小説『夢日記』(2535字)

 死にたい死にたい、死にたいと体の奥から声がする。
 死にたくなんかない。こんなこと考えてる人間は結局死にはしないのだと、冷静に自己分析している自分がいる。死にたいと言いながら、ないものねだりをしている子どもなのだ。失ったものが、もう手に入らないとわかってはいるのに、どこかでは、もしかしたらと希望的観測を抱き続けてる。
 いつも汗にまみれて目が覚める。脂汗。Tシャツが背中にべとっと貼りついて移植された人工皮膚みたい。
 夢だってことはわかってはいる。
 きもちのわるい肉塊が私を追いかけてくる。小学校のときの理科室らしい。私は机の陰にしゃがんで隠れている。肉塊が入ってくる。ずんぐり太った脂肪の塊で、たるんだ皮膚が皺になって折り重なっていて、その間から目玉が覗いている。その肉塊は目玉が百個あるらしてく目が合うと私は死ぬ、と知っている。どこかのアニメで見た妖怪かもしれない。
 肉塊が理科室に入ってくる。私はあいつから逃げるように這う。なるべく身を縮こめて、見つからないで、と願っている。
 じっと丸まっていると地面が不安定になって落下している。夢だから理屈はない。
 私は小学校の三階の窓から飛びおりて、校庭に着地する。すぐにあいつが追いかけてくると思って、走り出す。
 校庭から隣の公園には柵があるだけで繋がっている。これは私が実際に通った小学校と同じ造り。公園の方へ逃げようとするが、足がすべって進めない。慌てて走ろうとすればするほど、滑ってまったく走れない。
 あいつが来る。
 背中に気配を感じる。何かが落ちてきた。校舎の三階からだ。
 びちゃっと、巨大なトマトを叩きつけたような音。
 そこで目が覚める。
 いつも同じ夢。
 目をつぶると肉塊が浮かんでぞっとする。時計を見ると、もう二限は始まっている。
 こんな時間に目が覚めるのも当然だ、眠れなくてようやく落ちたのは朝だった。睡眠時間にすれば十分とはいえない。
 今から準備して行ってもまともに受けられるのは四限か。今日はやめよう。今日も、か。
 体は眠たい。というか疲れている。毎晩毎晩、寝ても疲れなんかとれやしない。先週、梅雨が明けたとか、どっかで見た。テレビだったかスマホで見たどっかか。もう何日も部屋から出てないのでわからない。
 死にたい……。
 現実はうまく行かないことばかり。眠っても苦しい。逃げ道がない。
 何の役にも立たない私がぐだぐだと生きて、友達に迷惑ばかりかけている。私なんかに時間を使ってもらって申し訳なくなる。
 いっちょ前にお腹だけは空く。餓死でもすればいいのに、コンビニに行って好きなカップラーメンを食べて申し訳ない。親の金。
 死にたい、死にたい……死にたくない。
 あの肉塊をどうしたらいいのか。夢占いをググってたら夢日記をつけると危ないというまとめ記事があった。
 ある人は枕許にノートを置いて、目が覚めると見た夢をメモしていた。一冊おわって見返してみると、書いた覚えのない言葉がある。「ヤメロ」
「ヤメロ」
「ヤメナイト死ぬ」
 そのノートは一人暮しの部屋で首を吊った男子学生の部屋から見つかったもので、友人達は前日まで呑んでいて悩んでいる様子はなかったと証言していて、週末には遊びに行く約束までしていて、どうして自殺をしたのか、動機がまったくわからないという。
 夢日記をつけると頭がおかしくなっていくのかもしれません、と記事はしめていた。
 私は夢日記をつけることにした。
 首を吊ったり線路に飛び込んだり、確実な方法は怖くてできない。戯れにリスカするぐらいが私の限界だった。日記をつけるだけでゆるやかに死んでいけるなら、ありがたい。
 講義に使っていたノートしかなかった。去年はマジメに学校へ行ってたから、残りは数ページしかなかったので、むしろちょうどいい。まとめ記事の男子学生は、一冊おわったところで死んだのだから。
 もうすぐ最後のページが埋まる。
 ここまで変わったことはなかった。死にたいと思うのも、肉塊に追いかけられて、汗だくになって目を覚ますのも、それで学校へ行かないのも、いつも通りだった。ただ毎日同じ夢だから、細部が描きこまれていった。そして気付いたことがあった。
 あの肉塊は私なのだ。
 やるべきことから逃げて、周りには迷惑をかけて嫌われる。目を合わせると死ぬというのは、つまりは……

 彼女は目を覚ました。まだ暗い。夜中の三時だった。
 部屋の外から物音がする。
 ぴちゃ、ぴちゃ、とトマトが潰れるような音。バスルームからだ。誰がいるかは直観的にわかった。
 彼女はベッドから下りる。
 ぴちゃ、ぴちゃ。
 彼女の夢から脱け出したそれは、いま、バスルームで音を立てている。
 ぴちゃ、ぴちゃ。
 死にたい、死にたい。
 お湯の入っていないユニットバスの浴槽で、肉塊が丸まっていた。百ある目玉から涙がこぼれていて、それが床の水溜りに落ちるたびに、ぴちゃ、ぴちゃと音を立てていたのだった。
 もはや恐ろしいものではなかった。怯えて震えている子どもだった。狭い浴槽に縮こまって、彼女から逃げようとしているようにさえ見える。立場がまるきり逆だった。
 彼女は、肉塊の背中にそっと手をのせた。前も後ろもわからないような体に見えたが、そこが背中であることはわかった。ひんやりと冷たかった。
「どうして泣いてるの?」
「私が悪いの。だから、あの人は去って行った。もう二度と戻ってこない。私がダメだから。周りに迷惑ばかりかけて、優しくしてくれる人もきっと去っていく。今はよくても、きっと去っていく。だから誰とも会いたくない。もう死にたい、死にたい死にたい。そのくせ、いっちょ前にお腹だけはすいて……」
「お腹が空いてるの?」
 肉塊の頭のような丸まりが、こくりと頷いた。
「じゃあ食べていいよ。私の体。私もいらないから、こんな体」
「いいの?」
 肉塊は皺の中から口を開いて、人差し指を囓った。

 痛い、と思って私は目を覚ました。噛まれたような感触が残っていた、指はついていたのでほっとした。目には溢れた涙が溜まっていて瞬きしたら流れて落ちた。
 外は雨が降っていた。バルコニーに置いてあるバケツに滴が落ちて、ぽたぽたぽたと鳴っている。
 私は死んだ。死にたいという声はもう聞こえなかった。
 時計を見たら七時前だった。今から準備しても一限には間に合うはずだ。

(了)

緋片イルカ 2019/08/03

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