パロディ

『涜神』ジョルジョ・アガンベン

*下記の文章には一部、ジョルジョ・アガンベン『涜神』からの引用が含まれます

 コズモゴニックアークの完全な表現が、言葉によっては不可能であるのとおなじように。あるいは、自らの本来の場所——楽園エデン——から追放された人間が、記すべき歴史そのものを失ったのとおなじように。エルサ・モランテが『アルトゥーロの島』において記述したかった/するべきだったもの——無垢な生、すなわち歴史の外にある生——は、絶対に言葉では表現できないものだった。

 ところで、大江健三郎の『M/Tと森のフシギの物語』は、文学、より正確に言えば文学的散文の、再神話化の試みであった。大江の実験的手法(『M/Tと森のフシギの物語』が『同時代ゲーム』のリライトであるというのは、まさに実験的である)がある種の滑稽さを呈する理由は、それが大江の半生の「まじめな」パロディだから、ではない。むしろ『M/T』は、パロディの正反対物たる虚構そのものである。けれどそれが、パロディによって神話から解放された言葉を、再び神話のうちに拘束しようとした試みでありながら、しかし現実を疑問に付さないことに、滑稽さがつきまとうのだ。『M/T』はつまるところ、神話の結節点としての大江自身の物語であり、つまり大江は、きわめて純文学的、私小説的な態度でもって、虚構たるべき神話——神の語り、すなわち真理——を語ろうとしたのである。

 この見当違いのスノビズムは、大江の文学的態度を象徴するものでもある。文学において、生=真理=コズモゴニックアークは、見え得ぬもの、すなわち神秘というかたちにおいてのみ現れうる。その不条理な定理への大江の解答、神秘を明らかにせんとする倒錯した実験的手法は——ノーベル賞作家という美名とは対照的に——未だ成功の目をみていない。

 一方、真理の到達不可能性、すなわち神秘性は、モランテのような作家にとっては当然の定理だった。ゆえにこの種の作家は、神秘を直接明らかにしようとはせず、真理そのものを語ろうとはしない。そうではなく、真理のパロディを反復し模倣することで、真理のとなりに場を確保しようとするのだ。

 文学においてパロディとは、あらゆる神秘、あらゆる真理の「となり」に存在するものについての理論であり、実践である。存在論が、神話と真理との関係のように、言葉と世界との関係を説明しようとするものであるのなら、パロディはそれに付随する準存在論として、言葉が世界に到達することの不可能性と、世界が自らの名を見出すこと——神秘を明らかにすること——の不可能性を表現している。したがって、パロディの場——文学——には、必然的に、また神学的に、喪と嘲笑が記されている。

しかしそうでありながら/そうであるからこそ、パロディは、文学の唯一可能な真実——真理のとなりに場を得ること——を証言しているのである。

空地カラス

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