「それが愚痴だとしても」

 今年で古稀になる。狸じじいは語った。
「古稀って知ってるか?」
 年寄りじみた下衆な仕草で女の子の肩に手を回した。こんなえろじじいが確かに僕より物を知っていて、世の中でも認められている。節くれ立った手ははじめ叩くように触れて、そのまま女の子の肩に置かれたままになった。僕は目を逸らす。
 大学のゼミの打ち上げだった。何が一番許せないかと言えば、女の子もまんざらでないことだ。大人の男女による正当な取引。
 僕はビールを飲み干して、隣の奴に紙幣を掴ませ、席を立った。
「あ、いいらしいよ、今日は先生のおごりだよ。」
 顔を赤く染めた男に視線を投げかけた。あんな男に奢られる気か?
 僕は何も考えなてなさそうな男を無視して外に出た。

 小うるさい繁華街を抜けながら思う。
 満月が我を見る。
 ぎょっろと睨んで我を見る。
 ただ、ただ、我を見る。
 満月だけが我を見る。
 僕の衝動を代弁するように酔っぱらいの嬌声が響く。

 恋人の部屋のベルを鳴らすと、出てくるまでに間があった。何かを隠す時間がぴったりとその「間」にはまった。中が見えないようにドアを空けて、
「どうしたの? ゼミの飲み会じゃなかったの?」
「途中で帰ってきた。」
 君の顔が見たくって、と言ったら嘘になるだろうか。
「そう。」
 中に入って良いかを聞けない僕と、入るか聞かない彼女。
「今日は、なんだか疲れたから帰るよ。」
「そう。私も疲れてもう寝るところだったの。」
「じゃ。」
「じゃあ。」
 閉められたドアの中でなにやら物音がした。

 あと一つだ。それさえ失えば僕は喪失物語の主人公になる。親友もいない、家族とも対して心通わしている訳じゃない。
 財布を開けると一万五百三十六円入っていた。
 近くのコンビニ入ると温かい缶コーヒーを一つレジに出した。店員はレジを打つ。
「その、後ろにあるのDVDですか?」
「そうです、映画です。」
「いくらですか?」
「これは…。」
 店員は試みにスキャンして金額を言うと、すぐに取り消そうとした。
「あ、じゃあ、そのまま下さい。」
「これでいいんですか?」
「ええ、それからその隣のも。」
「隣りってこれですか? こっちですか?」
 店員は抜いたDVDの両脇を交互に指す。
「どっちでもいいですよ。」
「え?」
「じゃあ、それ。」
「これですか?」
 店員は一つを手に取った。
「そうです。それが一番欲しかったんです。」
 小銭はレジの横にあった募金箱にすべて入れた。それでも2千円以上残った。

 缶コーヒーだけ出して、次のコンビニのゴミ箱にビニール袋ごとDVDを捨てた。
 タクシーを一台止めて、
「すいません、2千円しかないんです。行けるとこまで行ってもらえますか?」
「なんだ、兄ちゃん飲み過ぎたのか? まだ電車あるだろう?」
「ええ、でも、地方なんで、もう無理です。」
「何線だい?」
「いや、ないんです、ほんと。」
 運転手は僕のおかしな様子を察したらしく、それ以上きかず黙ってドアを閉めた。
「どっちの方?」
「そのまま、まっすぐ行って下さい。曲がるところで言いますから。」
 タクシーは一度も曲がることなく進み、料金カウンターが2千円ぎりぎりのところで運転手は止めた。
「こんなところでいいのかい?」
「ええ。ありがとうございます。」
 20円のおつりをもらった。
「あのな、兄ちゃん。タクシーで帰らなくちゃいけないのに手持ちがない時、人は二つのタイプに別れるんだよ。歩けるところまで歩いてからタクシーに乗るやつと、タクシーにで行けるところまで行ってから、歩くやつだよ。どっちのタイプのが出世すると思う?」
「さあ。先にタクシーに乗ってから歩くやつかな?」
 言ってから、それが運転手から見た僕にあてはまることに気が付いた。合理的だからそう思うんだと自分に説明した。
「そうか、そう思うか。」
「どっちなんですか?」
「世の中には歩けるとこまで歩いてから乗る奴が圧倒的に多い。だからどっちかと言えば、兄ちゃんみたいな考えは珍しいと思うがな。」
 運転手は核心に迫るように溜めて。
「でもな、ほんとに出世する奴はもともとタクシー代に困らないんだよ。」
「そうかもしれませんね。」
 タクシーは走り去った。僕は20円をタクシーに向かって投げつけた。
「ここ、どこだよ。」
 満月はあいかわらず僕を見ている。
(了)

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