物語における偶然性と奇跡について(文学#67)

ファンタジー設定についての記事を書いた。

そこで、ファンタジー設定としての「オオカミ男」の対比として、「汗っ掻き症の男」を挙げた。鋭い方は勘付いていると思うが、「多量の汗掻き」も度を超すとファンタジーになる。

ジャンルとしてはコメディ(あるいはコント)だが、「人間の体からそんなに汗が出る?」という描写をすれば、それはもはやファンタジーだ。

ある程度の「ありえなさ」であれば、「汗かきすぎじゃない? でも、もしかしたら、世の中には、これぐらいの人いるかもしれない」となる。

リアリティの度合いと言える。

これと同じことを「偶然性」で考えてみる。

ラブストーリーでありがちだが、たとえば「ある男女が、駅で出逢う。偶然、同じキーホルダーを持っていて話す」。ここまでは許容されよう。

「電車が着いて、それぞれの職場へと向かう。連絡先は交換しなかった。昼休み、男が彼女のことを考えていると公園で再会」。これぐらいもラブストーリーというジャンルではありがち(カタリストになる)。

「今度こそと連絡先を交換して、やりとり関係が始まる。話してみると、二人には共通点が多い。趣味は美術観賞で、好きな画家も同じ、今度、一緒に行きましょうなどと盛り上がる」。このあたりも、まあ、付き合い始めのカップルなんかではある。

「デートの当日。女が弁当を作ってきた。ちょうど男が、前日に食べ損ねて食べたいと思っていたもの。プレゼントもある。欲しかったもの。何でこんなに気があうの?」。男は浮かれているかもしれないが、観客は、この女「もしかしてストーカー?」と疑い出すかもしれない。サスペンスのエンジンが動き出してしまう。

観客には「こんなに偶然は続かない」という基準があって、それを超えたとき「もしかして裏がある?」という論理的思考が働きはじめているのである。

リアリティの度合いで言い換えるなら、「偶然の起こりえる度合い」とも言える。

事実は小説より奇なりで、現実にはおそらく、偶然が重なりすぎる一致もあるだろう(生き別れた一卵性双生児など)。

多くの人は、信じられない。だから『奇跡体験!アンビリバボー』で取りあげられる。でも、事実なんです。証拠や記録があるんです、と。

だけど、物語は、そもそもウソだから、信じられない=観客の気持ちが離れてしまう。

「まあ、物語だからね~」などと許してくれる優しい観客もいるだろうが、そんな見方をされてる時点で、観客は物語から気持ちが離れている。

ここからが本題。

物語において「奇跡」をどう見せるか?

日本人の多くはイエスの奇跡を信じていない(信者はともかく)

「信じるか信じないは、あなた次第」というスタンスは物語では通じない。

どうやって、観客に奇跡を信じさせるか?

これは、観客をゲニウスに遭遇させることとも言えるか?

ゲニウスとは遭遇できないものという定義が引っ掛かるならコズモゴニックアークと呼ぶ。

偶然は、ほんとうは偶然ではないのだというアークを描ければ、観客はそこに奇跡をみるのかもしれない。

「生き別れていた男女が数十年後に偶然に再会した」といった奇跡ではない。これは低い確率、奇跡的確率といったようなものに過ぎない。

観客が「ありえない」「信じられない」と思えるものを、目の前で起きているようなリアリティをもって見せることができたとき、観客は物語に奇跡を感じるのではないだろうか。

緋片イルカ 2022.11.28

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