今回は比喩の効果について考えます。
まずは例文から。
「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道を○○のように走った。」
状況は朝寝坊した女の子が駅まで急いで走る様子の「○○」に比喩表現が入るとします。
もちろん表現に正解などありません。いろいろな例えを入れてその効果を考えていきます。
1:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道を新幹線のように走った。」
これは悪文だと思います。「速い」という連想だけで「新幹線」と喩えていますが「走る動き」と「新幹線」の動きが合わないので映像が浮かびません。これなら単に「全力疾走した」で充分です。
人間を無機物で喩えると、その動きや感情の希薄さが強調されます。「彼は計算機のような正確さで殺人現場の状況を説明してみせた」といえば、それだけで理系でクールなキャラクターの印象を受けませんか? 人によっては目は切れ長で、一重瞼で、眼鏡をかけているといったところまで勝手に想像してしまうかもしれません。比喩は読者の連想を働かせるのです。この効果を充分に理解した上で使わなければいけません。
2:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道をチーターのように走った。」
動物なので新幹線よりはマシです。チーターといえば速い動物の代名詞なのでスピード感も伝わりますし、脚の動きもなんとなく感じます。ただし速すぎる印象もあります。「わたし」が短距離走者のようにスポーツをしているキャラクターであればよいかもしれませんし、それまでに運動能力についての描写がなかった場合、運動神経抜群の印象を与えてしまうかもしれません。
3:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道をウサインボルトのように走った。」
チーターから人間になりました。しかも固有名詞を使う効果は一長一短です。長所はイメージしやすいこととリアリティをもって想像してもらえること。短所はイメージが強すぎることと知らない人には伝わらないこと。ボルトを知らなければ「誰?」となってしまいます。現代でボルトを知らない人は少ないと思いますが、小説は書いてから何年も後に読まれることもあります。そのときに、ノスタルジーの効果を生む場合もあれば、まったく伝わらないという可能性もあります。いずれにせよ比喩の効果が変わってしまうのです。イメージが強すぎる効果から考えると、女の子の比喩にウサインボルトは強すぎる気もします。チーター以上に、マッチョな印象を与えてしまうと思います。もちろん、その狙いで書くのであれば効果的といえます。
4:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道をカミナリのように走った。」
ボルトからの連想で自然物にしてみました。自然で喩えるのは人間に共通の感覚を生みやすい利点があります。映画などで悲しい気分のときに雨が降るように天候で心理を間接的に伝えるのはベタなテクニックです。使い古されてるともいえますが、いまだに効果的で現代の物語でもよく見かけます。カミナリでなく「風のように」という表現も王道ですね。カミナリのイメージは直線ではなくジグザグなので、都会の人がたくさん歩いている道を避けながら走り抜けていくかんじも出るかもしれません。もちろん「カミナリ」という一言だけで想像しろというのは酷ですので、次の行でしっかり描写していくべきです。描写と比喩のイメージが噛み合ったときには効果的な比喩になります。新幹線やチーターのようなまっすぐに走るイメージの例えであれば、田舎のまっすぐなあぜ道を走ってるイメージと噛み合うかも知れません。
5:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道をムチで叩かれる競走馬のように走った。」
文章比喩です。「鼻先にニンジンをぶら下げられた馬のように」とは効果が違うことがわかりますか?文章的な比喩には「感情」が加わる効果があります。「ムチで叩かれる」というのは急いでいる自分にもっと急げと急かす焦燥感が加わりますが、「鼻先のニンジン」は欲望につられている感じが出てしまい、この女の子の描写にはふさわしくありません。また文章比喩はいくらでも長くすることができますが、あまりに長かったり頻繁に出てくると読者がうんざりします。「親が危篤だと連絡を受けて病院に向かうがタクシーがつかまらず駆け出したかのように」などと言うと感情が具体的に伝わってきますが、もちろん「親?」「危篤?」とストーリーに混乱を招いてしまいます。
6:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道を新幹線よりも速く走った。」
これは直喩です。学校などでは「直喩」と「隠喩」のちがいを「~のように」があるのが直喩、ないのが隠喩と説明されることがありますが、それは文章効果としては間違っています。比喩は二つのものを比べて、似ているとか違うと伝えるレトリックですが、直喩と隠喩のちがいは喩えている理由を明示しているかどうかです。なので、これまでの例文1~5は「~のように」があるけど実はすべて隠喩の話をしていたのです。「新幹線のような動きで走った」のか「新幹線のような服装で走った」のか新幹線と女の子の関係が明示されていません。この例文では「速さ」と明示してあることで比較対象が限定されますので、新幹線の見た目や動きよりも「速さ」が読者の印象に強く残ります。だから直喩であれば新幹線であってもそれほど違和感がないのです。もちろん「新幹線よりも速い」というのは誇張表現も入っています。現実的に「時速15kmで走った」というようなリアリティに拘る必要はありません。ここで伝えたいのは「急いでいる気持ち」や「焦っている気持ち」なのですから、主観的には誇張すれば女の子が「本気で全速力」で走ったことが伝わってきます。速さだけを基準にしてるので「チーターよりも速く」でもいいし「カミナリよりも速く」でも構いませんが、この女の子のキャラクターに合っているかどうかが重要です。
7:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道をモグラのように走った。」
「ん? モグラ?」と思ってもらえれば効果はOKです。これは読者の興味を吊るフックな比喩です。謎や意味深なことを書いて、次の文章に興味を持たせる効果を狙うのです。後の文章では「近道になる地下通路をを走ったこと」が書いてあれば「なるほど」と思ってもらえます。フリを作ったからには回収するのは当然の義務で、「駅までの道を針葉樹のように走った。」とか「駅までの道をステンドグラスのように走った。」など無意味な言葉を入れてフックしても、説明がなければ意味不明で読者は苛立ちを覚えてしまいます。ぎりぎり伝わるか伝わらないかのところであれば「詩的」と思われることもありますが……。
8:「遅刻だっ! 初めてのデートだというのに! わたしは3分で準備して家をでた。駅までの道を走った。」
このシーンで比喩は本当に必要ですか? 結局、これで充分な場合もたくさんあるのではないでしょうか? アリストテレスがメタファー(比喩)主義者だったせいか、比喩の多用=文章表現と勘違いしてしまっている人も多い気がします。詩ならともかく。小説は「きちんと伝わる」ことが第一で、次に「何を伝えるか」です。このシーンは何を伝えたいシーンなのか? キャラクターの性格や感情は? そういうことこそが本来、拘るべきところではないでしょうか? 伝えたいことを効果的に伝えるためにあるのがレトリックであるべきだと思います。
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「○○」に入る面白い例文があったら、どうぞ教えて下さい。
(緋片イルカ2019/01/17)