「視覚」と「聴覚」と(演出4)

前回:「情報」や「印象」を脚本に書く(演出3)

前回の記事では「情報」と「印象」を脚本段階でしっかりと書き込むということを考えた。

その「情報」と「印象」は、映像の「画面」と「音響」を通して観客に伝わる。

すなわち、観客は主に「視覚情報」と「聴覚情報」を通して受け取るといえる。

視覚情報と聴覚情報

視覚情報あるいは画面には、さまざまな要素が含まれる。

「情報」の主なものは「人」「場所」「時間帯」(柱とト書きでセットアップされる)。

より原始的な要素で見れば「色」「形」「光」といったもの。

観客は、それらを総合的に(かつ瞬時に)判断している。

演出するとは、それらをコントロールすることである。この辺りは演出論の軸になるのでショットの分析とともに深掘りしていく。

聴覚情報あるいは音響は、大きくSEとBGM、ときどき歌唱付きのMである。

SEはほとんどが「情報」なので、扉を閉めるとか、物を落とすとか、足音とか、映像内の物理現象に伴って鳴らされる。

リアリティに関わるので、例えば映像で「鐘を叩いている」のに、SEがなかったりすると違和感を覚える。同時に演出として使う可能性もある。

実写ではほとんど使われないが、コメディやアニメなどで使われる感情を表すSEもある(※用語があったはずだが思い出せない)。

ショックのときに「ガーン」とか、閃いたときに「ピカーン」のような音。リアリティを考えれば、実写では邪魔になることが多いので使われない。

BGMは実写でも多用される。僕は音楽理論は詳しくないが「リズム」「メロディ」などで、映像に「明暗」や「緩急」の効果を付与できる。

ドグマ95のようなBGMは絶対に入れないという方針もあるが、あまりに多くの映像作品でBGMが入っているので、むしろ使わないということ自体が演出効果にも見える。

時間の単位

「画面」と「音響」と同時に、それらをまとめあげる「時間」がある。

例えば「人物を真正面から映したショット」があるとする。これだけだと写真のような一枚の静止した「画面」である。

その「画面」のまま、人物の表情が変われば、例えば「にこっと笑う」とするなら、その笑顔が出来るまでの「時間」がある。

これはワンショットの時間とも言える。

人物が笑顔になったあと、「対面にいる人物の顔」に映像が切り替わったとしたら、次のショットへ移ったといえる。

つまり「画面」と動きを伴う「時間」が合わさって、ひとつの「ショット」が完成する。

一連の「ショット」をセットにしたものが「シーン」となり、一連の「シーン」をセットにすると「シークエンス」となっていく。

「シーン」は脚本の「柱」に一致するのでわかりやすいが、「シークエンス」は「ストーリーのひとかたまり」に依存する。

脚本が「シークエンス」をまとめ切れていないと読み手にシーンがぶつ切れの印象を与え、物語の進んでいる方向がつかみにくくなる。

演出家が、脚本を読みとれていない場合も同様で、シークエンスにあたる一連のシーンををしっかりとまとあげると、観客にも伝わりやすくなる。

一番、簡単で効果的なのはBGMで、カットバックが多用されていても、同じBGMが流れていれば、一連のシーンだと感じられる。

逆に、アクトを跨ぐような音楽の使い方は、メリハリを失くしてしまう。

「視覚」「聴覚」とともに「時間」は映像の大きな構成要素の一つである。

わかりやすく一言で言うなら「間が大事」ということ。

その他の身体感覚と理解

上記で示した「画面」「音響」「時間」から、観客は「情報」と「印象」を受け取り、物語を理解し共感する。

理解するときには言語や論理といった高次機能が働いている。

「情報」に矛盾があったり違和感を与えてしまうと、観客に考えさせてしまい、ストーリーへの没入感を阻害してしまう。

一方、印象付けたいときには、観客に考えさせるように止めるテクニックもある。これをしないとスーッとすべてのセリフを聞き流してしまう(興味のない学校の授業のように)。

ミステリーのパズル的思考を除いて、観客の興味を惹くには感情を刺激することが必要である。

感情はどちらかというと脳の古い領域に相当するので「映像」や「音楽」の演出効果の影響を受けやすい。

例えば、観客を驚かせるのに「アイツの正体は〇〇なんだ」といった論理的な驚かしは難しい。

役者が、このセリフを普通のトーンで言っていたら聞き逃してしまうかもしれない。

だが、間をとって、ショットにも工夫して、意味深に言わせるから観客もその正体に驚く(実際に驚いているのは物語の中の人物達のはずなのに)。

もっと、あざとく言えば「ドーン」と大きめなSEをつけるだけでも観客は驚く。大した内容でなくても驚く観客もいる。

ストーリーが薄っぺらくても、演出が巧みだと、すごい物語を見たような気分になる。

だが、ストーリーの深みが伴っていないと、2回目見たときにくだらなさに気づいてしまう。

何度も、時代を超えて、名作と言われるような作品はストーリーも演出も素晴らしいから、3回目、4回目に耐えられる。

観客の感情が動くときには、同時に身体の緊張や弛緩を伴っている。

強い緊張のあと、カタルシスにあたる弛緩シーンによって、観客は涙を流す。思わず涙を流す。思わず。泣こうと思ってな泣くのではない。

個人差のレベルでいえば、体調が悪かったり、私生活でストレスを抱えているような人は、作品鑑賞前から心身が緊張状態にある。

積極的に「泣きに行く」という人がいるが、そういう人は作品に弛緩できるようなシーンを求めている。ストレス解消に来ているような人。

あるいは、凝り固まって感受性も鈍くなっているような人は、なかなか物語の世界に入れこめず批判的な感想ばかり持つ。

個人の体調のコントロールまではできないが、作品の中にきちんと緩急があれば、多くの人が共感・感動することになる。

より広い視点をもつなら、その時々の社会情勢によって、国民全体の緊張傾向が変わり、その時代に流行りやすい作品といったものはあるだろう。

不景気だと明るい曲が流行るとか、服装では景気がいいときには明るい色が流行るとか、そういった俗説じみたものも、集団の緊張状態を考えれば一理あると思う。

緋片イルカ 2023.12.30

次:「主人公の感情」と「観客の感情」(演出5)

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