邦画は三幕構成を意識して作られていないものが多く、ビートが拾えない(機能していない)ことがよくあります。それでも三幕をつくる「プロットポイント」に関しては、物語である以上、定義づけることはできるので三幕になっていない物語というのはありません。重要なのはそれがどの位置にあって、どういう個性を作っているかです。以下に、具体的にビートをとっていきます。映画館で一度見ただけなので記憶違いがあるのはご容赦ください。
※以下、ネタバレ含みます。
ログライン:
島を家出してきた少年・帆高は、天気をあやつる能力を持った少女・陽菜と出会い(恋をしつつ)、晴れにさせる天気屋をして金もうけをしていくが、その代償として人柱として陽菜は消えてしまう。彼女を救って、街は水没してしまうが、それでも少女を失うよりは良いと、その世界で生きていく。
【分析概略】
PP1:陽菜と「天気屋」を始める
MP:陽菜に指輪を渡して告白しようとする。
PP2:陽菜がいなくなる
主人公が特殊能力をもつ展開であればストーリータイプの魔法のランプに該当するが、この作品ではヒロインが能力をもっていて、アクト3は彼女を助けるというヒロイックな展開に繋いでいる。二人が主人公と捉えることもできるが、役割としては2人で一つのアークを分け合っている主人公として未熟な印象がある。16歳という設定なので違和感は少ないが、構成上、穂高も陽菜も自信と向き合った本質的な変化をしていない。また新海誠監督の前作『君の名は』同様、RADWIMPSの曲の使い方、モノローグの多様は特徴でもある。
【ビートシート】
Image1「オープニングイメージ」:雨のイメージ。詩的・意味深なモノローグも作品のイメージと言えるかもしれない。それ自体が(「ジャンルのセットアップ」)の役割も果たしている。
CC「主人公のセットアップ」:家を出て東京にでてきた高校生であり、仕事を探していることはわかるが、それらは設定であり、本質的な問題は観客に提示されていないの機能していないともいえる。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を持っていることや、16歳という年齢としては主人公としては成り立つ。
Catalyst「カタリスト」:「マクドナルドで陽菜にハンバーガーをもらう」二人の最初の出会いである。ただしこの時点で、それほど陽菜を意識したり事件があまりないのがカタリストシーンとして弱い。モノローグで「初めて優しさに触れた」などと語っていた。こういうビートの作り方が良くも悪くも新海流。モノローグで語る利点は、誰にも伝わりわかりやすいこと。デメリットは理屈っぽくなりやすいこと。映像で描くのであれば、「初めて優しさに触れた」感動やリアクションとしてのシーンを描くこと。銃を拾うイベントも意味深だが、これ自体、必要だったのか疑問が残る。その理由は後述。
Debate「ディベート」:あまり機能していない。船で出会った須賀のもとへ行き、仕事を始める過程は、葛藤しているようには見えるが、カタリストを「陽菜との出会い」ととるのであれば、もう一度、会いたいという気持ちこそがディベートになるはず。アクト2が「天気屋」の仕事であることを考えれば「船で出会った須賀の元へいき仕事を始めること」をPP1と言えなくもないが、その場合、アクト3の「陽菜を助ける」とは全く合致しないし、そもそもこの物語が東京サバイバルの話ではないので、とりづらい。
Death「デス」:「体を売ろうとしてる陽菜を守るために銃を撃つ」その現場に出会って、男を撃つ。死を連想させるビート。陽菜を思うディベートが機能していないために、陽菜が体を売ろうとしていたショックが観客に伝わりづらくなってしまっている。
PP1「プロットポイント1(PP1)」:「陽菜と天気屋を始める」。陽菜の能力を知り、天気屋を始めるところからアクト2、陽菜との関係が始まる。陽菜がお金に困っているため、再び体を売らないようにという気持ちがあるのだろうが、曖昧にぼかされている。陽菜をあまりダーティーなイメージにしないためと思われるが、陽菜のセットアップが弱いとも言える。次の「バトル」でもセットアップされない。
Battle「バトル」:「天気屋の仕事」お金をもらって仕事をしていく。ここは同時に陽菜との関係が深まるシーンでもあるのだが、モノローグと音楽によるモンタージュシーンで展開されてしまう。陽菜の母を亡くして、どれだけ苦労したり孤独だったかといった気持ちなどもしっかり明かしてセットアップしておくべきだったが、設定隠しがあるために、後で説明するハメになっている。テンポがいいようで、脚本的にはミッドポイントに向かう段階を素っ飛ばしてしまっている。これがミッドポイントの弱さにもつながっている。
Pinch1「ピンチ1」:「須賀と義母との会話」やや情報が少ないが須賀が娘と会いたがっているが、義母が障害となっている。妻は死んだのか別れたのかは明示されない。「どうしても会いたい人がいる」というテーマはメインプロットの帆高と陽菜の関係と重なる。
MP「ミッドポイント」:「陽菜に告白しようとする」。この前のシーンで「天気屋の仕事をして良かったと陽菜が微笑む」は陽菜にとってのミッドポイントだが、始める前はどう感じていたのかというキャラクターのセットアップが弱いためやや共感しづらい。帆高にとってのミッドポイントである告白は恋愛感情のマックスといえる。しかし「バトル」の過程でお互いのことを知り合って好きあっていく過程が、脚本上で描かれていないので、「穂高、頑張れ!」という気持ちにはあまりなれない。また、その直前のシーンでは「須賀が娘と会うシーン」がありサブプロットとのクロスがある。これはセオリー通り。
Fall start「フォール」:「陽菜の体に異変(浮かびあがる)」天気を変えることは陽菜の体に異変をもたらすことがわかる。それまでうまくいっていたものが、いかなくなる。これもセオリー通り。
Pinch2「ディフィート or ピンチ2」:「警察の捜査」拳銃に関することから警察の捜査の手が迫る。これがメインプロットと絡んでいない印象がある。「天気を操る能力」プロットと拳銃には関連性がないためである。この拳銃が物語上、どう機能しているかというと、穂高と陽菜を危機的状況に追い込むためにしか機能していない。しかしプロット上の本当の危機は「陽菜が人柱」になってしまうことで「警察に捕まる」ことではない。アニメとはいえ中学生が警察から逃げ過ぎるせいで、警察の無能感も出てしまっている。二人を危機に追い込む方法は、他にもあったように思われる。また「バトル」をモンタージュで済ませてしまった反動で、陽菜の過去などをここで明かすハメになっている。
PP2(AisL)「オールイズロスト or プロットポイント2」:「陽菜がいなくなる」陽菜を失い二人の関係がいったん終わる地点。アクト3で取り戻すための「ビッグバトル」へつながっていく。陽菜の描き方が弱いため、何かを決心して自ら人柱になったようには見えない。また「天気を操ることが罪である」というフリも、少ないため「罰」とか「仕方ない」というかんじもない。ただいなくなったという感じなので、オールイズロストのショック感は「好きな人を失った」かんじしかない。
DN「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」:「陽菜を思いだす」回想シーンによって、陽菜との思い出を煽る。ベタだがセオリー通り。
BB(TP2)「ターニングポイント2」:「陽菜を取り戻すために神社を目指す」警察の取調室から脱走を初めて神社を目指す。展開としてはセオリー通りだが、スピードを上げていくシーンまで来て、なお説明不足が原因で共感しづらい点がいくつかある。
1:どうして神社へいけば陽菜がいると言いきれるのか。
2:敵は誰なのか?
3:陽菜を取り戻すとどういうデメリットがあるのか。
まず1について。ベタな展開であるので、観客も神社にいけば何かが起こりそうだというのは予想できる。しかし、穂高が頑なにそれを思うにはややヒラメキに欠けるように見える。陽菜を探し歩いて、もうどこにもいないという段階のあと、「もしかして!」というひらめきを経れば、意味がでる。2については空の龍のようなものや、雨粒が魚のようになった不可思議な存在のフリはあったものの何も明かされていないため、陽菜を取り戻すために何をしたらいいのかが明確でない。それでもクライマックスとしてのスリリングな展開をつくるために警察が障害としてしまっている。観客が本来見たかったのは、警察から逃げきれるかどうかではなく、神社の向こうの世界で「何と出会い、どうやって陽菜を取り戻すか」である。それこそがビッグバトルにふさわしかったのではないか? ここには設定を掘り下げていない原因もあるかもしれない。文藝春秋2019年9月号[雑誌] には「「天気の子」ラストシーンで起きた奇跡」という新海監督とRADWIMPSの対談記事があるが、その中で新海監督は以下のように述べている。
僕には、最後、穂高と陽菜が何をするのかということ自体、ちょっと分かっていなかったんです。そんな時、洋二郎さんが「穂高は、何か陽菜に言うべきなんじゃないですか」と問いかけてくれて。その言葉は「大丈夫」の歌詞にある言葉なんじゃないかなと。それで、それまで使いどころがないと思って使っていなかった「大丈夫」を改めて聴いて、「ぜんぶここに書いてあるじゃないか」って衝撃を受けたんです。結局、エピローグは歌詞を引き写すようにコンテを描きました。
人柱を奪うことで日本中が雨が続く。それ自体はとても面白い世界観だし、世界がどうなろうが陽菜を選ぶというメッセージ性もとても強い感動的なラストだと思います。しかし、3の「陽菜(人柱)を取り戻すとどんなデメリットがあるのか」はセットアップされていないため、急に「三年間、雨が降り続けた」と説明される。違和感がある。「天気を操る能力」という特殊能力を扱う場合、どういう能力で、していはいけない禁止事項などははじめ(能力を得た直後)に説明して、観客とのコンセンサスを得るというのは「魔法のランプ型のストーリーの鉄則であり、後付け設定は観客をおいてけぼりにするご都合に見える原因となる。また「世界はもともと狂っている」といったメッセージは、現代的に共感しやすい言葉だが、そのテーマ自体が作品全体で描かれているかというと疑問が残る。陽菜が母親を失った苦労や、島を出たくなった穂高の気持ちなどをていねいに描いて、鬱屈した世界を描いてこそ、その中で「大切な人がいれば大丈夫」というメッセージが響いてくるのである。新海監督の対談の言葉をみていると、このメッセージは監督というよりもRADWIMPSのものではないかという気すらしてしまう。
image2「ファイナルイメージ」:雨に埋もれた街。悲しみに満ちた世界を暗示しているようにも見える。イメージシステムは機能している。
●感想
モノローグの多様は昔の作品からの新海監督の特徴だと思います。『君の名は』からのミュージカル音楽かと思われるような音楽の使い方は、新しいジャンルのようにも感じられます。悪く言ってしまえば映画がミュージックビデオ化しているともいえるし、良くいうなら「音楽」と「映画」の新しい融合ともいえます。モノローグを多用する物語作りが、メッセージ性の強い歌詞とマッチしているのは独特の世界観です。脚本上のキャラや構成を見たときには、掘り下げが疎かになっているように見えます。しかし物語のドラマががっちりとしてくればくるほど、RADWIMPSの音楽とは噛み合わなくなってしまうでしょう。新海映画は今がちょうどいいバランスなのだと思います。ここがこの映画の好き嫌いを分ける境界になっているようにも思えます。ドラマを重視する人には物語が薄っぺらくみえるけど、自ら感情移入していける観客には没入できる映像と音楽体験になるのです。映像描写的な表現力は、言うまでもなく素晴らしいので、映像の力だけでも世界に引き込まれる部分があります。天気を操る能力、人柱といったモチーフの中で、十代の恋愛を展開するのも素材としては、とてもいいモチーフだと思いました。物語の掘り下げはもう一工夫できたように感じ、もったいない気がします。重要なドラマとなるシーンは雰囲気で描きつつ、漫才のような掛けあいゼリフが多いのも、ポップな映画としては受け入れられやすいのかもしれませんが、キャラクターの内面を掘り下げていないようにも見えました。
※『天気の子』については、ほっこりトークの後半でも音声解説しました。
→ほっこりトーク60「電話ゲストよこすかさん登場&『天気の子』の三幕構成」
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緋片イルカ 2019/09/11
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