作品評価の種類(文学#84)

単館上映しかされていなかった映画が、観た人の間で話題となりヒットになった。

こんな話はよく聞く(そのうち何割かは、そういうタイプの宣伝であるのだが)。

一方、大手配給会社の作品では、宣伝費に力を入れている。

いざ、観てみると内容は微妙な作品でも、数字上は大ヒット作品となる。

こういった話を並べると、以下のような法則が見え隠れしている。

「内容が多少まずくても、宣伝費を高ければヒットが生める」(但し、内容や宣伝方法が悪すぎて失敗もある)

「内容が良ければ、宣伝費が低くても長期的にヒットとなる」(但し、長期性を維持するだけの宣伝費は必要か?)

ここまでの考え方は、わりと一般的ではないかと思う。

けれど、たくさんの人が良いというものが「良い作品」なのか?

まずは、いくつかの評価の種類について考えてみる。

個人的評価

一人の観客が、一つの作品に出会ったとき、その人の中での評価が決まる。

このサイトでは採点制度としているようなもの。

一般では、各自の判断基準に寄るので「好き/嫌い」や「面白い/つまらない」を中心に評価をする人もいれば、独自の基準で「良い/悪い」をもっているシネフィルのような人もいるだろう。

基準はともあれ「プラス/マイナス」の判断がなされる。

集団的評価

自分が良いと思ってる作品でも、仲間うちでは共感されないということがある。

もっと広くとるなら、世間的には評価が低いが、自分は良いと思うなど。逆パターンもあるだろう。

集団的評価に、左右されやすい人、影響を受けにくい人、アンチをいく人、いろいろな人がいるが、個人が集まれば集団となり、集団的評価がなされる。

データを集める集団によって結果が変わることもあるだろう。

世界的なヒット作でも、ある国では不評とか。日本では、各国一位の作品をアニメ作品が上回るなんてことがある。

長期的評価

10年、20年経っても観られている名作と呼ばれるようなものがある。

一方で、ある年度には大ヒットを記録したものの、わずか数年で、バカらしくて誰も観なくなるような一発屋作品もある。

文学でみれば、シェイクスピア作品は数百年の長期的評価をされているとも言えそうである。

ギリシア神話に至っては2000年以上と言えるかもしれない。

だが、当時の上演方法のまま、受け入れられているわけではない。

映画でいうリメイクのように、新しいフォーマットに合わせて作り直されたものは、どこからがオリジナルの評価で、どこからがリメイク作品の評価かを厳密に分けるのは難しい。

金銭的評価

あまり公式に公表はされていないが、知ることさえできれば単純に数字で表せることができる。評価というより売上げの数字。

作るのにいくらかかって、出来たものでいくら儲かったかである。

企業や、職業として作家をしている者には、金銭的評価を上げることが必須問題にある。

それには「個人的評価」「集団的評価」「長期的評価」を上げることなので、基本的には「良いものをつくり、たくさんの人に宣伝する」ことが「金銭的評価」のアップにもつながる。

この基本コンセプトを理想として掲げたいところではあるが、抜け道のように作品の内容とは無関係に「金銭的評価」を釣り上げる戦略(たとえばステマとか)があって、そういうものがトータルで高評価になってしまうのも現実だとも思う。

何をもって「良い作品」とするか?

結局は、僕らが作品と接するときは「個人」でしかないので「個人的評価」しかできないのかもしれない。

いくつかの評価基準があることを知っておくことは、「個人的評価」への悪影響を最小限に抑えることができる。

「集団的評価」が高いからといって「個人的評価」を押し殺すことはないし、「金銭的評価」に一喜一憂することもない。

作家として自分の物語を書くには、しっかりとした「個人的評価」を持たなくてはいけないのではないか。

その上で、職業としての作家になりたいのであれば、その他の評価を上げるテクニックも必要である。

「集団的評価」をあげるために観客を楽しませるエンタメ性や、企画を通すための「金銭的評価」を上げるフックを見つける力など。

とはいえ、他者の評価ばかりで創作活動をしていると、いつしか社会に飼い馴らされた作家になってしまう。

反抗を目指す作家もいるだろう。飼い馴らされるよりはましだと思う。

僕は社会との対話を目指したいと思っている。

「金銭的評価」を第一に据えたくないが、現代で社会生活をしていくためには必要だと感じてしまう(本当に必要か?という問いは忘れないでいたい)。

「集団的評価」が高いものを書きたいし、それが結果として「金銭的評価」に繋がればいい。

その「集団的評価」を上げるには、集団の要素である「個人的評価」をしっかり上げることだと思う。

だから、作者自身のなかにしっかりした「個人的評価」が必要なのである。

感情を煽る反抗よりも、対話は「個人的評価」を上げにくい。

平和維持のために義務を課すより、戦意高揚の方が煽りやすい。

対話という名目の下、飼い馴らされてしまう危険も付きまとう(反抗の名のもとに飼い馴らされる場合もあるか)。

社会と向き合うのは難しい。

個人が集団と向き合うのは難しい。

それでも物語というものは、社会と向き合うときに価値があるのだと思う。

物語を「金銭的評価」が高いだけの商品に貶めてはいけない。

緋片イルカ 2023.6.26

SNSシェア

フォローする