分断と対話:修学旅行の行き先アンケート(文学#56)

先日、友人のMくんと、久しぶりのお酒を飲んだあと、酔い醒ましに歩いた末に、休憩がてら公園でアイスを食べながら、こんな話をした。

クラス30人に修学旅行の行き先のアンケートをとったところ、29人が京都、1人が金沢と書いたとする。多数決で「京都」に決まるのだろうが、金沢と書いた一人の感情は無視されていいのだろうか?

シチュエーションや行き先はどうでもいいのだが、要は京都派はマジョリティ、金沢派マイノリティという意味である。

先生が独断で決めてしまうなら、それは王権の発動で、民主主義が良しとされる現代では多数決こそが良い解決法に思われがちである。その一方でマイノリティへの差別や弾圧が生まれる。

クラスで影響力を持っている生徒が「修学旅行なんてめんどくせえ」という価値観で、クラスメイトを誘導して「修学旅行中止」が多数派になったとしたら、それは良い民主主義なのか?

学校行事の喩えを使うと、わかりやすい反面「教育」という側面が絡んでくるので、論旨がズレがちでもある。

つまり、子供(あるいは未成年)という、思考や感情面が未発達であるとされる存在(法律上)の「多数決による決定」は、社会へ出るためのトレーニングとしては良くとも、必ずしも正しい結論へ向かうとは限らない。ときには、教育的側面から、教師が英断する方が、正しい方向へ向かうことは多々あるだろう。

では、大人の決める多数決、すなわち民主主義は、社会を良い方向へ向けるだろうか?

歴史上の反例はいくらでもあるが、ナチスは当時のドイツ国民に支持されていたというだけで充分だろう。

多数決が倫理的に正しい結果を導くとは限らない。群衆は熱狂し、愚民政治に陥りかねない。

学校でも、会社でも、家庭でも、SNS空間でも、大なり小なり、人間があつまり集団になれば似たようなジレンマを抱えている。大きくは国家、人種、宗教など。

ちなみに真理を追及する科学研究では、この争いは起こらない。未解決問題では論争が起きても、天才が真理を証明すれば、それが答えとなる(それすらひっくり返ることもあるだろうが)。

争いを避けるために「多数決」という解決法を用いるが、ときに虐げられたマイノリティが暴動へ向かい、新たな争いを生むこともある。

金沢に行きたい一人の人間が、修学旅行に行くことを拒否したり(スト)、京都派に力付くの行動に出たりする(テロ)。

そうさせないために、ただ多数決が正しいとはせず、対話する必要があるかもしれない。

京都に行くことを受け入れてくれるよう説得したり、「なぜ金沢に行きたいのか?」という聞き取りをして動機や目的を汲んでやり、京都でもその目的が達成できるようにする。

ただし、それをやると、京都と答えていた中にも、「私も本当はこういうことがしたい」といった、新たな不公平を生むかも知れない。

金銭や日程が許されるならば、京都も金沢も行くといった解決もできるかもしれない。けれど、京都派の中には「べつに金沢なんて行きたくない」という人もでてくるかもしれない。

「行きたい人が行きたいところに行けばいい」という個人主義の元、29人は京都へ行き、1人だけ金沢に行く考えもある。個人旅行であれば、それでいいが「修学旅行」にはならない。

そもそも「修学旅行なんて必要なのか?」という考えは「国家が必要か?」という論旨につながる。

余裕のある個人主義者は、自分だけ良ければいいと考えがちだが、個人は法律に守れている。

警察がなければ、どうなる? 裕福であれば、お金で、自分だけの警備員を雇うこともできるかもしれない。それは私的な軍隊と同じで、行きすぎた個人主義は、新しい国家を作る発想と変わらない。

新しい国家が出来たら出来たで、その中で、また揉めるのである。

世界的に分断という言葉が使われるが、その本質は、ひとりひとり価値観の違う人間が、共同で生活する上では必ずついてまわる問題に根差している。

多様性を大切にするというメッセージは、とても聴こえはいいが、簡単なことではない。

「結局、人間はわかりあえない」といった虚無主義は諦めだろうか?

「人間なんて動物に過ぎない」と貶める発想は、人間性や文化の歴史の否定でもある。

絶対的に正しい、一つの答えなんてない。そんなもの、あり得ない。あり得ないということを忘れると、正義を掲げて暴走する。

答えはない。それでも、その時、その場の、それぞれの問題に丁寧に向き合って、解決の糸口を探しつづけていきたいというのは、僕の考えであり、僕の文学のテーマでもある。

物語にできること、フィクションだからこそ提示できることがあると思う。

エンタメであれば、クラス30人すべてがハッピーになるエンディングが用意される。そのために感情が無視される展開すらある。いわゆるご都合主義である。結局、エンタメはマジョリティにおもねること。

文学の面をかぶったエンタメ作品はごまんとあるが、本当の文学は、本当の現実と向き合わなければいけない。ハッピーエンドならないことが多いのは、我々の活きている現実が不条理だからだ。

それでも、この不条理な世界での、ハッピーエンドを目指すのが、本当の文学だと僕は思う。

緋片イルカ 2021/10/27

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