バートレットの実験。「幽霊たちの戦い」という物語をネイティブアメリカンにくわしくない被験者に記憶させて、思い出してもらうと、理解しやすいように内容を変化させながら想起した。#ざつメモ
— イルカとウマ (@irukauma) February 13, 2020
バットレットの実験における記憶内容の変化①なじみのないところを省略。②つじつまのあわないところを合理化。③ある部分を強調して物語の中心に。④細部をなじみのある形に変化させる。⑤順序を入れ替える。⑥被験者の態度や感情が物語に影響。🐬 #ざつメモ
— イルカとウマ (@irukauma) February 13, 2020
(※2つめのツイートのバットレットは誤字)
人間は、物語を思い出すときには、ある種の物語構造を持たせて思い出す。それも「②つじつまのあわないところを合理化」して「⑤順序を入れ替える」という再構成をするという。
例えば「桃太郎」の話は、日本人なら誰でも知っています。
しかし「犬」「サル」「キジ」を家来にしていく順番が変わっていても、多くの人は気にしないのではないでしょうか。
「③ある部分を強調して物語の中心に」するのは、テーマをつけるということです。「浦島太郎」で考えてみましょう。多くの人が思い浮かべるストーリーは「いじめられている亀を助けて、お礼に竜宮城へ行き、おみやげにもらった玉手箱を開けると、老人になってしまった」という流れでしょう。
よく言われるように「亀を助けたお礼だったのに、玉手箱で老人になるのはかわいそう」という昔話の教訓というセオリーに反するので矛盾を感じます。
民話研究によれば「浦島太郎」は元々は別物だったいくつかの民話が合体したものだと言われます。「亀を助けた」というエピソード自体に、物語の補正が入っているのです。
民話はもっと端的に出来事だけ述べていて、キャラクターアークもありません。
子ども向けに「おはなし」として聞かせるときに「教訓」を入れるのです。
「④細部をなじみのある形に変化させる」には「よくある物語の型」があるということです。
「桃太郎」を「悪いやつをやっつける話」とすれば、現代のヒーローものや少年マンガと構造は同じです。
「浦島太郎」を「不思議なところへ行って帰ってくる話」とすれば、アリスやファンタジー小説と構造は同じです。
これらはユングのいうアーキタイプや、ジョーゼフ・キャンベルのいうモノミスともつながります。
ハリウッド映画で使われる三幕構成にもつながっています。
観客は細かいルールを知らなくても、無意識にストーリーの型を使っているのです。
(書き手は細かくルールを知らなくてはいけません。三幕構成を知らずに三幕構成を否定しても、気づかぬうちにその人の書くものは三幕構成にはまっています)
これらのことを、まとめると「物語は構造さえあれば良い」とも言えてしまうかもしれません。
見た人、読んだ人が、あとで自分の都合のよい形に補正してくれるんですから。むしろ作者の拘りで、アンバランスになるのはマイナスかもしれません。
「⑥被験者の態度や感情が物語に影響」するのですから、あとは楽しく気持ちよくさせてあげさえすれば、売れるのでしょう。
よくヒットしている物語を、過去の作品と比べて真似だとか、内容がないと批判する人がいますが、むしろ「真似で、内容がない」からこそ売れているのかもしれません。
けれど、一歩立ち止まって「本当にそれでいいのだろうか?」と、個人的には思います。
売れるからと物語を量産して、大衆があれこれ文句をつけながら消費する。
この社会そのものに疑問を投げかけるような物語を、考え、創造していくことも作家の仕事ではないでしょうか。
それも、やがては「ストーリーの型」として、よくある話に仲間入りしてしまうかもしれません。それでも新しいものを書いてみたい。
三幕構成の力強さをわかっていながら、わかっているからこそ、それを否定してみたくなるのは、僕がひねくれ者だからでしょうか?
たとえば「この国はよくなっている。それは我々の政策のおかげだ」と権力者が巧妙かつ熱狂的に語るとき、それを否定する物語を、持たなくて良いのでしょうか?
緋片イルカ 2020/03/03