱められるのである。
私が主人公に視点を置きつつ、三人称単数で語ることを好んでいるのは、おそらくあらゆる点でその方が簡単であるからだ。(p.124-125)
メモ:一人称単数が簡単、得意という作家も多いと思う。だが、本当に真摯に、内面の気持ちを描こうとしたとき、もっとも難しいものとなる。その意味できわめて同感。人間の内面を安易に、わかったつもりで、描写できる作家には一人称単数は簡単に思えるだろうが、人間の奥深さに向き合えば向き合うほど簡単ではないはずだ。「物語を語っている人物が机に向かってその作品を書いているというばかげた感覚」は意識の流れに向かう前に感じていたもので、大いに共感。
ある短編は、父親の目を通して語られる物語だった。まだ若い自分の娘が、魅力を感じている年上の男に奪い去られる危機にある。こうした物語はたいてい次のように始まる。「私はしがない男でしかないから、なんでもわかるわけではないが……」。語り手が男性であり、自分たちが知らないことを知っているに違いないという理由だけで、読者はおそらく熱心に読み耽る。物語は千語くらいまでうまくいっていた。それから、娘と年上の男性の会話をともなう、月明かりに照らされたテラスでのロマンティックな場面が続いた――父親はそこにはいられなかったはずなのだが。父親が会話を作り出しているのだと作者が示すこともなかった。私はその場面を半分まで読み進めたところで、そうした事実に気づいた。娯楽小説ではよくあることだ。
視点のことなど気にしても仕方ないのだろうか。この話をする間、横に痰つぼでも置いておいた方がいいかもしれない。とはいえ、私は作家なので、その短編の視点の扱いに最終的には驚かされ、作家がどのように視点を扱っていたのか振り返って調べてみた。その作家は扱ってなどいなかった。彼はただ単純に、月明かりのテラスの場面を書き始めていたのである。結果は読みやすい文章になるが――とりわけ、ボウルのスープをかき混ぜるために読書を中断しなければならない時にはもってこいだが――感情的に言えば、このような裂け目、説明のつかない状況、視点に関する弁解できない断絶は、物語を弱くする。それは作家が行使できる自由を少しばかり踏み越えていた。はっきり言えば、短編小説のおぞましい奇形である。もちろん、テラスの場面は物語を売れるようにするために書かれたものである。大半の人びとは、ふたりのロマンティックな主人公のアクションは読みたいが、それに関する父親の分析は読みたくないのだから。それに、もしも父親が次のようにあっけらかんと認めていたとしたら、私たちは彼を嫌いになっていただろう。「私は盗聴者であり、その夜はテラスに置かれた大きな花瓶に隠れていて……」。(p.128)
好きになることと気にかけること
この最後の問いには正直になった方がいい。気にかけることは、主人公を好きになることと同じではない。それは、彼が自由の身になるのかどうかを気にすること、あるいは最後にちゃんと捕まるかどうか気にすること、賛否どちらであれ興味を持つことである。読者が登場人物を気にかけるように仕向けるには技術が必要だ。まず作家が気にかけることから始めなければならない。いささか息苦しい「真摯(インテグリティ)」という言葉が指すものとほぼ同じ意味である。上手な三文作家はたいして気にかけないかもしれないが、それでも熟達した方法論によって、そうしているような錯覚を与え、さらには読者にも自分は気になっていると思い込ませてしまう。ヒーローであれ悪役であれ、登場人物を気にかけるには時間と一種の愛情が必要であり、あるいは愛情をかけるには時間と知識が必要であるといった方がよいかもしれないが、ともかく時間がかるのであり、三文作家には得てして時間がない。
折に触れて、画家の芸術作品について考えてみた方がいい。画家が肖像画を制作する時、良い絵にしようと望んだら、頭を楕円形でさらっと描いたりはしないし、ふたつ点を打って目にしたりもしないだろう。画家はモデルの目が他の人の目とどのように違うかを見ているし、髪の毛や皮膚を描くのにも、パレットからわざわざ五色も六色も選び出す――白、緑、赤、茶、黄。作家も主人公の顔や見た目を描写するのに同じだけのケアを必要とするが、ただし簡潔に書かなければならない(長く書くより難しいことだ)。できる限り簡潔に書き、それでも読者が記憶できるようにするのである。
一部の作家が異なる意見を持っているのは知っている。主人公の髪がどんな色合いかは重要ではないのだから、そんなに気にしていられないというのである。中位の背丈の黒髪の男というだけで、一部の作家には十分なのだ。私は自分が好む描き方を語っているにすぎない。実際、最近読んだ書評はあるサスペンス小説を激賞していたが、その本には登場人物たちの見た目や背景が何も書かれていなかった。人物たちの様子は、もっぱらアクションを通してのみ示されていた。数日後、同じ本についての別の書評を読むと、全然褒めておらず、そこで主張されていたのは、人びとはみな異なっていて、違う背景を抱えているのであり、その事実を省いて良い本を書けはしないということだった。つまり、ちょっとした論争が持ち上がっているわけだ。(p.139-141)
ひとたび頭とプロットの中に登場人物を「存在」させたら、人物たちに関しては最大限真面目に考慮すべきだし、人物たちがなぜどんな行動をとるのかに注意を払わなければならない。もしそれらを説明しないとしても――説明しすぎは芸術としてよくないだろう――作家は登場人物がなぜそのように振る舞うかをわかっているべきであり、自分自身がその質問に答えられなければならない。それによって深い洞察が生まれるのであり、それによって本が価値を得るのである。深い洞察は心理学の本の中に見つかるものではない。すべての創造的な人間の中にあるのだ。そして――ドストエフスキーを見ればわかると通り――いずれにせよ作家は教科書の何十年も先を行っている。
作家が持っている主題やパターンが、複数の小説で何度も使われているということがしばしばある。その事実を意識したうえで、やめようとするのではなく適切に活用し、意識的である限りにおいて反復すべきである。探求のテーマを用いる作家もいるだろう――会ったことのない父親を探したり、途方もない大金を追い求めたり。苦境に陥った少女のモチーフを何度も用いる作家もいるだろう――そこがプロットの開始地点となり、それなしでは滑らかに書くことができないというような。他に頻繁に使われる主題として、絶望的な愛あるいは絶望的な結婚がある。(p.189-190)
主題は探し出せるものでも、追いかけられるものでもない。現れるものなのだ。自己模倣に陥る危険が生じないかぎり、最大限に活用した方がいい。なぜなら作家は――なんらかの不思議なわけで――生まれながらの要素を利用した方がよく書けるのである。(p.191)
以下は訳者解説にあった日記とメモ(未訳)から。
現在と未来のサスペンス作家へ。あなた方には素敵な仲間がいることを覚えておくように。ドストエフスキー、ウィルキー・コリンズ、ヘンリー・ジェイムズ、エドガー・アラン・ポー……。どんな文芸分野にも二流の書き手はいる。二流ジャーナリストと、天才ジャーナリストがいるのだ。天才であることを目指そう。結局のところ、九十パーセントは努力次第であり、九十パーセントは自分に課した基準次第である。天才でも、そうでなくても同じだ。残りの十パーセントは、未知なるもの、教えられないもの、触れられないもの、壊せないものであり、才能と呼ばれている。才能(劇的なものを捉える目であり、他の人が楽しめるようにそれを紙の上に固着させる熱意である)を持たなければ、どれほど苦労してもトップに上り詰められないだろうし、出版さえ叶わないかもしれない。あなたには才能があるだろうか。物語を聞かせ、うっとりした聴衆を見るのが好きだろうか。それならよい。毎週末、練習に友人たちの前で物語を語って、それから――その気になってきたら――紙に書きつけてみよう。才能はもちろん魔法のようなものだが、物語ることそのものが同じだけ魔法なのである。自分の言葉で、聞き手を惹きつけられるだろうか。人びとの前で語るのが恥ずかしければ、うまく手紙にしたためることはできるだろうか。どうすればうまくいくのか、はっきり言える人などいない。それは魔法のようであり、教えようのないものなのだ。その本質は、語り手が書くことか語ることを通じて人を喜ばせることにある。(p.206-207)
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