「愛猫家」


 ユキエはとある子供のない夫婦の家で飼われている。夫婦は犬飼という名字だがユキエは犬ではない。夫は大の字がいくつも付くほどの猫好きだった。それはユキエにとって幸せなことだ、と夫は思っている。ある夜、妻が皮肉ったことで口論が始まった。
 夫はリビングでテレビを見ながらユキエを抱いていた。
「ユキエも可愛そうね」
「何だと?」
「そうやってあなたに束縛されて。おもちゃみたいに」
 夫が立ち上がる。ユキエは動物の勘で危険を察知してテレビの上に飛び乗った。
「ユキエは幸せに決まっている」
「そんなのはあなたの思いこみよ」
 妻はユキエを横目にした。真っ白いペルシア猫がテレビの上で丸まっている。目を閉じたそれは水墨画のような細い線を作っている。テレビには寺院が映っていた。ユキエが瓦でくつろいでいるようだった。
「猫はべたべたするのが好きじゃないのよ」
「猫と呼ぶな。ユキエと呼びなさい」
「はいはい、ユキエちゃあん」
 妻が指でひげを摘もうとしたので、ユキエはそれより素早く逃げていった。
「お前は何もわかっちゃいない。どうしてそう、ユキエをいじめるのだ」
「可愛がってあげようとしてるんじゃない」
「ひげに触るんじゃない」
 妻は無言で罵倒するように睨めつけた。夫は猫のことになると退こうとはしない。そこだけは昔から変わらない。目を合わせると頭一つ分、背の高い妻は見下ろす格好になる。
「ばっかみたい」
 台詞を捨てて妻は奥の部屋に入っていった。
「おい、何をそんなに怒っているんだ。お前だってユキエが嫌いなわけじゃないだろう」
「猫は嫌いじゃないわ。犬と猫なら猫の方が好き。サファイアと同じくらい好きよ」
 夫は次の間からユキエを抱えてきた。ユキエの顔は腕に押されて皺が寄っている。その不機嫌そうに見える寄った顔から一対の青い宝石が覗いている。綺麗な目。
「ユキエも嫌いじゃないわ」
「それなら、何なんだ?」
「なんでもないわよ」
 夫は躊躇もせずに、
「子供のことか?」
「違うわよ。それは本当に」
 妻ははっきりと否定した。二人の間には子供がなかった。二人とも望んだが出来ない原因があった。それを科学的に解決することもできたが妻が拒んだ。七年前の事だ。その時、生まれたばかりのユキエをもらってきた。それ以来、夫は娘のようにユキエをかわいがる。
妻はもう一度、
「なんでもないのよ」
自分に言い聞かせるように言った。夫の右手はユキエを撫でている。夫は妻を見、妻はユキエを見ている。
ユキエは小さな欠伸をした。口の中で唾液の伸びる音がして、それが閉まるとぐっと飲み込んで、口を真横に引いた。
「最近この近所で変質者がでるらしいの」
「変質者?」
 それは聞き返すというより自分自身で言葉の意味を確認しているようだった。
「そう、変質者」
「何かあったのか?」
 曖昧な返事。
「どうしたんだ、言ってみなさい」
「後を付けられてるような気がするの」
「お前の後を?」
「うん」
 妻は手で肘を抱えた。目を一度伏せて上げると、そこにユキエがいた。ユキエは腕から逃れて折り畳まれた妻の膝に移った。妻はユキエを撫でた。
「いつだ?」
「わからないわ」
「おおよそでいい」
「三日前だったかしら」
 夫は下唇を巻いて考え込んだ。時々小さく頷く。
「何か思い当たることがあるの?」
「ああ、ちょっとな」
「話して」
「ああ、お前は気にしなくていい」
「嫌よ。話して」
「この前あいつと口論になったんだ」
 夫があいつと呼ぶ人間は一人しかいない。近所に住む老人で彼と同じくらいに猫が好きで、町内では有名だった。
「そう、ユキエのキンクについて。ユキエの尾のことをアイツが馬鹿にして、激しい言い合いになった。そしてあいつが別れ際に言ったんだ」
 妻が目で続きを促す。
「悔しい思いをさせてやるって。それが三日前の夕だった」
 妻はきつと夫の顔を見て何か言おうとして、やめた。
夫には怒りがこみ上げてきていた。みるみる顔が赤らんでいく。と、夫はおもむろに電話を取った。手早く人差し指を動かす。押し間違えて一度、受話器を置いて押し直した。
「出ない」
 しばらくして、そう言って受話器を乱暴に戻した。
「きっと、うちの近くを偵察してるんだ。何企んでやがるんだ。ユキエに何かする気か?」
「考え過ぎよ」
「そんなことはない。アイツはそういうやつだ。猫のことになると気が違ってしまうんだ」
 夫はサンダルを履いて出て行った。ユキエはこするように激しく耳を掻いた。


 翌日、遅くまで辺りを見回っていた夫はなかなか起きなかった。妻はすべての準備をし終えると、夫の脇に正座した。
「起きて」
 耳には届いたらしく少し身をよじる。
「ねえ、起きて」
「んん?」
 夫は目を開けた。妻は外行きの格好をしている。
「どうした?」
「今から旅行に行ってくるわ」
身を起こす夫。
「何だ、いきなり」
「いきなりじゃないわよ。前に言ったじゃない」
 起きあがり、頭を掻きながらキッチンに行く。後に妻が付いて行く。冷蔵庫から水を取りだしてコップに注いで一息に飲んだ。
「そうだったけか」
「そうよ。なんなら、あなたも行く?」
 夫はコップを濯ぎながら、
「行くって、ユキエはどうするんだ? 連れて行く気か? 置いては行けないぞ。狙われてるかもしれないんだ」
 妻は少し声を張り上げて、
「ユキエユキエって、狙われてるのは、あたしかも知れないのよ」
 蛇口の栓が閉まって水の音が止む。夫は首を捻って、
「お前もなにか心当たりがあるのか?」
「ないわ」
「ユキエには狙われる正当な理由があるんだ」
 コップの水を切っている夫の背中に、これ以上話しても時間の無駄という顔をしてから、
「行ってくるわ」
 妻が玄関に向かい今度は夫が続いた。
「なるべく早く戻ってこいよ。お前の力も借りたいぐらいなんだから」
 玄関で靴を履ききった妻が顔を上げた。
「可愛いユキエちゃんのためにね」
「ああ」
ヒステリックにドアを閉めて妻が出て行った。夫は意に介さず慌ててユキエを呼んだ。ユキエの朝御飯を用意していると、どこからともなく鳴き声とユキエがやってきた。
「ユキエ。今日はおうちでゆっくり過ごそうな」
 キャットフードを食べているところへ夫が頬をすり寄せてきたので、ユキエが鳴いた。


 二人は恋人同士のような時を過ごした。何をするでもなく体を寄せ合い、男の手が女の体を愛撫する。女はそれに何の反応も見せなかったが、拒まないことが嫌がってはいない証拠だった。やがて女が男を払いのけ、すっくと立った。男は機嫌を損ねたかしらと慌てて後を追う。女は冷蔵庫の前で振り返り、鳴いた。
「もう、こんな時間か。ユキエ、お昼は何を食べようか?」
 夫は冷蔵庫を開ける。妻は腐るものはみんな片づけていっていた。夫の食べるものもない。
「よし、今から上手いものを買ってこよう。ユキエは何が食べたい? サンマでも食うか?」
 ユキエが急かすように鳴く。
「わかったわかった。大急ぎで買ってくるからな。待ってておくれ」
 夫は家のすべての戸締まりを確認してから、
「じゃあ、行ってくるから気をつけてな。誰が来ても出るんじゃないぞ」
 足早に近くのスーパーで買い物を済ませ、早足で帰る夫を呼び止める声があった。
「ああ、犬飼さん。猫好きの犬飼さん」
 嫌味を言ったのは夫にアイツと呼ばれた猫好き老人だった。
「なんだ、あんたか」
「キンクのユキエちゃんはお元気ですか?」
「あんた、ユキエを狙ってるのか?」
「狙ってる? どういうことだい?」
「あんたが最近うちのをつけ回してるだろう?」
「馬鹿言っちゃいけないよ。何でわたしがつけ回さなくちゃ行けないんだい、あんな更年期前の年増の尻を」
「何だって、失礼じゃないか」
「そっちだって失礼だろう。根拠もなしに人を変質者呼ばわりして」
 夫は口をつぐんだ。つけ回しているのは本当にこの老人ではないのかもしれない。けれど、認めるのが嫌で話を切り上げて帰ってきた。
 家に帰って夫はサンマを焼き始めた。焼けるまでにサバの缶詰を一つ開けてユキエに食べさせた。ユキエはそれをぺろりと食べて何処かへ行ってしまった。焼けたサンマを十分に冷ましてからユキエを呼んだが返事がないので、探しに行くとテレビの上で眠っていた。
「しょうがないな」
 優しくつぶやいてから、夫は自分でをサンマを食べた。


 午後も二人は猫のようにだらだらと過ごした。夫は猫の専門雑誌を広げていた。ユキエは夫がこの「猫専科」を読んでいると決まって体をすり寄せてくる。
「よしよし」
 夫が頭を撫でてやると、物足りないというようにひっくり返り咽を見せる。夫は片手でユキエをあやしながら、片手で頁をめくった。急に夫の手が止まる。
手を止めるなという風に鳴くがいっこうに動かない。ユキエが起きあがってみると夫は雑誌の写真に見入っている。ユキエが夫の腕の中に潜り込んだ。ユキエの頭が写真に被さったので持ち上げて見えるようにした。
写真は一匹のペルシア猫だった。地方で行われたキャットショーで優勝した猫だった。夫にはそのペルシアが優勝した理由がよく分かった。ユキエを飼っているだけに尚更のことよく分かった。
ユキエは悲しげに一度だけ鳴いて部屋から出て行った。
 夫はキャットクラブでの評価基準をよく読んだ。読んで写真のペルシアに当てはめると見事に高評価に一致する。顔の形、目、耳、鼻、ひげ。腰と後ろ脚。爪の形や尾の形。鳴き声、毛並み、眠る形の計十二項目で、そのうち十項目が満点だった。非の打ち所のない美しいペルシアだったが、満点でない爪に関しては一つが変に偏ってつぶれてしまっていて点数が低かった。これならユキエの方が勝っていると夫は思った。
「ユキエ。ちょっとおいで?」
声を上げて探しまわるがなかなか出てこない。諦めて、「猫専科」を読み続け、晩御飯になっても出てこないのでおかしいと思った。もう一度探すがどこにもいない。ユキエ用の布団にもトイレにもいない。裏口のユキエ用の通路が出たのだろうか? しかしユキエは室内が好きでその通路はほとんど使われたことがないはずだった。夫はようやく異変に気が付いた。近所を探し回ったが野良ばかりで、雪のように白いペルシアは一匹もいなかった。
夫はソファーに座りじっとユキエが戻ってくるのを待った。もしかしたら、雑誌のペルシアに嫉妬したのかも知れない。そう思うと罪悪感に苛まれた。というのも確かに雑誌のペルシアをユキエと比べて、チャンピオンのペルシアの方が美しいと思っていたのだから。
「ああ、わたしは馬鹿だ」
 両手に顔を埋めた。今頃ユキエは孤独を抱えて一人、夜の街をさまよい歩いているのだろうか。お腹は空かせていないだろうか。野良どもにいじめられてはいないだろうか。それに、変質者に――。
 夫がもう一度探しに行こうと立ち上がった時、電話が鳴った。


 夫は受話器をつかみ取った。
「もしもし」
 返事がない。けれど、電話の向こうに誰かが立っている気配がある。
「もしもし」
 夫はゆっくりと言った。
「犬飼さんですよね」
「そうだが」
 変声機を通した声にどきりとした。
「あたしはね。ずっと待っていたのですよ」
「どういうことだ」
「あなたの大事な子猫ちゃん」
 夫は何も答えずに唾を飲み込んだ。
「あたしはあなたから子猫ちゃんを奪ってやりたいと思っていたのです」
 興奮した息づかいが変声機を通りひいひいと耳障りな音を立てる。
「そして子猫ちゃんが一人きりになるのをずっと待っていたのですよ」
「ユキエをどうした?」
 答えるように突然電話は切られた。
 夫は居ても立ってもいられない気持ちだった。電話の周りをうろうろとして、次の電話を待った。頭を激しく掻いたり、目を擦ったりして、電話を待った。
 電話が鳴った。
「もしもし?」
「もしもし」
 妻からだった。
「何だ。お前か。切るぞ」
「ちょっと待ってよ」
「何だ。何か用か?」
「うん。もう二三日こっちにいようかなと思って。どうしたのよ。そんなに慌てて」
「ユキエが誘拐されたんだ」
「本当に?」
 妻はそれほど驚かず、また夫の悪い癖が出たという声だった。
「本当だ、今、犯人から電話があった」
「何て言ってきたの?」
「一人になるのを待っていたって」
「一人? それって猫だってちゃんと言ったの?」
「子猫ちゃんが一人になるのを待っていたと言ってやがった。きっと誘拐しようとしてるんだ」
 妻は押し黙った。
「とにかくそういう訳だから、切るぞ」
「ねえ、あなた。それって、もしかして――」
「何だ?」
「うん、いいの。気をつける」
「じゃあ、切るぞ」
 それきり電話は鳴らなかった。夫の頭には猫好き老人の顔が浮かんだ。他に犯人像が浮かばなかった。同時にアイツではないような気もした。アイツなら誘拐なんて回りくどいやり方はしないのではないか。アイツの家に行ってみればはっきりするのではないか、そう思ったが電話がかかってくるかも知れないと思うとなかなか行動に移せなかった。


 ほとんど一睡もできないまま朝を迎えた。電話は鳴らなかった。目を覚ましうつらうつらしていたが眠りそうになって突然、吹っ切れたように起きあがった。その足で猫好きの老人の家まで向かった。
老人に家族はいない。猫が五匹いるだけだ。起こす形になったとしても迷惑がかかるのは老人だけだ。それも疑いをかけられるような生き方をしている方が悪いのだ。夫は不安と寝不足で神経が尖っていた。
 老人の家は当然のこと鍵がかかっていた。
「おい、いるんだろう」
 呼び鈴のない扉を叩いた。周りが静かなせいで思った以上に響いた。それはむしろ余計に気持ちを興奮させた。
「おい。くそじじい。ユキエを返せ」
 反応はまったくなかった。夫は玄関の脇の電気メーターを確かめた。くるくると回っている。
「いるんだろう」
 もう一度大声で怒鳴りつけて、扉を蹴った。と、中から微かに猫の鳴き声が聞こえた。それで我に返ったように悪いことをしている気分になってしまった。
「また、来るからな」
 通りすがりの青年がなにごとか覗いていたのが、急に出てきた夫と目があって気まずそうに逃げていった。
 夫は自分の状態がいいものでないのを感じた。少し眠ろうと思った。
 家に帰って横になった。すぐに電話には出られるようにとリビングのソファーで横になった。随分寝たような気がしたが十五分しか眠っていなかった。夫はそれを電話を切った後に時計を見て知った。
 電話の内容は子猫ちゃんを預かったというものだった。
「もしもし?」
「もしもし。犬飼さんね、あなたのところの子猫ちゃん。やっと捕まえましたよ」
「何?」
「それでね。もう帰らないかも知れませんよ。あなたのもとには」
「何だって。お前は誰なんだ? 目的は何なんだ?」
「目的? それが分かっていればこんな事にはならなかったのじゃないかな?」
「何? 何のことだ?」
「あなたが子猫ちゃんをもっと大事にしていれば、こんな事にはならなかったのじゃないかってことですよ」
「そんなことはない。私はきちんと愛してきた」
 この時、夫の頭に「猫専科」のペルシアが浮かんだ。
 そのとき電話の相手が言った。
「キンク」
「キンク?」
「そう。キンクについて覚えてますか?」
「キンクとは幸せを呼ぶという尾の形。やっぱりお前は――」
 唐突に電話は切れた。
 夫は犯人を確信した。数日前に夫と猫好き老人はキンクについて口論になった。夫がユキエのキンクを自慢すると、老人はそんなものはキャットショーでは失格だとやり返した。実際、失格の条件になることは夫も知っていた。しかしキンクは招くように曲がった形がお金や幸福を呼ぶとも言われる。もちろん夫はそう思っている。そのまま二人はお互いの猫を罵倒しあった。老人が最後に言った「悔しい思いをさせてやる」とはユキエを人質ならぬ猫質に夫の考えを変えさせることだったのだ。
 夫は再び老人の家に駆けた。
 電話をかけてきたのだから老人は起きているはずだ。夫は怒りをぐっと堪えて静かにノックした。ドアは開いた。
「誰だい? ああ、犬飼さんどうしたんだい? 朝っぱらから」
「いいかげんしろよ」
 老人はどうして怒鳴られているのか分からないという風にとぼけた顔をする。それは老人の柄でもあった。
「何なんだい。昨日といい、今日といい。キンクのことを根に持っているのか? 失格条件なのは事実じゃないか。それはあんたも知っているだろう」
「ああ、知っているさ」
「もうすぐわたしの猫がキャットショーに出るんだ。きっと『猫専科』にも載るだろうな。けれど犬飼さんのユキエちゃんはショーにも出られない体だ。悔しいかい?」
夫は今にも掴みかかりそうな勢いだ。
「ユキエを殺したのか?」
「殺す?」
 老人のきょとんとした表情があまりに自然だったので、夫は自分の確信に疑問を抱き始めた。老人は考え込み、状況が飲み込めるにつれて表情は嫌味なそれに変わっていった。
「犬飼さん。あんた、もしかしてユキエちゃんに逃げられたいのかい?」
「なんだと?」
「あんた、ユキエちゃんに逃げられたんだろう? それを誰かが誘拐したと思ってる。そう、わたしが。違うかい?」
「ち、違う」
「じゃあ、何なんだい? 人を変質者や殺人犯呼ばわりして、説明してもらおうか?」
 夫はぐうの音も出なかった。
「ほら、言えないじゃないか。そうなんだろう? そうか、そうか、ユキエちゃんに逃げられちまったか」
 夫は何も言い返せず顔がみるみる紅潮していった。それが限界まで来るとそのまま黙って引き返した。老人の狡猾な笑い声に送られながら。


 夫はその足で近くの交番へ向かった。若い警官が一人、人のいないのをいいことに文庫の推理小説を読んでいた。赤い顔と寝不足で充血した目で夫が入ってくると、警官はただごとではないと察した。
「どうされました?」
「ユキエは誘拐されたんだ」
 それは呟くような声だったので警官には聞こえなかった。警官は顔を近づけて、
「何ですか?」
「誘拐されたんだ」
 警官は目を見開いて、
「とにかく、どうぞ座って、落ち着いて」
 夫の体を支えて座らせようとした。夫もこれに従った。警官が向かいの机に座り直して、さあ事件の始まりとばかりに手帳を広げた。
「いったい、何があったんです?」
「うちのユキエは誘拐されたんだ」
「被害者はユキエさん」
声に出しながらメモして、
「失礼ですが名字は?」
「犬飼だ」
「犬飼さん。ユキエさんというのはお嬢さんですか?」
「そうだ」
「お嬢さんは、おいくつで?」
「七歳と三ヶ月」
「七歳と。三ヶ月? と言いますと学年は――」
 警官が暗算しようとすると、
「学校なんて行く訳ないだろう」
 夫の怒声に驚いて登校不良なのかもしれないという想像はそのままにした。
「では、お嬢さんの姿が見えなくなったのは、いつ頃ですか?」
「昨日。昨日の午後まではいたんだ。わたしが『猫専科』を読んでいる時に寄りついてきて」
 そこで溜め息を付いて、
「わたしが『猫専科』のペルシアに夢中になっていたので、出て行ってしまったんだ」
「はあ。では家出という可能性も?」
「違う。仮に出たのがそうだとしても、その後誘拐されたんだ。脅迫電話があった」
 脅迫電話と聞いて退いていた体を再び乗り出した。
「ほう。それはどんな?」
「あなたの子猫ちゃんは帰らないかも知れないって」
「子猫ちゃん?」
「うちのは子猫じゃないんですが――」
「ちょっと待ってください」
 警官は夫の言葉を遮って少し考えた。メモを確認しながら何度か頷いた。
「犬飼さん。ユキエさんというのは、もしかして猫ですか?」
「そうだ、美しく白いペルシア猫だ」
「猫がいなくなっただけですか?」
「猫じゃないユキエだ」
「すいませんけどね。もう少し待ってみたらいかがですか? 僕はてっきり娘さんが誘拐されたのかと思いました」
「ユキエは私にとって娘だ」
「ええ、ええ、お気持ちは分かります。脅迫電話もあることだし、そういう悪戯も多いですから一応見回りは強化します。だからとりあえず、うちに帰って待ってみてくださいよ。きっと帰ってきますから。猫なんて」
 警官はさっきとは正反対の態度で夫を促せて立たせると、そのまま外に追い払った。


 夫はげんなりとして玄関を開けた。鍵が開いていたので不意に感じたが、すぐに閉め忘れて行ったことを思い出した。ドアを閉めると、耳を澄ませてユキエが帰っているのではないかと気を張ったが何も聞こえない。台所の裏口にあるユキエ用の出入り口にも変化一つも見当たらなかった。
 どうしたらいいのだろう。夫の頭は何かを考えようとすればするほど眠くなっていった。
 夕方を過ぎても電話はなかった。
夫はふと妻に相談しようと思った。何処かに連絡先が書いてないかと、妻の机をあさっていると旅行雑誌の間から紙切れが落ちた。そこには妻の丁寧な字でホテルの名前と電話番号が書かれていた。
「もしもし?」
「あなた? どうしたの?」
「ユキエが帰ってこないんだ」
「そう」
「どうしたらいい?」
「どうって言われても」
「もう、お前しか頼る当てがないんだ。なあ、どうしたらいい?」
「あたししか?」
「ああ」
 妻は考える間を空けてから、
「ねえ? キンクについてあたしと話したの覚えている?」
「お前もキンクか。覚えているよ」
「じゃあ、言ってみて」
「お前の髪型がキンクのようだってことだろ?」
「それだけ?」
「だから、お前を大切にするって言ったことか?」
「なんだ、覚えてるじゃない」
「それがユキエとどう関係あるんだ?」
「うんん、関係ないけど。ユキエなら大丈夫よ」
 妻は軽い調子で言った。
「どうして、そんなことが言い切れるんだ」
「ううん、だから本当に誘拐したなら何か要求してくるでしょ? お金とか」
「ああ、それはまだされていない」
 妻はたたみかけるように、
「でしょ? きっと誘拐したなんて嘘なのよ。嘘をついて、あなたをからかっているのよ」
「何のためにそんな事する必要があるんだ?」
「そうね。あなたが本当に愛してるか確かめたい。とか?」
「わたしのユキエへの愛は本物だ」
「そうね。だからユキエが居なくなったのと脅迫電話とは関係ないのよ」
「そんな馬鹿な。なら、ユキエはどこに行ったんだ?」
「それは分からないけど。猫ってわがままじゃない。女みたいに」
「うむ」
「とにかく大丈夫よ。ユキエならそのうち帰ってくるわよ」
「お前の理屈はよくわからん」
「いいのよ分からなくて」
「しかし、今は待つしかないな。電話が来るにしてもユキエが帰って来るにしても」
「そうよ、待ってなさい。あたしも明日帰るから」
「そうか」


 翌朝、別の部屋からする物音で夫は目が覚めた。またソファーで寝入っていた。半身起こして、
「ユキエか?」
「私よ」
 妻の声だった。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
 夫の声には力がなかった。
「ユキエまだ帰らないの?」
「ああ」
 夫はまた横になった。妻はキッチンの方へ行った。
「あなた?」
「何だ?」
「ユキエいるじゃない」
「何?」
 夫は跳ね起きてキッチンへ行った。妻の足下にはユキエがきちんとお座りしている。夫が抱きしめようとしたので、ユキエはひょいとかわして一鳴きした。
「お腹が空いているのかしら?」
「そうだな」
 夫はキャットフードと水を用意してやった。それを食べる間ユキエは頭を撫でられることに逆らわなかった。夫の目には涙が滲んでいた。
「いったい何処に行っていたんだ? ひどい目に遭ってないか?」
「ずっと居たんじゃないの?」
「そんなことはない。あれだけ探したんだ」
「女と猫はきまぐれだから突然帰ってくるのね」
「けれど脅迫電話だってあったんだぞ」
「犯人はわかったの?」
「わからん。ユキエさえ帰ってくればどうでもいいが」
 かがんでいる夫の見えないところで妻はほくそ笑んだ。
「あなたのいないところで何してたか知りたくないの?」
「もうどうでもいい」
「そうね。ともかく無事に済んでよかったわね」
「いや、まだだ。まだ済んでいない」
 夫は険しい表情を作って、
「ユキエを連れてアイツのところへ行ってくる。わたしがユキエに逃げられたとか吐かしやがって、今から行ってそうでないことを見せてくる」
「あ、そう」
 妻は呆れた声で生返事した。
(了)

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