「ねがえり」

 家の明かりが消えていた。その時吹いた冬の風が意志を持ったように肌に張り付いた。
中が暗いのを見た瞬間、私は悟った。彼の気持ちに変化があったことを。
それはいつか来ると思っていた。充足に慣れすぎて感謝する心を失ったために帳尻あわせが必ず起こると思っていた。だけれど、こんなに唐突にやってくるとは思いもしなかった。
私はお礼を言うのが苦手だ。その他の感情もうまく表せない。彼が必ず起きていてくれることに感謝していたのに、いつも言葉にできないで、やがて慣れてしまっていた。
時々、慣れ過ぎた自分に気がついて、今日は言おうと思って帰った日も、なかなか言い出せず、言葉をのどに詰まらせて不自然にしている私を彼の優しさが包んでしまい、甘えてしまう。
私のできないことはたいてい彼がしてくれる。私は洗濯は好きだけれどアイロン掛けが得意でない。やけどした事があるせいだ。そのことを彼は知らないはずなのに黙ってアイロンを掛けてくれる。聞いたことはないけれど、もし聞いたとしても私が掛けないからだとは言わないだろう。たぶんこう言う。
「アイロンを掛けるのに理由がいるのかな」
ときどき彼の優しさが息苦しい。私は彼をとても大切に思っているのに、それはおそらく彼には伝わっていない。だからこそ彼はあんなにも優しくしてくれるのかもしれない。見返りでも求めるように。
そこまでわかっていながら私は何も言えずにいる。何もできずにいる。わがままな自分が彼への気持ちより前に出てくることもある。私の本心は彼のことを好きではなく、ただ楽だから彼といるだけだと。それも血の気の多い日になると彼に嫌われるのを待っているとすら思う。
 同棲することにも反対だった。だから初めは断った。けれども理由を聞かれて答えられず、何とか私の口を出た「怖い」という言葉は、新生活への不安と解釈され、強引な優しさの前に打ち消されてしまった。やむなく同棲が始まった。
とはいえ始まってみればどうということもなかった。彼は相変わらず優しく――あるいは私が怖かったのは彼の優しさが失われることだったのかもしれない――私は相変わらず鈍い。
 そう、私はなんて鈍いのだろうか。結局こうなってしまうまで変われなかった。暗い部屋の中で彼は何を思っているのだろうか。私は忍び込むように家に入った。
蛍光灯のスイッチを入れた。ぱちりといって、彼が起きてこないかどきりとしたが、白く灯って後はしんとした。湖のように静かで寒い。
寒がりな彼はわずかな時間しかないときでも暖を取りたがる。寝坊してすぐに出なくてはならないときでも、まずガスストーブを点け、それから慌てて着替え始める。私と出かけるときでも家を出る直前に切る。消し忘れたら怖いと心配したら、消し忘れたら帰ってきてすぐに暖かいからうれしいと言う、火事になったらと声を張り上げると、さぞ暖かいだろうと笑った。最後まで火にあたっている彼なら消し忘れることもないだろう。こうしてしっかりと消してある。彼が寝ているだけで部屋の温度がこんなにも下がるとは思わなかった。
疲れもあって、すぐにでも蒲団にもぐってしまいたかったが、彼が寝ているので躊躇った。彼を起こしたくなかった。彼の言葉を聞きたくなかった。せめて今日だけ、このままでいたいと願う。
私はテーブルの上に紙切れを見つけた。それはすぐに置き手紙であると知れた。そこには整った柔らかい字で、
「少し疲れたので先に眠ります。おつかれさま」
と書かれていた。
私は自分の危惧していたことはまだ起きていないと知った。彼が優しいままの彼であることを知って心から安堵した。その中には彼に嫌われることを願っているのなら起こるはずの感情の微塵も見出せなかった。
私は少し泣いた。泣けることがうれしくてますます泣いた。
私は涙が溢れてきてお風呂に逃げ込んだ。お湯はもう冷めていたが、冷えた私の体には温かく感じられた。湯船に落ちた涙は区別がつかなくなった。私はまた彼の優しさに包まれている。
ようやく落ち着いたところで言わなければならないと決意した。今日は何も変わっていなくても、言わなければいつかは変わってしまう。
彼を前にしたら言えないかもしれないと思ったので置き手紙に
「ありがと」
「ごめんね」
と精一杯の大きさできちんと並べて書いた。
裸のままだったので体が冷えてきた。そのまま私は彼のいる蒲団に潜り込んだ。
彼は驚いて起きた。
「わたしよ」
私の顔を半目でしばらく見つめ、それから、
「おかえり」
と、ごにゃごにゃ言いながら目は閉じられていった。
私は彼の体温が知りたくなった。彼はうつろなまま素直に脱がされてくれた。彼の考えているかもしれないことを一人想像して楽しんだ。それが当たっていたらそれでもいいと思った。けれど彼はそのまま動いてこなかった。体温計になったつもりで彼の胸にぴたりとひっついた。温かかった。しばらくそうしていた。思ったよりもっと長い時間そうしていたかもしれない。
「36度8分。平熱通り」
彼が寝返りを打った。今度は彼の広い背中にひっついて――。
(了)

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