「ホワイトアウト」

 彼女はなぜか白い絵の具を使っていた。
 もともと白地のキャンバスの上から、白い絵の具で隙間なく塗りつぶしている。
 ていねいな筆さばきを眺めていたら、彼女が振り向いて「?」という顔をした。
「なんで、そんなことしてるの?」
 美術館で見たセザンヌを思い出して、そういう技法なのかと思った。
「あはは、そんなわけないでしょ。美術部でもないし、テクニックとか知らないし」
「じゃあ、なんで?」
「発作のときの白に似てるなって思って」
「ほっさ?」
「過呼吸。ときどきなるんだ」
 彼女は言葉を置いて、作業に戻った。
 平たい筆先が白に白を塗りつけていく。
 彼女の存在を初めて知ったの二年生になってからだった。同じクラスになったのだ。それまでは彼女の存在すら知らなかった。七クラス三〇〇人もいれば知らない生徒もたくさんいる。目立ったり、派手な生徒なら噂が耳に入ってくるけど、彼女はそういう類いの生徒ではなかった。
「片桐柚羽です。部活はやってません。よろしくおねがします」
 それが彼女の自己紹介だった。面白くもない、個性もなくおじぎをして着席した彼女に、クラスメイトはなおざりに拍手した。
 みんなの興味はすぐに次の男子生徒のモノマネにうつっていった。笑い声に混じって、仲良い男子の野次が飛んだりしたが、私だけは片桐さんの横顔を見つめていた。
(名前、ゆうはって言うんだ……)
 背が高くて顔立ちも美人だけど男子にはモテなそうだな、と思った。
 彼女と話してみたいという思いが心の片隅にあったが、これといった機会がなかった。
 選択科目の美術で彼女を見つけて、
(おっ、ゆうはちゃんもいる!)
 と、思ったけど、私は私で仲良しグループと座っていたので、今日まで話しかけるタイミングがなかった。
 一学期の終わりになって、課題の自画像が授業中に出来上がらなかった生徒は、放課後に作業するように言われていた。
 グループの友達はみんな提出していて、私は一人で美術室に向かった。
 五人ほど作業している子がいた。そのなかに一人だけまだ何も書けていない子がいて、誰だろうと思ったら、それが彼女で。私は彼女のキャンバスが覗ける席についたのだった。
「過呼吸ってなに?」
 彼女がまた振り向いてくれた。
「んー、吸い過ぎて二酸化炭素が過剰になっちゃう状態かな。吸っても吸っても息が吸えないかんじ」
「え、なにそれ、辛そう」
 私はイスを尻に押さえたまま、とことこと彼女の隣りへ移動した。
「つらいよ。手がしびれてきたりして、それから視界が真っ白になるの」
 彼女の視線につられて、私もキャンバスを見た。
「雪みたい」
 私はすぐに後悔した。
「あ、ごめん……」
「うんん、ホワイトアウトならぴったりだし」
 雪原で地面の雪と雲との境界があいまいになって、方向感覚が狂ってしまう現象をホワイトアウトと呼ぶのだと説明してくれた。
「生きてるのか、死んでるのか、わからなくなるの」
 彼女がキャンバスに白を塗っている理由がわかったような気がした。
「死ぬようなことはないし、一〇分もすれば治まっちゃうんだけど、発作の最中はそんなかんじ」
 月曜の朝になると発作が起こることが多くて、美術の授業はほとんど出れてなかったらしい。私は彼女がいないことに、ぜんぜん気づいていなかった。
「頑張らないと単位落としちゃう」
 彼女は笑って、また筆を動かし始めた。
 ふと窓の外に目を向けると、夏空に浮かぶ綿菓子みたいな雲が見えた。

(緋片イルカ 2019/01/14)

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