「ベルト」

 革ベルトが千切れそうになっている。彼の腰を長年巻いていたそれは、ズボンのベルト通しに擦れてひび割れている。彼は毎朝そのベルトを見るたびに自分の神経のようだと思う。
二十二歳で外資系の大手に就職が決まった時がもっとも輝いた時だった。大学の友人連は彼の就職先を羨ましがった。付き合っていた恋人と結婚の約束もした。すべてがいい方に向かっている。彼は自分が偉大な人物のように感じられた。高級ブランドのスーツを揃え、ベルトはイタリア製の人食いワニの革を使ったもので友人連の月給と同じ額した。
しかし入ってみてそうでないことは嫌な程感じられた。自分程度の人間は会社にはごろごろといた。その中でことさら優秀な人間が出世していくのを見ながら、彼は卑屈にならざるをえなかった。それまでは、彼に対する評価と傲慢な自尊心とは同じ高さに見られていたが、そこでは自尊心だけが残った。彼は口先だけの人間という評価を受けた。
彼のは恋人に不満のはけ口を向けた。恋人は次第に遠ざかり、結婚の約束は果たされないままになった。彼はひとしきり悲しんだが、自分にはもっと相応しい相手がいると思い直した。それは前向きな気持ちではなく恋人の存在を見下した高慢なものだった。まだ彼のベルトは光沢を失っていなかった。
それから四十年、彼は会社に縛られて生きてきた。いまでは自尊心にもひびが入り、社内の新入社員にベルトを見せては「俺も若い頃は――」と口癖のように言うようになり、今ではそういうのにも疲れていた。毎朝、ベルトを通したままのズボンを履いては溜め息をつく。独り身で行って来ますを言う相手もなく黙って家を出る。
朝の通勤電車は今日も混んでいる。そこでは子供に無理やりにされたおもちゃのように詰め込まれ目的地までをじっと耐えている。彼はこの毎日をずっと耐えてきた。
冬の間はまだよかったのだが、最近では少し暖かくなってきた。外の気温こそ低いがそのままの格好で暖房の効いた地下へ行くともわっとする。空気も濁っている。もし電車の窓をすべて見えないように塞いで、走っていく様を外から見たら、たいそう爽快な乗り物に見えるだろう。
ドアが彼の真ん前で――彼には止まる位置はもうわかっているので、ぴったり止まり、口を開いた。そこから、始め二三人、押し出されるようにしながら人が出てきた。彼は入り口の脇で電車が人を吐ききるのを待った。
赤茶のワンピースを来たかぶのような年増が出ようとして、自分の右手に引っぱられた。ハンドバックが引っかかったらしい。後ろから一人、突然止まったかぶにぶつかりそうになって片足で跳ねるようにかわして出ていった。次々押し寄せる人の波は赤かぶごと流れていった。車内にポッカリ穴が空いた。
彼は一番乗りで、人の流れを受けない端に立った。空いた空間にそれ以上の人が乗ってきた。彼のは圧力を受けた。若い女の肩に押される形で彼の位置はずらされた。
女は彼にすみませんという感じで頭を下げた。黒髪の長い女だ。背Sが低く、彼女の頭のてっぺんがちょうど彼の鼻の前に来る。ほのかにフローラルな香りがし、風呂上がりの半乾きに梳いたばかりのように直ぐで細くて軽そうな髪は彼女の身体を包み込むように広がっていた。睡蓮でも開いたかのように。
彼女は照れた女学生のような仕草で俯いていた。顔こそ見えなかったが二十代の前半といった雰囲気だった。彼のもっとも輝いていた頃と同じ。
ぶるるんと身震いをしてから電車は走り出した。
彼は目の前の若い女を意識しないように努めた。そういうことは慣れたことだった。中年を過ぎると間違いがどこで起こるかをよく心得ていた。きちんとした誰もが疑わないような姿勢を取った。
電車は小刻みに揺れた。朝の詰まったダイヤでは前後の間隔が狭いので、出過ぎず遅れすぎず走らなくてはならない。それは彼の会社での態度に似ていた。出る杭は打たれる、足を引いたら疎まれる。平穏にやり過ごそうとする彼を誘惑するように彼女の身体が揺れた。二度三度と車内が揺れるごとに、彼女は体勢を崩しそうになっては堪えた。
駅が近づき減速し始め車体は傾いていく。彼は目の前の女に触れぬように無理な姿勢で堪えた。そのまま何とか堪えていたが、ホームに入っていよいよ減速というところで、さらに傾斜し、彼は一歩前に出て体を支えなければならなかった。
その時彼のズボンが脱げた。それを反射的に感じて背筋をひやりとしたものが走り抜けた。
電車が止まった。彼は自分の状況を確かめる間もなく人の波に押し出された。ズボンは脱げてはいなかった。脇に逸れて上着の裾をめくると、ベルトの革がバックルのところで別れて、吊られた死体のように下がっていた。脱げたと感じたズボンはベルトが切れて緩んだだけだった。
ぷううとドアを閉める警告音が鳴る。彼はすぐに戻ろうとしたが、振り返るとドアの向こうの車内がなにか違った世界に感じられた。それは夜の暗がりのような不必要に立ち入っては行けない場所のように感じられた。警告音が止み、車掌がもう一度声を上げて警告してから、ドアが閉められた。
次の電車に乗れば会社には間に合う。ベルトがないと心地は悪いが端から見ておかしいわけではない。気になるなら途中で安物でも拵えればいい。デパートの開く時間まで待って、会社には遅れていってもいい。
けれど、どれもその気になれなかった。ベルトと供に彼の中の別な何かも切れてしまったようだった。
よたよたと、しかし不思議と軽く感じられる足取りでホームのベンチに座り込んだ。もう一度裾をめくり、ベルトをするすると引っこ抜いた。指で切れ目をさすってみた。見事に擦り切れていた。彼の頭の中にベルトの値段や使った年月が数字となって浮かんだ。
まもなく次の電車が入ってくる。乗る気は全く起きなかった。
トンネルの向こうから地響きが音になって近づいてくる。その音がだんだん膨らんでいき、いよいよというところで轟音をまき散らして電車が入ってきた。彼ははじめて電車を見たかのように驚いた。彼には電車が大きな獣のように見えた。
ドアが列の前に止まり口を開いた。列はドアの左右に別れた。口から吐き出されてくる人達は何かを吸い取られたような顔をしていた。電車が栄養分を吸い取って、残りかすを排泄しているかのようだ。
新聞紙を読みふけっている男が獣に食べられる順番を待っている。あの男は現実から目を背けるために新聞を離さないのかもしれないと思った。あるいは獣に噛み砕かれる恐怖がそうさせているのかもしれない。列が動き始め、前にいる者から口の中に飛び込んでいった。電車は人々を飲みこんでどこかへ向けて走り去っていった。
彼はひどく疲れてしまった。薄くなった頭を撫でて、一溜め息ついてから、こうしているわけにはいかないだろう、と思った。
携帯電話を出して、それからベルトと一緒に丁寧にしまい、公衆電話でかけることにした。小銭が三枚しかなく、それをすべて入れてから、会社の番号を押した。
「おはようございます。お電話ありがとうございます。○○でございます」
「もしもし、えっと」
 彼は自分の会社の丁寧な対応に何を言っていいか戸惑ってしまった。いつも玄関で会っている顔見知りの受付の女の子の声がまるっきり別なものに聞こえた。
「あのね営業課の○○だけど」
「おはようございます。どうなさいました?」
「今日ね。ちょっと休みたいんだけど」
「さようでございますか」
 受付嬢は急に砕けた調子になって、
「○○さん、具合でも悪いんですか?」
「具合と言えば具合が悪いんだ。ちょっと切れちゃってね」
「切れた、というと?」
「うん、まあ、平気なんだ。明日には行けると思うから、今日は休むと伝えてくれ」
「わかりました。ええっと、あの、どういう形で連絡しておきましょう?」
「本当はねえ、ベルトが切れてしまったんだ。長年差していた奴でね。それが切れたら行く気がしなくなっちゃってね」
「そうですか、わかるような気がします。私も化粧ののりが悪いと行きたくないです」
「うん、まあ、そういう感じだろうよ」
「一応、体調不良にして連絡しておきますね」
「うん、家を出ようとしたら立ちくらみがしたんだ」
「ええ、○○さんは普段、真面目ですから一日ぐらいどうってことないですよ」
「僕が真面目?」
「ええ、とても真面目ですよ」
「そうか、ありがとう。じゃあ」
「ええ、お大事に」
 受話機をかけると、必要とされなかった小銭が落ちてきた。彼はそれをしまい駅を出た。
 地上へ続く階段を上がるにつれて彼は外を感じ始めた。太陽の日差しと懐かしい匂い、目の奥まで届く明るさ。
 彼は改札を抜けると奇妙な既視感を覚えた。
ここに来たことがある。
それはそうだ。彼は家から二駅しか乗っていない。何度も降りたことのある知った駅で降りたのだから。しかし、そこは知っている街ではなかった。知らないけれど来たことのある街。
ここに来たことがある。
そこは四十年前の街並みだった。彼が輝いていた頃の街。
見回すと彼の周りはみな四十年前の格好をしている。どきりとして振り返ると、改札は彼の時代の自動改札機のままだった。きっとあそこを通れば戻れるだろうと思い、四十年前の街を歩いてみようと思った。
彼にはこの不可思議の理由が分からなかったが、反面わかるような気がした。それは、あるものとあるかもしれないものとの境界線が曖昧だった子供の頃の気持ちに似ていた。いつからか現実的な考えばかりに縛られていた自分を感じた。
駅前の煙草屋には耳の遠いお婆さんが座っていた。
「下さい」
「あい」
 お婆さんは耳が遠い上にカタカナ文字の多い煙草の名前が分かっていない。だから顔で銘柄を覚えている。客が前に来ると顔を見て何も言わなくても出してくれる。
 お婆さんが腰を曲げて煙草を取る間に、新聞に目をやった。そこには四十年前の一面。懐かしさよりも物珍しかった。彼はそれをとってみようと思ったが、お婆さんが値段を言いつけてきたので払った。紙幣はこの時代には発行されてないものだったが平気だった。
「あんた、しばらくだね」
「はい」
「どっか行ってたのかえ?」
「ええ、やっと帰ってきました」
「遊んでばっかいないで勉強するんだよ」
「はい」
 ガラス戸には彼の顔が映っていた。それは二十二歳の顔だった。彼はガラスを鏡にして、顔を斜めに傾けたりしながら、手櫛で分け目を作ってから、
「じゃあ、おばあちゃん火事に気をつけて」
「縁起悪いこと言うんじゃないよ」
 彼が就職して何ヶ月かして煙草屋は火事で焼けた。その話を聞いたのは恋人と別れた日だった。恋人が話してくれたその話を彼はつまらなそうに聞き流した。その後、彼女は別れ話を切り出した。彼女が頭をよぎった。けれど、髪型や服装は浮かんでくるのに肝心の顔はぼやけて浮かんでこなかった。
 さて、何をしようか。彼は頭を切り換えようとした。せっかく二十二歳に戻ったのだから、若くなければ出来ないことをしよう。彼はあれこれ考えながら歩いた。映画を見ようか踊りに行こうか。すれ違う若い女を品定めしながら何かを期待していた。
そのうち、そんなことを考えるのに飽きてきた。彼には声をかける勇気もなければ、かけられる魅力もなかった。本当の二十二歳の彼は自信に満ち溢れていた。たいていのことは上手くいき自分が物語の主人公のような気がしていた。しかし、そんなことはなかったのかも知れないと感じた。
それと、もう一つ。彼はその頃、どんなことをして過ごしていたのか思い出してみて、ほとんどが彼女と一緒だったということに気が付いた。
記憶の中の二十二歳の輝きが急速に弱まっていくは決して悪い感じだけではなかった。
彼は足を実家へ向けた。
もしかしたら、自分とは別に二十二歳の自分がもう一人存在しているのではないか。その考えが強まるにつれて、彼の足どりは早まっていく。そこの通りを曲がると彼の実家が見える。彼はゆっくりと獲物を狙う猛獣のように、実家に近づいていった。
表札には彼の名字が掲げられていた。別の人間に明け渡された家に、ここではやはり彼の家族が住んでいる。今ではもういなくなった両親も、彼自身も。どのようにして入るのがもっとも自然か考えた末に、当たり前に帰るように入ることにした。
鍵がかかっていた。もし、あの頃の状態なら父は会社に、母は近所の会社の食堂にパートに行っているはずだ。彼自身はいない。彼は引っ越してしまったので鍵は持っていなかった。しばらく待っていたら誰か帰ってきそうな気がした。夕時まで待てば母は帰ってくるだろう。
けれど、会って何を話せばいいのかは分からなかった。母が彼のことをどう捉えるかも分からない。死んだはずの両親に会うのはいけない事のような気もした。あるいはこの街を用意した誰かが、不都合のないように彼と彼の家族については調整しているかもしれない、というような考えも起きた。
彼はもし誰かが帰ってきてもいいよう目一杯に時間をかけて、そこを離れた。結局、誰も帰っては来なかった。
公園のベンチに座り込んで煙草を取り出した。内臓を悪くしてから止めていた。久しぶりに煙を肺に吸い込むと、それはただ空疎な味でしかなかった。
彼は二つの考えで悩んでいた。この街に留まるか、改札を通ってもとの世界に戻るか。それはすでにどちらにも魅力などなかった。ただそれぞれにメリットとデメリットがあるだけで、どちらかを選びたいというのではなかった。
駅まで向かうのは億劫だった。駅を通り電車に乗って家まで帰る。明日には会社に向かわなくてはならない。ベルトはないままだ。鏡の前で溜め息をついて、もう一日休むことを考えたりする。それに比べれば、ここに残る方がましではないだろうか。
実家はある。自分がもう一人いるような問題があれば、離れて生きていってもいい。なにか、新しい人生を歩めばいい。まだ二十二歳なのだから。それは喜びよりも面倒なだけであった。まだ二十二歳であと何年生きなければいけないのだろう。
彼は煙草をもみ消した。子供達が遊具を中心にして逃げたり追ったりしている。円型で中央のハンドルを回すと座席も回る仕組みの遊具の陰に一人隠れて、別の一人がそれを見つける。見つかると隠れていたのは飛び跳ねてまた別の遊具へ逃げる。鬼ごっこのような遊びかしらと思ったが、そうではないらしい。追いつかれても笑い合うだけで、追う逃げるが逆転することもないし、逃げる方も真剣ではなかった。そこにはルールというものがなさそうだった。
自分にもあんな頃があったのだろうか。ルールなんて必要のなかった頃。
彼はおもむろに立ち上がった。ベルトを買いに行こう。どちらを選ぶにしても彼の緩いズボンを支えるものが必要だった。財布を開くと数枚の紙幣。上等なものが買えないかも知れないな。それに上等なものを買いに電車に乗ることも出来ないような気がした。
この街でベルトを買えそうなところが三軒しか思い浮かばなかった。そのうちの一つに向かった。ビジネスマン用の洋服を揃えた大手のチェーン店舗だ。その途中もう一軒の前を通った。そこは仕立屋といった感じの構えで、薄暗く、彼がこの街に住んでいなかったら、そこが店だとはわからないようなところだ。実際入ったことはなかった。通りかかると店の親爺がこちらを睨んでいる。まるで犯罪者を見るような目だ。
彼は立ちすくみ、そのまま言い訳でもするように、その店に入ってしまった。
親爺は睨んだまま声もかけてこない。
「ベルトが欲しいんだが」
 彼は言ってから今の自分の容姿にそぐわない言い方だったと思った。けれど親爺は表情一つ買えずにベルトのある方を指さした。無造作に並んだシャツを掻き分けていくと、ベルトが五列になってかかっていた。その五列は分けてかけてあるわけではなく、同じものも違ったものもごちゃ混ぜに五列にかかっていた。全部で三種類ぐらいしかなかった。それにいくらか長さの違うものがいくつかあった。
 彼は三種のうち一つは気に入らず始めから取らず、残りの日本を手にとって比べた。と、真後ろで猛獣の唸るような声がした。彼がどきりとして振り返ると、親爺が音もなく近づいてきていて、今度は鏡を指している。
「ありがとう」
 彼はもう決めかけていたが、二本を持って鏡の前に立った。半端な感じで腰に合わせたりしてから、決めていた方を親爺に渡そうとすると、
「それはね。高級なやつだ。ワニの革を使ったやつでね。その中では一番高い」
「ワニの革?」
「そう。ワニだ」
「人を食うワニか?」
「人を食うワニだ」
「本当か?」
「本当だ」
 もう一度、鏡の前に持っていった。二本を交互に合わせながら、値札が付いていないか探したが付いていなかった。ワニの方を合わせて、
「こっちはいくら?」
「○○円」
「こっちは」
「半額」
 どう見ても二本は同じもので色合いが違うだけだった。けれど親爺に乗せられて倍の値段を払うのも馬鹿らしかったし、気に入ってない方を買うのも癪だった。
「こっちがいいんだけど、安くならないか?」
「お前、就職か?」
「ああ、決まったところです」
 彼は急に気持ちを切り換えて二十二歳を装った。
「そうか、じゃあ、半値でいい」
「じゃあ、もらおう」
 彼は親爺がワニ皮と言い張るベルトを買った。それは人工樹皮が塗られて必要以上にてかてかに輝いていて、明らかにワニ革ではなかった。
再び公園に戻るとトイレに入った。顔を洗う。手を洗う。目の前の鏡に自分の顔が映っている。これが冴えない顔をしているので濡れたままの手でこすってみると気持ちいい。ごしごしと快感のおもむくままにやってから顔をみると、いくらか赤味を帯びてきた。その色に生きた心地を感じたのでもう少しやってみた。ベルトを巻いてから、また顔を洗う。手を洗う。ところが次にあげてみるとどういうわけか青い顔をしている。それは四十年後の顔だった。内臓が悪く頭頂部の薄くなった顔だった。彼は今朝そうしたのと同じように溜め息をついた。
よれたハンカチで顔を拭いて、ようやく彼は答えを見つけた。駅まで帰り改札を通って電車に乗って家に帰る。明日にはこの新しいベルトを眺めて溜め息をついて家を出る。ベルトを巻いた彼にはこの街が不自然なものにしか感じられなくなっていた。
彼がとぼとぼと公園を出ようとした時、二人の男女が入ってきた。男が前をふて腐れて地面を蹴って歩き、その男に露骨な距離をとって女が俯きながらついていく。
「ねえ」
「ん」
 彼は返事をしたが止まらない。
「ねえって」
「何?」
 不機嫌な動作で振り向く。女は言いだせず間が出来る。男がまた歩き出そうとする。
「ねえ」
「何?」
「もう」
 それっきり詰まる。
「うん」
「会うのやめよう」
 男は無言で真っ直ぐに女を見る。その強い視線を女は前髪を盾にして避ける。
「そう。何で?」
「何でって。私といてもつまらなそうだし」
「煙草屋が焼けたからって笑えないよ」
「そういう事じゃないの」
「じゃあ、なんだよ」
「もう、いいの」
「そう。じゃあいいよ」
 男はそのまま立ち去った。女は表情を変えずその後ろ姿をじっと見つめていた。男が見えなくなるまで見た後、自分に頷いて来た道を戻っていった。男は一度も振り返らなかった。
 彼はその様子を始終眺めた後に女を追いかけた。
「お嬢さん」
「はい」
 女はどなたという顔をするが、表情はまだ固い。
「あのね、僕は、その、今そこの公園にいてね」
「はあ」
「その、君たちの様子を見ていたんだけどね」
「はい。すいません」
「いやいや。いいんだよ。別に僕がどうこう言う事じゃあない」
 もう一度呟くように、
「僕が言う事じゃないんだ」
「彼、変わってしまったんです。会社に入ってから」
「うんうん、そうだろうね。会社というところは、そういうところだから。ただね、なんというか、彼の気持ちを分かってあげて欲しいんだ」
 彼は自分の言ったことに気恥ずかしくなって禿げた頭皮をぼりぼり掻いた。
「彼の気持ちですか?」
「うん。会社にいるとね。いろんな事が出来なくなっちゃうんだ。よくないと分かっていても止めることが出来なかったり」
「わかる気がします。彼の苦しみもわかる気がするんです。でも、それだけじゃ、つらいんです」
「そうだね。本当の事言うと、おそらく僕も彼と似たタイプなんだ。それで、どうしても彼の気持ちを分かって欲しいと思う。でも君の気持ちもすごく分かる。特に今では。彼は、今は若いから傲慢なところもあるが、彼も何年もすればいろんな事が分かると思う。そう、四十年もすれば」
「私、四十年は待てません」
「いや、いいんだ。待てとは言っていないんだ。君は君の幸せを探してくれれば。でも、四十年後にでも、ふっと彼の事を思い出して考えたりしてみてくれないかな」
「わかりました。きっと考えてみます」
「うん。ありがとう。お元気で」
「おじいさんも」
 女はこっくりと頭を下げてから、風のように去っていった。今度は彼が彼女の背中を見送った。彼女の進む先にあるものを考えた。
 やがて思い出したように彼は歩き出し、駅へ向かった。改札を通るとすっかりもとの世界だった。嫌味なほど元通りの世界。違うのは彼の腰に巻かれたベルトだけだった。
(了)

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