「オレンジジュース」

作者はこの話の最後は主人公が一息ついている場面で終わろうかと思っていたが、それではいかにも煙たい話になってしまう気がした。そこを書くのと書かないのでは意味が随分違うと思ったが、そこまで考えたらもうどちらでも良いとも思った。けれどどちらか答えを出さなければいけない。
「お客さん。さっきからオレンジジュースばかりで七杯も飲んでいなさる。体に悪いことはないが胃にたまるでしょう」
「そうさ、だからこうしてさっきから便所に通いつめてるじゃあねえか」
男はこの日アルコールを口にしていない。店の主人がいったようにオレンジジュースばかりである。
「なにも、そう怒らなくてもいいでしょう。ここには酒はないが相手をする爺ならいる。私でよければ聞かせていただきますよ」
「酒なんてあってたまるか。ないからこんな寂れた喫茶にいるんだ。酒なんてあったら出るもんもでなくなる」
「お酒はお嫌いですか。これは奇遇ですな。実は私もなんです。あんな車の飲み物、人間の飲むもんじゃありません」
「酒をガソリン扱いか。なかなかわかる爺だな。俺は酒のついでに煙草の煙も大嫌いだぜ」
「私もです」
「そうかい、この店は禁煙になってるのか。それでこうも寂れているのか。どうせコーヒーもうまくないんだろう」
 男が腰を上げて店内を見回すが客がいないどころか、音楽すらかかっていない。男は黙って沈黙を味わった。主人はたっぷり昼寝をした子をそっと起こすように言った。
「静かでしょう」
「ああ、寺みたいだな」
 言い方こそ汚らしかったが男は気に入った様子だった。
「世の中には酒も煙草も要りません。もちろんクスリやオンナは以ての外です」
「だけど、音楽ぐらいあってもいいんじゃねえか?例えば――」
 男は静かなクラシック音楽の作曲家を三人挙げた。
「いいですね。とくに二番目のBはよく聞きます。音楽は必要です。しかし掛ける必要はないのです。あなたが入ってきたときから音楽は流れているのです」
「生命の調べか。ありがちだな」
「申し訳ありません」
「まあまあ、悪気はない。ありがちでも言うのとやるのはずいぶん違う。わたしはここが気に入ったよ」
「そういっていただけると幸いです」
主人が頭を上げると男は目を閉じていた。主人は口を横に引いて、静かにコップを拭い始めた。ガラスと布が擦れる。その音を聞き取ろうと男が耳を澄ましている。主人がコップを持ち替えるときに木を叩く湿った音した。それがまた心地よい。眠りに落ちる寸前のところを彷徨っているようだ。
「ああ、このままじゃ、寝入っちまう。何かくれ」
 男は飲み物ばかりで他の喫茶と変わり映えしないメニューを一通り確認してから注文した。
「オレンジジュースを」
男は初めて口にするように八杯目のオレンジジュースを飲んだ。一口含み、染みこむのを待ってから一気に飲み干す。喉が鳴る。
「うまいな。こんなにうまかったんだな」
 男は腹の底に溜まった息をすべて吐いた。吐ききったところで主人が言った。
「それでお客さん。悩み事は?」
「ああ、もういいんだ。いいのが出たよ」
(了)

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