「ダウン」

 倒れてから、ああ、いいのを一発もらったんだとわかった。また負けたか。
真面目に練習はしてきた。コンディションも悪くはなかった。気負いしてたわけでもない。
やっぱり向いてないのかな、俺には。殴ったり殴られたりするのが特別好きなわけでもないし、うん、チャンピオンを目指してるというつもりもないし、ただ、ちょっとやってみたかっただけだし。
この試合を最後にやめちまおうかな。もういい年なんだし、実家の手伝いしながら平凡に暮らすのも悪くないだろう。
親父、元気かな。はじめはやれやれなんて言ってくれたくせに、自分の都合が悪くなるとぷいっと無視しやがって。もう辞めるって言ったら喜ぶかな。工場手伝うって言ったら喜ぶだろうな。きっと、おふくろも隣でほっとした笑顔をするに違いないな。まったく、あの夫婦は――。
ジムの仲間はなんて言うだろう? おつかれさん、だろう。今まで辞めていった奴はみんな、そうだったもんな。はは、ははははは。
「フォー」
「ファイブ」
 おいおい、まだそんなカウントだったのかよ。
『間にあう?』
『いやいや、いいって』
 立ち上がっても勝てる見込みはないよ。これ以上無駄な抵抗を続けてもしょうがない。痛い思いするだけだし。けっこう痛いんだよ、優子。
「痛くないよ」
「痛くないの? でも見てるこっちが痛いよ」
「はは、今日は負け試合だったからね。今度は勝つよ。勝って優子に格好いいところ見せてやる」
「いいのに、別に。強くなくても。どうしてそんなに勝ちたいの?」
「女にはわからないよ。男にはやらなくてはならない時ってのがあるんだよね」
「ふうん。でもちょっと格好いいね、それ」
 はは、ははははは。
「ごめん、もうすぐ試合近いから、今日は時間ないかも」
「そう。いいわよ、別に。頑張って」
「ああ」
 ああ。
「私、その試合いけないと思う」
「そっか、バイト?」
「んん。もう行かないと思う。試合」
「は?」
「私ね。わたし。好きな人ができたの。だから会うのはこれで最後」
「そう」
「ごめんね」
「んん。今度の試合だけ見に来てくれない? 最後に。その人と一緒でもいいし。今度の試合は勝てそうなんだ。別に応援してくれなくてもいいから、ただ。見に来てくれないかな?」
 目を伏せて下唇を噛む優子。目を上げて。
「やっぱり、やめとく」
 泣いた。
「セーブン」
「エイト」
 まだ間に合う。ねえ、優子。男にはやらなくてはならない時があるんだよ。お前にはわからないだろうけどさ。

 この後、彼が立ち上がったかどうかは書かないでおく。作者自身、彼にとって立ち上がった方がいいのか、諦めるのが一つの選択として正しいのか、判断しかねるからである。彼が立ち上がり逆転勝利することは彼を幸せにするのだろうか? あるいは立ち上がったがために、さらに傷つくことになる可能性は高い。立ち上がろうと思っても体が動かなかったということも考えられる。はたまた、家業を継いで今までと違った新しい人生を歩み出すことが本当の意味で彼を幸せにするのか? それらのことが作者にはとうてい判断しかねるのである。
(了)

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