同時代作家とモード

*下記の文章には一部、ジョルジョ・アガンベン『裸性』からの引用が含まれます

 イルカさんとの会話のなかに、「同時代作家」という言葉が顔を覗かせることがある。僕らはそれをあまりに違和感なく用いすぎていて、深く考えるということがなかった(イルカさんはわからないけれど、少なくとも僕はなかった)。僕らはその言葉の意味や、それが指す具体的な作家のことを、大したロジック抜きに認識し、思考し、コミュニケートしていた。それでうまくいっていた。でも、改めて考えるとよくわからない言葉だ。同時代作家。同時代の、作家。

 一般に時代とは、歴史家やそれに準ずる者によって、ある特定の目的や基準に則り決定される恣意的な時間の区分であり、そのもっともわかりやすい例として、世紀がある。では、僕らの言う同時代作家とは、例えば「21世紀初頭から中頃にかけて活動した、webサイト『イルカとウマの文学村』を介して活動した文筆家たち」と、後世の学者たちによって分類されるような、そんなまとまりを指すのだろうか。
 だとすれば、僕とイルカさんが出会ったのはまだほんの二年前だけれど、例えばイルカさんが2025年に死んで、僕がその後三十年筆を折らなかったら。その三十年間で僕が、イルカさんではない誰かと、長きにわたって文筆活動を続けたら。そうであるなら、僕とイルカさんは同時代作家ではないのだろうか。それはなんだか違うような気がする。
 
 この違和感は、モードについて僕たちが抱いているそれと概ね同じであると思う。
 モードは、時間のなかに不連続性を持ち込むものだ。不連続性とは、「モードである」か「もはやモードではない」のいずれかに分割された時間の状態のことを指す。モードによる時間の割け目は、それを感知できる人たち、感知すべき人たちにとって、見逃そうとしても見逃すことができないものだ。モードという言葉の印象通り、スタイルやファッションと呼ばれるものについて考えてみるとわかりやすい。もっとも優れたデザイナーたちは、あるスタイルが「モードである」か、あるいは「もはやモードではない」のか、一目で判断することができる。「同時代作家」についてもおなじことが言える。「彼は同時代作家だ」「彼女は同時代作家ではない」という言明を、僕らは(僕らが一流であるかどうかはさておき)なんなく行うことができる。
 けれど一方で、肉体を持つ人間の感覚から離れて、クロノロジカルな時間のなかにモードを位置付けようとすると、同時代作家という言葉とまったくおなじように、僕らはそこに言いようのない捉えがたさを見ることになる。モードの「いま」、すなわち、そのモードが存在するようになった瞬間は、どれほど高度な計器や論理をもってしても、あらかじめ同定することができないからだ。モードの時間は、その構成上モードそのものよりも先んじていて、またそれゆえに、つねに遅れをともなってもいる。モードの時間はつねに、「いまだ〜ない」と「もはや〜ない」のあいだの、捉えがたい閾というかたちをとるものだ。僕らが作家の同時代性を語るときにも、これとまったく同じことが起きている。

 実は、同時代性を考える上で、モードの時間性には見逃せないもう一つの特徴がある。モードが「いまだ〜ない」と「もはや〜ない」という身振りで時間を区切るというのは、モードは「かつて〜だった」「やがて〜なる」のような形で、ほかの、モードではない時間と関係を築くこともできるということでもある。この特殊な関係をつくることによって、モードは過去のいかなる瞬間をも「引用し」、それをもういちど現代風に仕立てることができる。つまりモードは、自らが分断したもの同士をたがいに関連づけ、活性化させることができるのだ。
 実のところ、僕らの文学的態度もまた、このモードのもうひとつの特徴——過去と特別な関係を築くこと——と無関係ではない。
 神/神話や真理やコズモゴニックアークと、僕たちの生活は一見、無関係のように思える。モードが時間を分割し、モードでない時間に死の宣告をしたように、僕らは僕らの追い求めるものから遠く分断されているように感じられる。けれど、モードが過去を呼び起こすように、同時代性とは、もっとも現代的で最新のものにさえ、アルケー根源の指標や痕跡を知覚できることでもあるのだ。僕らの話す言葉、僕らの退屈な暮らし、あるいは僕らのなにげない身振りの内には、アルケーとの、真理との秘めやかな結びつきが存在している。僕らはそれを追求する。けれど、その試みは、単に遥かな過去へと立ち戻ろうとするものではない。そうではなく、むしろ現在のなかの、僕らがどうあっても体験できないものへ立ち返ろうとする試みなのだ。

 その試みは困難で、ある種の虚しさを伴うものでもある。

わたしたちが夜に見上げる星空では、光り輝く星々を濃い闇が取り囲んでいます。宇宙には数かぎりない銀河や発光体が存在します。したがって、空のなかにわたしたちが暗闇を見ているということは、科学者たちにしたがうならば、何らかの説明を必要とする事態です。まさしくこの暗闇についての説明を、現代の天体物理学が提供してくれますので、それをみなさんに紹介しておきましょう。膨張の過程にある宇宙では、はるか彼方の銀河はすさまじい速度でわたしたちから遠ざかり、そのために、銀河が発する光はわたしたちまで届かないのです。空の暗闇としてわたしたちが知覚しているこの光は、わたしたちに向かってたいへんな速度で向かってきていますが、にもかかわらず、わたしたちに到達することができません。なぜなら、光を発している当の銀河が、光を上回る速度で遠ざかっているからです。わたしたちに到達しようとしているのに、それが叶わないこの光を、現在の暗闇のなかに知覚すること。これこそが、同時代的であるということの真の意味であり、このために、同時代人とは稀な存在なのです。またこのために、同時代的であることとはまず何よりも、勇気を要する問題でもあるのです。なぜなら、同時代的であるということが意味するのは、時代の暗闇のなかに視線を固定させる能力だけでなく、わたしたちへと向かい、わたしたちから永遠に遠ざかりつづける光を、この暗闇のなかに知覚する能力をもそなえているということだからです。このことは、次のようにいいかえることができます。同時代人であるということは、反故にされることが確実である約束にたいし、忠実であろうとするということである、と。わたしたちの時間、すなわち現在とはじつのところ、ただたんにきわめて遠く離れているというだけではありません。それどころか、いかなる場合であっても、現在はわたしたちへと到達できないのです。——ジョルジョ・アガンベン『裸性』岡田温司、栗原俊秀(訳)

 時代の暗闇とは、すなわち得体の知れない匿名的な経験であり、僕らにはけっして向けられておらず、僕らとは関わりようのないものだ。けれど、僕たちはどうしようもなく暗闇に惹かれてしまった。暗闇が、暗闇こそが、いかなる光よりも強く僕らを照らしていた。
 僕らは、暗闇に向かって問いを投げかけつづける作家だ。「反故にされることが確実である約束にたいし、忠実であろうとする」作家だ。

だからきっと、僕らは僕らを同時代作家と呼ぶのだろう。

空地カラス

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