「後朝」読めますか?(ゲス漢12)

※漢字の答えは広告の下にあります。小説内にお題の漢字が出てくるので、よかったら推測しながらお読み下さい。

 部屋にあがるとあの匂いがした。
 安物のオーデコロンの匂い。トイレの芳香剤のようだと思った。強烈な匂いで行為の後の臭いを上書きしようとするような。
 カオリは敷かれていた布団の下に足先を入れて、くるっとめくって半分に畳んだ。それからコンロをカチリとひねって薬罐(やかん)を火にかけた。
 白いTシャツがカオリの体のラインに張りついている。胸の突起もはっきりわかる。この女は加納の恋人だと思い出して、逸らすように視線を下げるが下半身もパンツだけ。
 俺はグレーの布に包まれた肉のふくらみを無遠慮に見つめていた。妲己に惚れて政治をおろそかにした紂王の気持ちがわかる。この女を抱けるなら、他はどうなってもいいと思える。
「そういえば会社、辞めたんだって?」
 交通事故の後、面倒くさくなって辞めてしまった。何があったの?といちいち事故のことを説明するのが億劫になった。どうせ生活には困らない。
「腕が治ったら、また、どこか働こうかなとは思うよ。これでも一児の父親だからね」
「ふうん。コネがある人はいいね」
 羨ましい気持ちは微塵(みじん)も込めていない声だった。カオリは俺の息子のことなど興味もないのだ。自分の分だけインスタント珈琲を作って、砂糖をスプーン四杯も入れた。
「あ、ゲス雄くんもなんか飲む? 冷蔵庫から勝手に飲んでいいよ」
「いや、何もいらないよ」
「そう」
 カオリは立ったまま足首を交差させた。息で冷ましながらコーヒーを飲んでいる。窓からの西日がちょうどカオリの脚を斜めに赤く染めている。秋の彼岸をすぎて、暗くなるのが早くなった。
「で、どうする?」
 カオリが聞いた。
「どうするって?」
「裕也に頼まれてきたんでしょ。私が浮気してないかどうか確かめて欲しいとか」
 事故のときに助手席にいた加納裕也はカオリの恋人で、いまは全治3ヶ月で入院している。
「浮気=セックスって言う意味ならしたよ。さっきもしてたし」
 カオリの視線を追うと畳んだ布団があった。
「よく言うでしょ。男の浮気は体だけ、女の浮気は本気だとか。でも私はどっちでもないかな。セックスは珈琲を飲むのと変わらない。ここの店のは濃くておいしいとか、こっちの店は酸っぱいなとか。まあ、どうせなら甘い方がいいかな」
 カップに口をつけてから、
「べつに珈琲も好きじゃないんだけどね」
と笑った。
 その後、どんな会話をしたか全く思い出せないが、俺達は抱き合った。朝まで何度も何度も抱き合って、そのまま眠った。
 カーテンを開ける音。
 朝日が射し込んできて目を覚ました。
 カオリが窓を開ける。朝の冷ややかな空気が肌をかすめる。
 東の空にいわし雲。よく晴れて朗らか(ほがらか)な青空だ。
「これからバイトなんだよね」
 カオリは夜通し愛しあったのが嘘のように、そそくさと準備を始めた。

東雲の(しののめの)
朗朗と(ほがらほがらと)
明けゆけば(あけゆけば)
己が後朝(おのが後朝)
なるぞかなしき

 これが、カオリと会った最後だった。
 家も引っ越して急に行方知れずになった。加納は田舎に帰ったのかもしれないと納得していたが、彼女の出身がどこなのかも知らないといっていた。
 俺とのことが彼女の失踪に関係していたのかはわからない。ただ20年以上経った今でも、街であの匂いにすれ違うと、俺は振り返らざるにはいられない。




今日の漢字:「後朝」(きぬぎぬ)
漢字の意味は、男女の行為の後の朝。受験用の重要古文単語には入っていることばです。やまとことばは好きです。
作中の和歌は『古今和歌集』歌番号637。読み人しらずです。歌の意味は「東の空が明るくなってきた。そろそろ帰る時間か、さみしいな~」。昔から男女の気持ちは変わらないのかもしれません。ゲスな関係だとしても。

(緋片イルカ2018/11/7)

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