物語の本質は人間ドラマを描くことにある。
人間ドラマを描くとは、感情を描くことである。
物語で描かれた感情に触れた観客や読者は感動する。
登場人物に共感して、キャラクターを好きになったり、応援したくなったり、悲しんだり、怒ったり……ストーリーとともに観客の感情が動く。
しかし「感じる」だけではまだ感動とは言えない。
感動とは「感」じて「動」くこと。
感情が激しく動かされると体が動く。
ドキドキと心拍数が上がったり、緊張感に手に汗握り、涙があふれてしまう。
さらには、一本の物語が、一人の観客の人生を変えてしまうこともある。
医師のストーリーに感動して医者を目指したという大きい決断もあれば、ハートウォーミングなストーリーに触れて、少しだけ「他人に親切にしようと思った」だけでも、変化といえる。
ストーリーの中でキャラクターの変化を描くのと同じように、その作品に触れた観客の人生を変えてしまうようなものこそが、価値のある物語といえる。
感情を動かさない物語は、ただ物語の形式――映画や小説やマンガの形式をとっているだけの「説明」に過ぎない。
売れていようが、消費されているだけの物語である(とはいえ、売れているということは多かれ少なかれ、誰かしらの感情を動かしている可能性は高い)。
「感情」が不足した物語を見ても、観客は理解はすれど感動はしない。
この違いは天と地ほどの差がある。
作品の中では「説明」と「描写」の違いとして現れる。
「説明」とは、設定の説明である。
例えば「自殺をしたい17歳の少女」を主人公にしたとする。
アニメなどにありがちで、日本的な少女趣味と自殺は近代文学以降の憧れである自殺の組み合わせで、その設定を多くの人が許容し、多くの作家が使う設定で許容範囲は広い(そして、その設定を使いがちなのが、同年代の女性ではなく10や20も年を離れた男性が使いがちなことにも、何か理由があると思う)。
その設定を許容できる観客、嫌いじゃない観客は、深くは考えず、彼女が死にたいといえば、そういう子なのだ、繊細な子なのだなどと好意的に受け止める。
だが、設定だけで受け入れられない観客は「なぜ死にたいのだろう?」と思う。
このことを考えるために「17歳の少女」を性別や年齢を変えて、考えてみて欲しい。
30歳の女性が死にたい理由は?
40歳の男性が死にたい理由は?
70歳の老人ならどうだろう?
10歳にして死にたいと思う子供がいたらどうだろう?
ひとつとして「なぜ死にたいのか?」と考えず、受け入れられる人がいたら、それはもはや「人間とは全員死にたいものだ」と思っているような作家だろう。
だが、多くの人は「死にたい」とは思っていない。思う瞬間は誰にでもあるだろうが、それでも生きている。
そういう人がいることを、理解していない、視野の狭い作家と言える。
作者は「自殺したい」というキャラを作ったのであれば、「なぜ死にたいのか?」という設定(バックストーリー)を考えておく責任がある。
これが「好きな食べ物は○○です」といった程度の設定であれば、深い理由はいらない。
多くの人が自分の好きな食べ物すべてに理由や思い出があるわけではない。
もちろん、物語上、重要な設定であれば思い出などが関わるだろうが、ただの嗜好であれば、考える責任まではない。
だが「死にたい」というような強い設定には作者に説明責任が伴う。
強いクスリは毒にも薬にもなるので、扱うには薬剤師の資格がいるように、強い設定を使う作家には責任が伴う(とはいえ、法規制などないから安易に設定の強さだけで観客の感情を動かそうとする低俗な作家が多すぎる)。
では、死にたい理由を「親にDVを受けている」と設定してみる。
まだ設定である。
これを台詞で言わせたところで「説明セリフ」でしかなく、感情を描いたことにはならない。
もちろん、DV被害者や、身近にそういう人を知っていれば「説明」だけでも、感情が動かされる。どんなジャンルでも、そういう観客は一定数いる(ジャンルものが成立する一つの要因でもある)。
感情を描くとは「描写」することである。
作者は「設定を頭で考える」のとは別の「その立場になって想像してみる」作業が必要になる。
自分がDVを受けたことがなくても、どんなだろうと想像してみる。
朝から晩まで、どんな生活で一日を送り、どんなものを食べたり食べられなかったり、お金や家はどうしているか、周りの人間とどう接するのか、身体的にはどんなダメージを受けるか……
想像できるありとあらゆることを、親身になって=自分が当事者のように想像してみる必要がある。
想像ができないのであれば、当事者に取材する必要がある(以前に書いたが取材とは直接会って話を聞くことだけを指すのではない)。
取材をして、リアリティをもった描写がされていると、観客は、そのキャラクターが本当に存在するかのように感じられる。
ドキュメンタリーでも見ているような、この世の中には自分が知らなくてとも「そういう人がいるんだ」という存在感を感じる。
それだけでも観客には感じるものがある(これが感情移入である。主人公と観客が同じ価値観を持つことが感情移入ではないので注意)。
それから、ドキュメンタリーが見終わったときに「この人は、その後どうなったんだろう?」と気になるように、感情移入したキャラクターの人生は気になる。
そこまでのセットアップができてれいば、観客はハッピーエンドでもバッドエンドでもとにかく感動に近づく。
こういうものは簡単なことではないが、作家としては目指すべきものである。
ライターズルームで掲げる「最良の物語」の一つの形である(※最良の定義は作家ごとにあってもいいので、これだけが答えではない)。
同時に、物語を描く者としての責任でもある。
世の中にはDVを受けて苦しんでいる人がいる。今は受けてなくてもPTSDに苦しんでいる人がいる。
自分の物語を、そういう人が読むこともある。
取材をせずに面白半分で強い設定を使うことは、当事者の顔が浮かんでいないか、想像力が欠如しているか、ともかく、そういう無責任な物語(ここにはリアリティがない物語という意味も含む)を嫌悪する人は多い。
「神は細部に宿る」というが「描写をする」ということは、まさに、その細部を見つけることである。
「自分はDVされていた」とセリフで言うことではなく、「死にたい」と思っている人が、思わずしてしまいそうな言動を見せることで描写する(脚本の場合は、とくに映像的に)。
名前というのにもバックストーリーが隠れている。
名前は、親が人生の最初にくれたプレゼントと言ったりする。もちろん、ポジティブな名前ばかりではなく、自分の名前が嫌で改名する人もいる。
プラスの意味であれマイナスの意味であれ、そのラベルを貼られて、年齢の分だけ人生を生きてきた重みがある。
キャラクターは記号ではない。感情をもった人間と捉えるべきである(だから、キャラが勝手に動き出すと言われる)。
奇抜な設定で、作者の都合よくリアリティの欠けた展開を描くことが「面白い」ではない。
そんなものなら、AIでも書ける。
自分にしか書けない物語を、しっかりと相手に伝わる言葉で描くことが、良い物語を書く姿勢である。
それが、感動できる形まで質の高いレベルで描ければ、その物語は商品となりプロの作家となれる。
読者のことを考えられない無責任な物語を、自慰的に書いていては成長もしないし、プロを目指しているとも言えないのではないだろうか。
イルカ 2026.7.11
