「ウォームアップ」

 競技場から少しジョギングするとランニングコースに出られる。そこから脇道に入ると静かな木陰がある。僕は決まってレース前にはここへ来る。
あと二時間でいろんなことが変わってしまうだろう、と考えてからすぐに打ち消そうとした。高校陸上のインターハイ地区予選。僕は三年生で予選止まりの実力。今から二時間後の午前十時が千五百メートルのスタート時刻。その五分もすればレースは終わる。中学から六年間やってきた僕の陸上生活も終わる。
強制的に部活に入らなくてはならないという理由で始めて、高校に入ってからも他にやりたいこともなく、やりたいわけでもない陸上を続けた。いつまでやるなんて考えたことはなかったけど、今は何となくわかる。大学ではおそらくやらない。
僕は準備体操を始めた。頭の中でリズムを取りながら、体は何も考えないでもきちんと体操をこなす。染みついている動き。腕回しから始まり上半身下半身へと移っていく。伸脚、屈伸、膝を回して体操は終わる。
調子は悪くない。
もしかしたら決勝に残れるかも知れない。都大会はさすがに無理だろう。それでも、もしかしたら。
手短にストレッチして僕はみんなのところへ戻った。

全部で十三人の小さな部活だ。全員の荷物をまとめてもビニールシート一つに収まってしまう。
「先輩、どこ行ってたんですか。一緒にお菓子、食いましょうよ」
 二年生の小林。いつもならその幼稚さが可愛い弟のように感じられる。
「ちょっと、アップ」
「アップ? スタート何時ですか?」
「十時」
「なんだ、余裕じゃないですか。まだ二時間もありますよ」
「ああ」
 小林の言う通りではある。いつもの僕が小林に教えてきたことだ。アップなんて三十分もあれば十分だと。
「どうしたんですか? 先輩らしくないですよ。緊張してるんですか?」
「ちょっとね」
「最後ですもんね」
 やはり弟だと思った。
「もう少し走ってくる」
「気合いが違いますね。都大行っちゃってくださいよ」
「ああ」
 軽い気持ちで頷けなかった。

 さっきとは別の方向へジョギングし始めた。人の少ない方へ。
こちらにもビニールシートを敷いた学校がいくつかあった。たいてい強い学校だ。都大会まで進む常連校の二つ目三つ目の陣地。
二人の選手らしき男が俯せに寝て、別の男が慣れた手つきで脚をマッサージしている。
「痛いところありますか?」
「平気。大腿二頭筋に沿って解して」
「はい」
 マッサージする手が腿の裏側に移った。僕の中で大腿二頭筋の名前と場所が初めて一致した。
 昨年のこの大会の日、一つ上の先輩達が引退していった。たった二人の先輩。短距離の中野先輩と長距離の石原先輩。全部で七人しかいない時期があった。三年生が引退して、僕と石原先輩達の学年だけだった時だ。長距離は僕と石原先輩だけだった。マネージャーはタイムを計るために校庭の短距離に付いて、僕と石原先輩は二人で学校を出て、たっぷり一時間かけてロングジョギングをした。二人でいろんな事を喋った。音楽の話だとか漫画の話だとか、部活の誰々はどうだとか、先生の悪口、時々は陸上のことも教えてくれた。
 大会後のミーティングで先輩達が引退の挨拶をした。中野先輩はおどけて泣いた振りをして、みんなを笑わせてから、
「まあ、俺らは終わっちまったけど、お前らはあと一年頑張れよ。つらいだろうけど」
 と言った。それだけ言うと神妙な話の苦手な中野先輩は石原先輩の方に振った。
「お前は何かないの?」
「いや、特にない」
「何だよ、三年間もやってきて――お前は六年か、やってきて、何もなしかよ」
「まあ、語れるようなレベルじゃないし」
「それはそうだ。俺たち遅いから」
 中野先輩と仲のいい短距離は笑っていたが、僕はどうしても笑えなかった。先輩達二人のタイムはいい方ではなかった。中野先輩は人柄でよくまとめていたけど、練習では後ろの方だった。石原先輩はベストタイムで僕に五秒差まで迫られていた。
「けど、楽しかったよ」
「うん、楽しかった」
 石原先輩は楽しかったと言う前に「けど」を付けた。「けど」の前に、先輩は何を思ったのだろう。僕は先輩が言葉にしなかった気持ちを想像してなんだか淋しい気持ちになった。石原先輩がいなくなることが淋しくもあったが、それだけではなかった。
 その翌日、登校中に偶然石原先輩と一緒になった。声をかけてきた先輩はいつも通りで引退したなんて嘘のようだった。けれど、
「俺のタイムなんてすぐ抜けよ」
「頑張ります。先輩もまた練習引っ張ってくださいよ」
「うん。行けたら行く」
「受験するんですよね?」
「うん。一応T大の文一目指してる」
「え? 先輩って頭いいんですね? ――あ、すいません」
「いやいや、目指しているだけだって」
「でも、そうですよね。先輩、頭いいって中野先輩から聞いたことありました。中野先輩はどんなかんじですか?」
 僕はあれだけ一緒に走っていて、そういう話をしたことなかった事を不思議に思った。
「まあ、お前の引退は応援行くよ。都大行けよ」
「はい」
 その後も何度か顔を合わせはしたが、話をしたのはそれが最後だった。先輩はT大には落ち、第二希望にも引っ掛からず、滑り止めにしていた九州の大学へ行った。
 ふいと立ち止まった。時計を見る。スタートまで一時間半。石原先輩の言葉が浮かぶ。
「本当はアップは最低でも一時間半前には始めないといけない。二時間、三時間前から始めて一次二次と段階的にやる奴だっているんだ。うちの学校は少なすぎるよ」
 僕はその話を聞き流した。その時はウォームアップについて何の興味も持てなかった。ただ聞いていて、そういう奴もいるんだと思っただけだった。それが今このタイミングでどうして思い出されるのか。一時間半を使って僕は何をすればいいのかわからない。その答えを記憶の中の石原先輩の言葉から探していた。しかし見つかるはずはなかった。その先は聞かなかったのだから。
 普段のウォームアップでは準備体操とストレッチしかやらない。あとは走る直前に五十メートルぐらい流して走る。三十分あれば充分だ。残りの一時間、他の人は何をするのだろうか。大会ごとのその一時間で周りに差を付けられていったのかも知れない。それだけではない、普段の練習の一時間、一分一秒の使い方が違っていたのだろう。
どうして今まで気が付かなかったのかという情けなさと、気が付いた今なら何か出来るかもしれないという希望と、陸上は今日で終わるのだという事実が、三本の糸が絡み合って上手く解けなかった。解こうとすればする程きつく締まって胸苦しくなった。
今できることを考えた。この一時間の使い方で僕は変わる。
もし一時間を上手く使えなかったら。ベストタイムは出ないだろう。二年生の六月に出した自己ベスト。石原先輩を三秒だけ抜いた。けれど、あれ以来満足してしまった部分がある。満たされた人間は求めることに貪欲になれない。よくわかる。
もし一時間を上手く使えたなら。ベストタイムは出るだろうか? 出るかも知れない。あの時より練習自体は続けてきたんだ。出せるかも知れない。出したい気持ちさえ強く持てれば。
胸がそわそわする。指を握ってぱっと開く。きちんと血が通っているのが感じられる。足も同じだ。
僕は走り出した。息が切れた。呼吸の落ち着いていくのを待つ。
はあはあ、はあ、はあ、はあ、は。
呼吸は静まっていくのに心臓の鼓動は変わらない。やってやる、と一言思った。

 自分のビニールシートに戻る途中、小林に会った。小林と同じく二年生の三鷹が自動販売機で缶を落としている。僕はそのまま通り過ぎようとしたが、小林に見つかった、
「先輩、畑中が都大決まりました」
 畑中は二年生の砲丸投げの女の子だ。記録はそこそこだが、競技人口が少ない種目なので毎回堅く都大会に進んでいる。
 僕は小林に軽く頷いて、笑顔を作ろうとしたが頬が張って笑えなかったが、そのまま過ぎた。小林と三鷹が、僕の様子について何か話したのが聞こえた。
 都大会。ベストタイムを出したら行けるだろうか?
 ビニールシートから、ウォームアップやら応援やらで、みんな出はらっていた。荷物番で一人は必ず残るようにといつも言っているのに、が、今はどうでもいい。
 僕はレース直前に着替えるユニフォームを出した。これを着るのも最後だと一瞬だけ思った。ユニフォームに5721の布ゼッケンを安全ピンで留めた。
それからスパイクシューズ。水。タオル。スタート地点に持っていく荷物をまとめた。いつもはそれだけだが、他にも何かあった方がいい気がした。けれど何も思いつかなかった。
 マネージャーの西村由美子がクリップボードを抱えて戻ってきた。ボードには選手のタイムを書いたルーズリーフがたくさん挟まれている。首にはストップウォッチが下げられている。
「誰か出てたの?」
「うん。アッちゃんとチカちゃんが百に」
「それで、みんないなかったんだ」
「うん」
 西村由美子は座り、計ったタイムを新しい紙に清書し始めた。俯いたまま、
「最後だね」
「ああ」
 それが西村由美子自身にも向けられたものだと気が付いて、
「そうだね」
 僕の学年は西村由美子の他に短距離の男子が三人いる。練習場所が別になることが多かったので、僕は三人とは距離があった。それを気遣ってくれていたのか西村由美子は、よく練習の様子を尋ねてくれた。本当に浮いていたわけではなかったが、やはり西村由美子の好意はうれしかった。
 三人は中野先輩とリレーに出ていたが、駅伝には四人に僕と石原先輩を入れても一人足りなかった。その時、西村由美子が「私が出れればいいのに」と言ったのは忘れられない。
 僕はその頃、西村由美子に好意を持っていた。けれど彼女はおそらく石原先輩を好きだった。練習の様子を尋ねてきたのも、そう考えた方が納得しやすい。
一年生で女の子が入ってきてからは、あまり話さなくなった。
「ベスト出そう?」
「どうだろう。石原先輩抜いてから満足しちゃってた気がする」
「うん。石原先輩はすごかったもんね」
「でも、最後だし、出したいかな。ベスト」
「頑張って。応援してる」
「うん」
 僕はなんとなく居たたまれなくなった。
「コール行ってくる」
「うん。あ、丸付けはしといたよ。」
「ありがとう」
「うん。頑張って」
 荷物をまとめてコールの行われるテントに向かった。選手の参加を確認するコールは三回行われる。始めは張り出された参加選手表に丸を付けるだけ。二次はスタートの三十分前に名前と布ゼッケンの確認。三次はスタート直前。
 テントの前には千五百メートルの選手が集まっていた。二次コールは係員が一人ずつ読み上げて、呼ばれた選手が前に出て前後に付けたゼッケンを見せる。ユニフォームは着ても着なくてもゼッケンが見えればいい。読み上げはまだ始まっていなかった。
 待つ間も時間を無駄に出来ないとアキレス腱を伸ばしている者がいる。仁王のような形相でじっと直立して待つ者がいる。同じ学校で二三人で来て、早くしろだの、まだ始まっていないだの騒々しいのもいる。靴下まで脱いで足首を固定するテーピングをしている者。ハードルを跨ぐような動きをする者。僕。
 この時間を無駄にしてはいけないと思う一方、僕の頭では西村由美子が笑っていた。好きだった頃の自分が浮かんで、西村由美子との会話がいくつか飛び交い、石原先輩の姿が浮かぶ。それはもう思い出だった。そうして、これから三十年とか経った頃には、今この瞬間を淡い気持ちとともに思い出すのだろうか。
 呼び出しが始まった。十五人前後で一組作り、全部で五組ある。僕は二組目だった。
一組目が順々とコールされていく。返事をするだけの声も一人一人違う。僕と同じ三年生もたくさんいる。今日引退するのもいるだろう。彼らは今日をどう捉えているのだろう。
コールが二組目に入る。これから僕と戦う敵。彼らも僕を敵だと思っている。上位三着までと四着以降の選手全体で速い者から五人が決勝に進める。僕は一度も行ったことはないけれど。
「5721」
「はい」
 僕は係員の前に出て、手に持ったユニフォームの前を見せて、くるりと裏返した。
「はい、いいですよ」
 その瞬間、勝負が始まった。普段の僕はこの二次コールの後からウォームアップを始める。今日はもう体は解れている。もう少し温める必要はあるが時間は十分ある。普段やることはすでに片付いている。残された三十分で、普段の僕に差をつける。
 僕はスタート地点まで行くと、最後の調整に入った。
 体を温めるためジョギングしながら、レースをイメージする。僕は目をつむり、腕時計のストップウォッチをスタートさせた。
トラックは一周四百メートル。千五百メートルは始めに三百メートルの一周プラス三周の計四周。
 一週目の三百メートル。スタートから激しい位置取りが始まる。僕はいつも飛び出して自分の位置を確保する。今日もそれでいい。直線の百メートルはそれで過ぎているだろう。カーブに入ると速い連中が僕を抜いていくだろう。ここで付いていっては駄目だ。情けないが僕の実力じゃ付いていけないのだから。そのまま、中ぐらいの位置で一週目は通過。
 二週目。決勝を狙っている先頭集団はどんどん離れていく。付くか? 否やめておこう。ペースを狂わされてはいけない。あくまで僕は僕のベストを狙うんだ。そのまま二週目はやり過ごそう。前に付かず、後ろに付かれずで。そうそれでいい。案外まだ三位に入っているかもしれない。決勝を狙える。
 残り二周。全体のペースが上がっていく。そろそろ僕も上げていく。第一コーナーを通過。カーブを過ぎると、西村由美子の声。走りながら見える景色。たくさんの人が思い思いの人を応援している。声の主を探す。酸素は吸っても吸っても足りない。視界に西村由美子が入り、すぐに戻す。バックストレート、行くぞ。僕はスピードを上げていく。呼吸は苦しいが勝負所だ。後ろ足を目一杯蹴って、腕を前に振る、腿を高く。
 ラスト一周。鐘が鳴る。
いや、鳴らない。鳴らないんだ。鐘はトップの選手に合わせて鳴らされる。突然僕の周りが真っ白い世界に変わった。煉瓦色のトラックも、そこに引かれた幾何学的な白線も白い空間に飲まれていく。雑多な応援声もヴォリュームスイッチを捻ったように消え、僕のプレストな呼吸音だけが響く。ゴールが見えない。やがて平衡感覚を失って脚がもつれだす。無重力にでもいるように世界がうねる。
その時、白い世界に小さな黒点が見える。あれはなんだろう? 目的地を見失った僕はとにかくそこを目指してみる。走っても走ってもなかなか大きくならない。僕は理解する。影も走っているんだ。アイツを抜かなければ。そう思うが脚が思うように上がらない。石でも飲み込んだように肺が痛い。もう限界だ。
僕は目を開いた。指が反射的に腕時計をストップさせた。ベストタイムより十秒も遅い。
 このやり方じゃ駄目だ。今までの僕のやり方じゃ駄目だ。アイツには勝てない。
 駄目なのははっきりとわかってしまった。けれど、どうすればいいかは一向にわからなかった。すでに一組目はスタートしていた。僕は少し慌ててユニフォームに着替え始めた。最終コールが始まっている。
「5721」
スパイクを履く。
「5721?」
「はい」
「よし、全員いるね。じゃあ中に入って軽く流しして」
 二組目の選手がトラック内に入る。進行方向とは逆に数メートル走る。横目でゴール地点を見ると一組目の最後のランナーが入るところだった。
「先輩、頑張ってくださいよ」
 軽い調子は小林だ。声の方を見ると小林と目があった。
「一位で入っちゃってくださいよ」
 小林に向けて拳を握って答えた。
 スタート位置に着く。ゴール地点から長い笛が鳴る。準備よしの合図だ。こちらの係員も笛で返す。ピストルを撃つ係員が台に乗る。
「位置について」
 一歩出てスタートラインまで進む。白いラインのぎりぎりに爪先。わずかな静寂。
「パン」
 僕の最後のレースがスタートした。その瞬間すべてが白んだ。何も見えない何も聞こえない空間。その透明の世界の中で、僕は黒い影の正体をはっきりと見た。
(了)

SNSシェア

フォローする