「アスパラ」

 あの子の前を上手に通る癖を覚えたのはもうずいぶん前のことになる。愛子はその長さを日数に計算して驚いた。長いと思っていたのに一週間しか経っていないかったのだ。あの有名な二人が出逢ってから悲劇を迎えるまでもたしか同じ一週間だった。そして愛子の恋も悲しみに終わるのはわかっていた。
 もうすぐ夏休みだ。すでにテストも終わった。消化するだけの授業。テストも返し終わって、授業のネタ切れかというような退屈な授業。授業はいつも退屈だけれど。余計なものこそが大切なのだと思った。愛子は退屈なときの癖で机に覆い被さった。腕を組んで机の上に乗せ、それを枕にしてあごを乗せる。あごが疲れると右を下にして横向きに乗せる。左の耳にはピアスが空いていたのでいつもそうした。男子が寝るときと似ているが愛子は寝なかった。
もう夏は来ている。窓から入ってくる風が、わずかでも心地よい。風に彼の髪が揺れ、愛子はその風から嗅ぎ取ろうとする。彼のにおいを。照りつける日差しに滲んだ汗をたっぷり吸ったシャツのにおいがした。わざと彼の近くを通ったときに知った彼のにおい。

愛子はテストの前に三階の図書室で勉強していた。彼の部活が終わる位の時間までノートを拡げて待った。彼も勉強しに来ないだろうかなどと空想に耽ってばかりで大和政権が律令制に移っていく過程などちっとも頭に入らなかった。聖徳太子の言葉より彼が昨日夕食に何を食べたかの方が知りたかった。
愛子は部活の終わる時間が近づくにつれてますます動揺した。時間に合わせて帰ったらまるで待っていたみたいではないか。愛子は勉強していたのだと言い聞かせた。意識を教科書に向け切りのいいところまで読んだら帰ろうと思った。しかし時計が気になってなかなか進まなかった。同じところを何度も読み返したり行を飛ばしたりしながら何とか読み終えると部活の終了時間から十分過ぎていた。愛子は図書室を出て二つあるうちの遠い方の階段を降りた。玄関に遠くてグランドに近い階段だった。彼と会った時の言い訳を考えた。図書室で勉強していたでは不自然な気がしたのだ。彼のことを待っていたのだと言ってしまう自分が浮かんで恥ずかしくなった。会えなかったときの言い訳をするようにどうせ会いはしないだろうと思いなおして一階に降り立った。彼だと思った。が別の人だった。けれど彼の部下の人だった。ちょうどグランドから部室へ向かうところで、これから来る集団かもう行ってしまった集団に彼がいるのだと思うと、急に彼の存在を強く感じ始めた。愛子はまるで関係ないというように横目で見ながら玄関へ向かった。
「○○さん」
 彼の呼ぶ声がした。愛子の肩は跳ねてしまった。それは彼に呼ばれたからではなく、突然呼ばれたためだとゆっくり振り向いた。それからわざと捜すように違う方向を向いてから彼の方を見た。彼が腕だけで小さく手を挙げていたので、すぐに気付かなかったのが不自然な気がして言い訳を考えた。
「いま帰るところ?」
「うん」
「そっか。」
「あ」
 愛子の声は彼の「じゃ」とぶつかってしまった。二人ともそこで止まった。
「なあに?」
彼は愛子に譲った。しかし「じゃ」の続きがわかってしまったので言えなくなってしまった。彼は軽い挨拶をするつもりで呼んだだけ。
「うんん。いいよ先、何?」
「別に何もないからいいよ」
「わたしも」
 ぎこちなくなってしまった二人の脇を他の部員が過ぎていく。その一人と愛子は目が合った。二人の恋仲を疑っているような目に見えた。彼は愛子の目線を追って部員の方を確かめた。彼も感じたようだった。離れるわけには行かないというように半身を集団の最後尾に向けてから言った。
「じゃあね」
 すっと身を返した彼からかすかに汗のにおいがした。愛子は返事をしたが行ってしまった彼には届かなかった。

 風は何度かそよいだが彼のにおいはもうしなかった。
愛子の席は中央の最後尾だった。教師の目から遠いその席をみんな羨ましがった。愛子も満足していた。
席替えをした時、愛子は彼の近くになること願った。横になったら授業中にわからない振りして彼に話しかけよう。前になったら落ち着かないだろうけど配布物を彼に手渡しできる。愛子は席順の書かれたくじを引くとき、誰よりも緊張していた。彼の席は窓際の前から三番目だった。自分の席が決まったとき、がっかりした。そんなに遠くではないが話し声が聞こえるような近さでもなかった。愛子の望んだ近さではなかった。
席替えをして初めての授業中、愛子はいつもの癖で机に俯せた。すると横向いた視界の彼が入った。愛子は一度身を起こしてから腕も崩し、もう一度きちんと俯せた。やはり彼が入る。愛子はその席が気に入った。
彼の気持ちに気付いてしまったのは一週間前のテスト最終日だった。歴史のテスト。とうとう聖徳太子の言葉は覚えられなかった。図書室が浮かんだ。あのとき読んだ箇所に答えが書いてあったところまで思い出した。けれどそれ以上は無理だった。愛子は一通り書き込むと俯せた。彼もテストに取り組んでいる姿勢ではなかった。肘をついて甲の部分にもたげている。彼が動いた。左手でついていた肘を右に代え、少ししてまた左に戻した。愛子はそんなことで気付いてしまったのが不思議だった。けれど間違いではないと思った。
 それから愛子は一つの癖を覚えた。彼の視線の先にいるあの子の前をなるべく自然に通ることだ。通り過ぎていることで自分に気付いてほしくて。

 チャイムが鳴った。退屈な授業も終わってしまった。
愛子はいつもの仲間で弁当を食べる。今日も弁当にはアスパラが入っている。重なり合った二本の茎は、寄り添っているようだ。愛子は一本食べた。すると寄り添っていた一本が相手を失って、その下に隠れていた別の一本と寄り添っているように見えてきた。愛子はその二本をそのままにして蓋を閉じた。
愛子の周りで仲間達が話している。弁当は食べ終えても休みはまだある。愛子は友人達の話に耳を傾けながら机に落書きしていた。図形やらハートやらを書いては塗りつぶしたり別の模様を付け足したりしながら。シャ-ペンの芯が何度か折れた。かちかちかちと新しい芯を出す。折れた芯は何処へ飛んでいくのだろうか。
「あの二人、付き合い始めたんだって」
「へえ、本当?」
「本当だって○○君が言ってたもん」
○○君は彼と同じ部活の人だった。
「そうかな。わたしはあやしかったと思うよ」
「愛子はどう思う?」
「え? わたし?」
愛子は言った。
「お似合いだと思うよ」
 昼過ぎの教室から彼の楽しそうな笑い声があの子の笑い声と一つになって愛子の耳に聞こえてきた。話が彼の話題から十分逸れるのを待ってから愛子は席を立った。落書きしていた利き腕の腹が汚れてしまっていた。
「洗ってくるね」
 愛子は言って。灰色に染まった手を仲間に見せた。
廊下に出ると空気が暑かった。熱すぎる風呂にじっと浸かっているような気分になった。我慢していればいつかはぬるくなってくれるのだろうが、それがいつかわからなくて気が滅入った。洗面所がとても遠く感じた。
手を洗いながら頭の中で友人の言葉を繰り返した。
「あの二人、付き合い始めたんだって」
 溶けたアイスのような汗を背中に感じた。愛子は目に力を込めてつむった。それから口を横に開いて、認めるしかないと思った。手は洗いに来る必要がなかったかのように容易く綺麗になった。
(了)

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