男の人と付き合うのは彼で7人目だ。
多いねとか、モテるねという人もいる。
わたしよりも経験の多い人はそうは言わない。
付き合った人が多いということはそれだけ別れた人も多いということだ。
別れた時の気持ちを考えると、もう誰とも付き合わなくてもいいとさえ思う。
別れる度に自分の世界が狭まっていくような気がする。
それは実際、そうなのだ。別れた恋人にはもちろん会えないし、その友達にもどことなく会いづらい。初めて付き合った子がよくなめていたグレープ味のドロップを手にとることはないし、4番目の彼の影響でクラシックに興味を持てるようになったバロック音楽の棚は避けている。
未練があるとかそういうことではないのに、そうやって自分の世界が狭まっていくのが、寂しかった。
わたしは、告白されるとこの話をして断ることにしている。
けれど、
「俺なら悲しませるようなことはしない」とか、
「思い出を塗り替えそう」とか、
「一緒に新しい世界に踏み出そう」とか、
ドラマじみた、けれど不器用で野暮で、ゆえに情熱的な言葉を照れくさそうに言われると、なんとなく、この人なら大丈夫という気がしてきてしまい、別れてきた。
彼のことを好き、と思ったことはない。彼からも言わない。
彼は、バイト先のお客さんだった。いつもお昼の決まった時間にやってきてコーヒーとサラダだけを頼み、それだけを食べて帰った。わたしが仕事に入る日には必ず来た。毎日来ているのだと思っていたが、バイト仲間に聞くと、必ずという訳ではないらしかった。しかし、わたしのいる日は必ず来ていた。
12月のある日、コーヒーとハムサンドを頼んだ。
「ハムサンドでよろしいですか?」
わたしは注文を聞き返したつもりでハムサンドを強調してしまった。
「ええ、コーヒーとハムサンド。今日はサラダじゃないから驚いた?」
「いえ、すみません。」
「今日は、めずらしく朝が食べられなかったんだ。」
「お忙しいですね?」
「〆切り前だからね」
わたしがレジをうって会計が済むと、彼はわたしをドライブに誘った。
「どうせ一人でも行くつもりだから、嫌ならいいけど?」
その言葉が気に入って、
「お願いします。」
わたしは行くことにした。
日曜の朝、彼はサルサレッドのVWビートルでやってきた。
「この車だけは誰にも縛られずに買ったんだ。」
後になって思えば、それは彼自身の軟らかい心を被う硬い甲羅でもあったのだ。
彼はわたしに行きたいところはないか聞いて、わたしが「ない」と答えると、千葉の房総へ連れて行った。
冬の海は誰もいなかった。
「海を独り占めしたみたいでしょ?」
と、彼は言った。
わたしと彼はただ座って海を眺めていた。
犬をつれたサンダル履きの女性がやって来て、去っていった。
わたしと彼は何も話さず座っていた。
体が冷えてきて、わたしは手をさすった。
「車に戻ろうか?」
と、彼が言った。
冷えた体に車内の生暖かい空気を纏(まと)うと、わたしは彼と打ち解けたような錯覚を覚えた。
「寒かったですね?」
「そうだね。」
「冬の海なんて初めて来ました。」
「そう。」
「新しい世界でした。海っていうと夏だと思ってたので、ずっと来てませんでした。高校生以来かな…。」
高校生の時に付き合っていた子が浮かんですぐに消えた。
「ぼくはもう二度と来ないと思ってた…。」
わたしは彼の言葉の意味を、自分の経験と重ねて理解した。
そして、彼にかけるべき言葉を探した。
頭に浮かぶのはドラマじみた不器用で野暮で情熱的な言葉ばかりだった。
その言葉たちは彼の耳には「あなたを好きです」と聞こえるに違いないと思った。
それはわたしの気持ちに嘘をつくようだけれど、今はそれでもいいとも思った。
わたしは喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、そっと彼の膝に手を置いた。
彼とは付き合うことになるだろうな、と思った。そして、やがて別れることにもなるだろうと思った、がそれは今はまだわからない。
(「サルサレッドのカブトムシ」おわり)