これまで描写については文章テクニックとして、いくつも記事を書いていますが、100文字小説大賞応募作品の感想を書いている間に、感じたことなども含めて、改めて考えなおしてみたいと思い「描写を考えるシリーズ」を不定期連載しようと思います。
ありがちな表現
がんばって例文を考えてみます。
(例文1)
生まれて初めてみる景色だった。真っ赤な夕焼けを前に、僕は感動した。
夕焼けを前に感動している僕。シーン自体はすてきだと思います。映像にするなら綺麗でしょう。
けれど、これだけの文章を読んで、主人公と同じように感動してくれる読者がいるとは思いません。
もしも、感動してくれる人がいるとしたら、とても想像力や感受性豊かな読者で、自身も夕焼けに感動した経験をもっていて、思いだして、重ねて感動してくれているのです。
一般的に、感動的と呼ばれるシーンを描けば、多くの人が共感してくれやすくなるのは事実です。エンタメでは好んで、ベタな感動が用いられます。
年をとれば、誰しもが「大切な人を無くす」経験をします。だから、ご都合主義でも「キャラクターが死ぬ」だけで、悲しいと言ってくれる人がいるのです。
こういった感性は時代にも左右されます。戦時中や、経済成長期や、現代や、コロナ禍で、同じ物語でも受け取られ方が変わるのは当然です。
そういう空気を読む能力も、作家には必要ですが、ここでは外界の要因は切り放して、単純に「言葉」が持っている表現について考えていきたいと思います。
つまり、なぜ、ありがちな表現がダメなのか、ということ。
例にあげた表現は、文法や言葉の意味にまちがいはありません。学校の作文では、問題ないでしょう。でも、小説表現としては物足りません。
僕の考えは最後に書きますが、みなさんも、なぜかを考えてみてください。
ひとりよがりな表現
(例文2)
人生の邂逅だった。シグナル・レッドの夕日に、僕は感動した。
言葉を選び直してみました。小難しく「邂逅」という言葉を使って、「真っ赤」をシグナル・レッドと言い替えただけです。
前の例文より、マシと思う人がいたら、作者としてはやや危険ではないかと、僕は思います。
言葉づかいを選んだとしても、内容は同じなのです。たぶん、ほとんどの読者が「感動しないこと」も同じです。
描写に拘る、表現を考えるといって、言葉遊びをしているだけの作家をときどき見かけます。
なかには、難しい言葉の方が「知的」で高度だと勘違いしている人すらいます。
科学のしくみなんかでも、本質的に理解している人は、かんたんな言葉でわかりやすく説明してくれます。
下手に難しい言葉をつかうよりも、わかりやすい文章の方がいいというのは、多くの人が思うところだとは思います。
けれど、わかりやすいだけであれば「例文1」の作文じみた文章が良いということになってしまいます。
良い描写とはどういうものなのでしょうか??
デッサンと表現
絵画で考えてみます。
美術の授業で、デッサンをやったことがある人は多いと思いますが、これは対象を正確に捉える練習と言えるでしょう。
ことばで言えば、言葉の意味、文法を使って、正しく表現できることです。例文1のような文章です。
仕事や生活であれば、敬語やマナー、形式を守った文章で書けるかといったことも含まれるでしょうが、文章を情報伝達として使うのであれば、それで充分です。
しかし、小説の文章は芸術です。
小説内のすべての文章、一字一句が芸術的であるとはいえませんが、そんなのは油絵の剥がした絵の具の一部まで芸術かという理屈です。
作者が情報伝達以上の「何か」を表現し、観客へ伝えるという意味では、小説全体が芸術であることはまちがいありません。
「何か」は感情や思想や、感動などです。
その「何か」を伝えるのに、最善の文章こそが、良い描写ということになります。
上にあげた2つの例文では、「夕焼けを見たときの感動を伝える」という役目を果たしていないから、小説としてはダメなのです。
読者のキャンバスに描く
絵画であれば、描いた絵を視覚的に他者に見せることができます。
だから視覚効果を狙えばいいのです。印象派の絵画が多くの人に綺麗と見えるのは狙っている効果からも当然ですし、視覚の根底を崩すようなキュビズムが生まれてくるのも当然です。
文字は視覚で認知はされますが、目で感じる印象は、文字が多い、少ないとか、漢字が多いといった、読みやすさぐらいの印象だけです。
エンタメの売上げという観点では、それも多少は重要な要素になりますが、本質は内容です。
読みやすそうと買ってもらっても、読んでみてつまらなければ芸術としての効果はありません。
では、文章や物語は、どこで処理されるのでしょうか?
脳のブローカー中枢やウェルニッケ中枢といった小難しいことはやめて「あたま」としておきましょう。(参考:【物語の快感】)
「あたま」で理解して、想像することで、物語を疑似体験するのです。
想像するときには「からだ」も動きます。たとえば黒板を爪で引っ掻く音や、ゴキブリの歩くカサカサといった音など、文字を読んだだけで、ゾクゾクするでしょう。
文章を読んで「嫌だな」と思ったときには「こころ」が動いています(想像しやすいよう「嫌だな」と思う例をあげました。警戒心が働くものは反射的に想像しやすいのです)。
描写で大切なのは、読者の「こころ」を動かすことです。「こころ」が動くことで、感動や共感が起こるのです。敵役などには、あえて反感させるのもテクニックです。
感受性は人それぞれなので、必ずしも感動してもらえるかどうかはわかりません(必ずというのは洗脳です)が、その前提として、こちらの伝えたい「何か」が、読者に伝わっていることが必要です。
喩えるなら、読者の心のキャンバスに描くといえます。
ただ正確に説明してあることが描写ではありません(例文1)。
もちろん的確に描写できるようになるためにデッサンのような練習も必要です(たくさん読んだり辞書を引いて、言葉の意味を知ること)。
しかし、写真のように正確に描写してあるだけの絵画では感動を生みません。伝えたい「何か」が必要です。
また、言葉づかいを飾ることが描写でもありません(例文2)。
飾ることによって、読者のキャンバスに、伝えたい「何か」を描くことになるのであれば、良いですが、ただモノ珍しい言葉を並べているだけなら、言葉遊びに過ぎません。
さいごに、例文の直しに挑んでみます。巧拙はともかく、読者のキャンバスに描くという視点から直してみます。
(例文3)
僕の背骨を電気が走り抜けた。目を開けたまま動けなかった。沈みゆく太陽が僕の瞳を焼きつくしている。言葉になんてならなかった。
物語の「僕」の設定があいまいなまま描いているので、判断しづらい部分もあるかと思います。キャラクターがしっかりしていないと描写もブレるのです(ストーリーサークル参照)
意識したのは「からだ」による表現です。
「生まれて初めて」とか「感動した」といった言葉は、説明でしかないので、使わないようにしました。説明は「あたま」ではわかるけど「こころ」には響かないのです。「からだ」が動いたときに「こころ」は動きます。
この直しの例文の方がいいと思ってくれる方が、どれだけいるかはわかりませんが、納得してくださった方であれば、今後の「描写を考える」シリーズも参考になることがあるかと思います。
いくつか、考えていることはありますが、まとまってはいないので、とりとめもないまま書いていく予定です。週一ぐらいで連載できればいいなと思いつつ。
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緋片イルカ 2021/06/07
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