小説「最後のわがまま」

 玄関を開けると、老齢の紳士が立っていた。
 春のやわらかい陽射しに目を細めながら、わたしはその男を見た。
 チャコールグレーの上品な背広で、手には丸く膨らんだ革鞄。眠らせるのに使う薬や注射器などが入っているのだろう。元は麻酔科医と聞いている。この人が例の先生なのだとすぐにわかった。
「どうぞ、準備はできております」
 先生を招き入れると、玄関に鍵をかけた。
 兄に安楽死したいと告げられたのは三ヶ月前のことだった。放射線治療でつかれたくたびれたと何度も口にするのを励ましつづけてきた。兄はまだ六十二歳の若さだ。
「もう終わりにしちゃ、だめかな?」
 お腹いっぱいでもう食べられない、ぐらいの軽さで兄は言った。
 そのとき、わたしのために頑張っていたのだと初めて気がついた。七つ年上の兄は子どもの頃から父親代わりだった。怒られたこともないし、いつも心配していて、わがままも許してくれた。その娘のために、自分の死すら選べずにいたのだ。
「先生、あれを眺めながらいきたいんです」
 手を上げるのも億劫なのか、兄は視線で指した。窓からは近くの公園が見下ろせて、薄桃色の八重桜が盛りだった。
 注射を打って一〇分もすれば眠るように落ちて、そのまま意識が戻らないことや、気が変われば、それが針を刺す直前でも中止できることを、先生は言葉少なに説明した。
 兄がわたしを見た。
「兄さん、写真撮りたい。兄さんと一緒に……」
 声に出してから、その大きさに自分でも驚いた。兄の視線を受けて、先生が頷いた。
 兄は介助を拒んでゆっくり時間をかけて階段を下りた。わたしは押し入れから埃まみれのニコンを引っ張りだした。いつのものか知れないフィルムが入ったままだった。写るかどうかはどうでもよかった。
 庭で横並びに立って、先生がシャッターを切ってくれた。笑えなかった。
 わたしの最後のわがままを叶えて、兄はしずかに眠った。
(了)

(緋片イルカ2019/02/15)

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