小説「カトレアの枯れた家」

「取引先の部長に急に誘われたんだ。断るわけには行かないだろ」
 妻は一瞬たりとも疑わなかった。いつもどおりだ。人を疑わない性格なのだ。抜けているといえば抜けているが妻にしておくにはちょうど良い。家庭のことさえしっかりやって、俺に余計な口出しをしなければそれで充分なのだ。
 改札を抜けると霧雨が吹いていた。タクシーを呼び止めて、運転手にホテルの名前を告げた。この辺りでは一番上等なホテルだ。
 鞄から、もう一つのスマホをとり出した。落としでもしたか画面に亀裂が入っている。マキからのメッセージ。
「時間が空いたので先にホテルに入りました」
 二時間も前だった。それから一時間にもう一通。
「すこし眠るね。鍵開けとくから襲ってもいいよ」
「遅くなってすまん。いま向かってる。一○分ぐらいで着く」
 曇った窓の外は、霧がかったグレーの街並み。すれ違う自動車のヘッドライトが灯台のように射し込んでは抜けていく。夏の雨は鬱陶しい。じめじめして面倒くさい女みたいだ。その点、マキはさっぱりしているのがいい。必要以上に詮索してこないし、たいしたものも欲しがらない。一度ブランドのスカーフをせがまれたぐらいで、食事とホテルを払ってやれば満足している。最近の若い子は物欲がないというのは本当なのかもしれない。
 早くシャワーを浴びてマキの体を味わいたいと昂ぶっていると、
「なにか事件でもあったんですかね?」
 と、運転手が言った。車はすでにホテルに着いていた。ロータリーにはパトカーが二台停まっていた。

 夫から、呑んで帰るというメッセージ。もちろん嘘にきまってる。
「取引先の部長さんが相手じゃ疲れるでしょ」
 私は良妻らしい気づかいをみせながら、どうせ終電を逃したなんて言って今夜も帰ってこないのだろうと考えていた。私にとっては好都合。夫が浮気を始めたおかげで、私もあの人と会いやすくなった。問題は娘だった。
 そのとき、見計らったような連絡。
「ママ。今日、友達の家に泊まってもいい?」
「友達って? 誰の家?」
「ハルカだよ。いつも泊まってるでしょ。バスケ部のみんなで女子会しようってなって。ダメかな?」
「その子の家に着いたら連絡して。それから帰るときも」
「ありがとう、ママ」
「お酒はダメだからね?」
「そんなの飲まないってば」
 ほどほどに心配する母親を装いながら、私のこころは女になっていた。シャワーに濡れながら肩を抱きしめる。一ヶ月前に抱かれたのがずいぶん前に感じられる。
 これまで出会い系サイトで三人と会ったが、あの人とがいちばんいいのだ。夫なんか比べる気もならないほどに……。
 あの人からの返信が届いた。
「今夜は泊まれるってほんと? めっちゃうれしい」

 外に降る雨が音を吸い込んでしまったのか、ホテルの玄関ロビーはしんとしていた。俺は袖についた滴を払ってフロントへ歩いた。
 名前を告げると、係の女が奥のエリアへ入っていった。俺の顔をチラチラと見ていたような気がした。
 女と一緒にスーツの二人組がやってきた。若い営業マンのような男と体格のいい男だ。ガードマンではない。
「すいませんが、あちらまでよろしいでしょうか?」
 語り口でホテルの人間ではないと知れた。営業マンは慇懃な態度で、周りに人のいない隅のテーブルまで俺を誘導した。
「サトウといいます」と、人あたりのよい笑顔で警察手帳を開いてみせた。がたいのいい方は名前だけ名乗って席にはつかなかった。
 サトウは手を揉みながら単刀直入に言った。
「今夜このホテルで女性と待ち合わせをしましたね」
「だからなんだ?」
 それが犯罪か、と不機嫌な声で威圧した。
「その女性――あなたにはマキと名乗っていたようなので、そう呼んでおきますが、その彼女が殺されました」
 目が合うとサトウは本当ですと頷いた。三十代の若造かと思っていたが、正面から見ると、もう少し上に見えた。白髪もある。
「殺されたと言ったか?」
「ベッドで寝ているところを絞殺されたようです。首には女性もののスカーフが巻き付いたままで、おそらく凶器とみて間違いないでしょう。これです」
 写真をとりだした。それは臙脂色にカトレアの模様が描かれたスカーフだった。
「財布など金目のものは盗まれていないし争った形跡もない。僕は怨恨じゃないかと推測してるんですが……このスカーフに見覚えはありませんか? 例えば、あなたの贈り物とか?」
 疑っているのか、ただ訊いているだけなのか、本心を見せない喋り方が苛立たしい。
「そんなもの銀座のデパートにでも行けば誰でも買えるだろう」
「ほう、銀座ですか。さすがですね」
「なんだと?」
「僕はぜんぜんわからなかったんですがね、これ、かなり上等な品らしいんですよ。ブランドもんってやつです」
 次の写真には、ブランドのロゴである筆記体のCの文字がアップで映っていた。
「僕みたいな貧乏人は一枚三万円もするスカーフなんて、好きな女性の誕生日でも気がひけてしまいます。ああ、もっとも、うちの彼女だったら、こんな布きれより旅行するか美味しいものでも食べにいこうと言ってくれますがね」
 サトウはからからと一人で笑った。
「ところで、ほんとうに見覚えありませんか?」
 一枚目の写真に戻す。たしかに俺はそのスカーフを知っていた。それは先月、妻に贈ったものだ。

 オートロックのマンションというのがいい。私はエントランスまでくるとコンパクトミラーをだして髪型をチェックして、正面ガラスで全身チェック。わるくない。
 あの人の部屋番号を押して、インターフォンに笑顔をつくる。カメラに越しに見ているマサキに向けて。
「いらっしゃい。待ってました」
 彼の声がしてドアが開く。この瞬間がすき。
 エレベーターを出ると彼が待っていてくれた。ポロシャツにゆるいスラックスという楽な恰好だが、いい香りがする。さわやかなマリンブルー。私のためにコロンをつけてくれたのだと思うと抱きつきたい衝動に駆られたが、腕を絡ませるだけでひとまず我慢した。
「あれ、今日はしてないんだね。スカーフ」
「スカーフ?」
「この前、巻いてたでしょ。赤っぽい色の」
「ああ、どっかいっちゃったの。夫からのプレゼントなんだけどね」
「旦那さんからの? 大事にしなきゃ」
「いいよ。どうせ、他の女にあげようとした余りなんだから」
 部屋の前までくると、マサキは私を抱き寄せキスをした。それからドアを開けて私に道をゆずった。二十代の時にホストをしていたらしくて、こういうことを自然にやってくれるのだ。
「おじゃまします」
 お姫様気分でヒールを脱ぐと悪魔の電話が鳴りだした。メッセージではなく着信だった。
「最悪。夫からだ」
 人差し指を立ててしーをすると、彼はOKをつくってうなずいた。
「もしもし? なに?」
「お前、今どこにいるんだ?」
 鈍器のような声色に頭が白くなった……。
「ど、どこって……」
「家にいるのか?」
 その言葉で夫が帰ってきた訳ではないと気づいた。
「当り前でしょ。どうしたの? 部長さんとの呑みは?」
「ああ、さっき終わった。それより、この前やったスカーフがあったろ。あれ、家にあるか」
「え、なんでそんなもの……」
「あるかって聞いてんだ。あるのか、ないのか」
「あるはずだけど、どこにしまったか……」
「わかった。今から帰るから出しといてくれ」
「今から? 何分ぐらいで?」
「タクシー使うから四○分もあれば帰れる」
 電話を切ると、脱いだばかりのヒールに足を通した。留め具のパチっという音がおわりを告げる鐘だった。たった一〇分の逢瀬。
「旦那さん、帰ってくるの?」
「ごめん……ほんとにごめん」
 何度も謝りながら何度もキスをした。申し訳ないよりさびしい。
「しょうがないよ。また、つぎのチャンスを待とう」
 マサキの優しさに包まれると、自分勝手な夫への怒りがふつふつと沸いてきた。

 黒いヒールが脱ぎ捨てられている。履いているところを見たことがない。マキを殺すために変装してホテルに侵入したのだろうか。
「おいっ、帰ったぞ」
 俺は臨戦態勢に入り声を張り上げた。本当に妻が殺したのだろうか。そうであれば恐ろしいことになる。
「早かったね。四○分はかかるって言ってたのに」
「ああ、道路が空いてたんだ」
 妻は部屋着だったが髪をセットした跡がある。化粧も慌てて落としたのか目尻がうす汚れている。犯行時刻は夕方の五時頃だから隠蔽する時間は充分にあったはずなのに、何の小細工だろうか。
「あったか? 例のスカーフ」
「それが見つからなくて。せっかくあなたが買ってくれたものだから嬉しくて大事にしまっておいたはずなのに……どこ言っちゃったんだろ……」
 背を向けて逃げるように寝室に入っていった。
「探してたらついつい、こんなんに……」
 クローゼットのチェストが開け放たれて、床やベッドにあたりかまわず衣服が散らばっていた。
「最近着てない服とかいっぱい出てきて整理しようかなって選んでたら、ついつい着てみたくなっちゃって……」
 なるほど。それで凶器のスカーフが見つからない言い訳にするか。
「髪までセットしたのか?」
 俺は盛り上がった髪をつまんだ。かすかにオーデコロンの匂いがした。青臭い男がつけそうな安っぽいにおい。
「うん一人ファッションショーしてたの。どう、似合う?」
 妻はくるりと回って白いワンピースを拾うと、肩で合わせて俺に見せた。少女じみた笑顔なんかで誤魔化されるものか。
「それでスカーフはどこにあるんだ?」
 妻は膝から崩れ落ちるように座り込んだ。伏せた顔から鼻をすする音がする。
「見つからないの……」

 うしろ髪を引かれる思いで彼のマンションから飛んで帰った私は、忌々しいスカーフを探した。
 たしかにチェストの奥にしまってあったはずだ。夫からのプレゼントであることなんてどうでもいいが品は良い。愛人が気に入らなくて私に寄越したのだと思うと腹立たしいが、スカーフに罪はない。マサキも褒めてくれた。また巻くつもりで最上段の奥に、きれいに畳んでしまっておいたのだ。それなのに見当たらない。
 どうして夫は今さらスカーフを? 今さら返せとでも?
 大切なスカーフがみつからない苛立ちと、私を縛りつける夫への怒りで指が震えた。自分は好き勝手に遊んでるくせに、私は家に閉じ込める。
 着てない服が山ほど出てくる。こんな肩の出るブラウスはもう着れないと思ったら掴んで壁に投げつけていた。これもいらない。これも、これも、こんなの着て行く場所ない。これも、これも、これも、これも、これも、これもこれもこれもこれもこれも……床やベッドがうずくまる死体の山になった。マサキと逢う時間だけが女に戻れる唯一の時間だったのに……あふれてきた涙を目尻で拭った。
「二○分もしたら着く」
 メッセージで我に返る。二○分ということは一〇分で帰ってくるつもりだろう。そういう男だ。私は残り時間で出来る対処法を考え、準備を整えた。
「おいっ、帰ったぞ」
 作戦開始。
「あったか? 例のスカーフ」
「それが見つからなくて。せっかくあなたが買ってくれたものだから嬉しくて、大事にしまっておいたはずなのに……どこ言っちゃったんだろ……」
 明るく振る舞えば振る舞うほど苦しくなる。このままではダメ。夫に顔を見られないようにして寝室へ逃げこんだ。
「探してたらついつい、こんなんに……」
 声が不自然に高い。
「最近着てない服とかいっぱい出てきて整理しようかなって選んでたら、ついつい着てみたくなっちゃって……」
「髪までセットしたのか?」
 触らないで。マサキを思い出してしまう。
「一人ファッションショーしてたの。どう、似合う?」
 ワンピースを合わせた滑稽な私が鏡に映った。哀れなピエロ。もうムリ……。
「それでスカーフはどこにあるんだ?」
「見つからないの……」
 いま、この手にあったなら、夫の首に巻き付けて締め殺してやるだろう。それなのに見つからない。
「お前が殺ったのか?」
「やった? 何のこと?」
 顔を上げて睨みつけた。
 突然、夫は告白をはじめた。今夜の呑みというのは嘘で愛人と会おうとしていたこと。その愛人が何者かに殺されたこと。凶器があのスカーフだということ。悪びれるようすもなく、そこまで話すと、
「お前が殺ったんじゃないのか?」
「私が? 殺すわけないでしょ。あなたの愛人が誰かも知らないし、
嫉妬だってしないし……」
「嫉妬?」
「妻が愛人を殺すとしたら動機は嫉妬でしょ。愛人がいなくなって、夫に家に戻ってきてほしいって……でも私はあなたが浮気しても嫉妬なんかしない」
 殺すなら愛人じゃなくてあなたを殺す……。
 夫は「そうか」と言ってベッドにへたりこんだ。そうか、それならいい、と呟いてしずかに笑った。なぜだか安堵しているようだった。

 妻が犯人でないと確信すると全身の力が抜けた。犯人でないなら、それで良い。それだけで良い。
 もしも妻が愛人を殺したなんてことになれば、すべてを失うところだった。会社では白い目で見られ、家はワイドショーに囲まれて転居もやむなし。これまで築き上げてきたしあわせな家庭は壊れ、副社長まで登りつめた名誉が一夜にして地に落ちるところであった。犯人でないなら、それだけで良い。
 捨てられた子犬のようにこっちを見ている妻。思えば、この女にも可哀想なことをした。こうして改めて見ればいい女じゃないか。二〇年前には結婚したいと俺からプロポーズした女だ。俺が浮気しても嫉妬しないなんて良妻の鑑じゃないか。
 黙って妻の腕を引き寄せると、従って身を預けてきた。なつかしい抱き心地だ。妻が犯人でないとわかって、中断されていた女を抱きたい欲が流れはじめた。
「ねえ、私ね……」
「言わなくていい」
 俺は、抱かれる準備をしていたかのような妻の洋服を脱がしはじめた。

 殺してやりたいと思っていた男に抱かれている。マサキのやさしい包み方とはぜんぜん違う。ごつごつと力強い締めつけが安心する。そういえば二○年前もこんな風に強引に奪われたのだった。
「ねえ、私ね……」
 急にマサキのことを懺悔したくなった。
「言わなくていい」
 夫が私の衣服を剥がしていく……ベッドに倒れると散らかっていたブラウスのボタンが背中にあたった。最初に投げつけブラウスだった。そっとつまんで、床に落とした。

 ママから盗んだスカーフを、薄暗い天井のライトにかざして眺めていたら、それがカトレアの文様だと初めて気がついた。
 玄関先のカトレアが咲かなくなったことに、ママは気づいてるのだろうか。夏休み前になると出迎えるように咲いていた、フリルのスカートをはいた可憐な少女のようなピンクの花が、いつしか咲かなくなったことに、ママは気づいてるのだろうか。
「ママ、さっちゃんが咲いたよ!」
 小学生だったわたしは、つぼみのひとつひとつに女の子の名前をつけて、咲いたのを見つけると報告していた。カトレアみたいになりたいと作文に書くほど清純なころがあったと思うと笑えてくる。
「どうしたの、そのスカーフ?」
 シャワーを浴びたパパと同い年の男――名前はヤマモトだかヤマシタだが忘れたけれど、どうせ偽名だからどうでもいい――が全裸で腰にバスタオルを巻いて出てきた。
「これで縛って。わたし、わるい子だから」
「たしかに悪い子だね。友達の家に泊まるって嘘ついて、おじさんと、こんなとこ来ちゃってるんだから」
「そんなの悪くない。みんなやってるし」
「じゃあ、どうして悪い子なのかな?」
「人を殺したから」
「ほんとに? それは怖いな。おじさんも殺されちゃう?」
「殺さないよ。二○○万の価値ないでしょ」
「二○○万?」
 私は自首して手錠をかけられるように両手を差し出した。
「ねえ、はやく縛って。わるい子だから、お仕置きして」
 ママは気づいてるのだろうか。大切なカトレアがもう枯れてしまっていることに……。

 夜が明けると魔法が解けたように冷めていた。隣でいびきをかいてる夫を見ると絶望的な気分に陥った。またこの男との生活が始まるのかと。
 スマホにメッセージが届いた。帰るときに連絡するように言っておいた娘からかと思ったらマサキからだった。
「昨日は大丈夫だった? 旦那さんにバレてないといいけど。また、こんど会える日をたのしみにしてます」
 一時の感情で懺悔などしなくてよかった。
「ありがとう。また連絡するね。はやく逢いたい」
 シャワーを浴びて夫の匂いを洗い流すと、私は母に戻った。
「帰る前にちゃんと連絡しなさいって言ったでしょ」
「ごめーん。忘れてた」
 舌を出して笑うなんて、娘の年頃にしか許されない仕草だなと思う。汚れを知らない可憐な少女。
「お酒飲んでないでしょうね?」
「飲んでないってば。ねえ、なんか作ってよ? お腹すいた」
「何食べたい?」
 冷蔵庫をあけて残っている食材で作れるメニューを考える。
「オムレツが食べたい。ふわふわっのやつ。わたしが子供の頃よく作ってくれたじゃん」
 卵二つとバターをとりだした。
「あんたはまだ子どもでしょ」
「子供じゃないよ。もう……」
 フライパンを火にかけバターをのせる。白い塊は熱で溶かされて水たまりになる。こんな風に溶けてしまいたい。私は食べられるためだけに生まれた無精卵の黄色を箸で潰してかき混ぜた。
「ねえ、ママ、知ってる? マキちゃんが死んじゃったんだよ」
「マキちゃんって? お友達?」
「玄関のカトレアだよ。名前をつけてたでしょ。わたしが」
「ああ、そういえば小学生ぐらいの頃に……」
 卵を落とすとジューっとしあわせな家庭の音がした。
「カトレア咲かなくなってたの知ってた?」
「手入れしてなかったからね」
「でも蕾がついてたんだよ。一つだけ。ずるいでしょ。みんなが枯れていくのに自分だけ咲こうなんて。だから、わたしね、摘んだの」
 遮るようにオムレツをおいた。この子の言うことはわからない。

 美味そうな匂いで目が覚めた。バターの焼ける香ばしい匂い。
 妻を抱いたことを思い出した。悪くなかった。俺は大事なことを忘れていた。つまらない日常があるからこそ火遊びが楽しく感じられるのだ。これからはたまに妻も抱こう。その方が他の女も楽しめるようになるだろう。
 キッチンでは妻と娘が仲睦まじくオムレツを食べていた。
「おい、パパの分はないのか?」
「あなたも食べる?」
 妻は空いた皿をもって流し台へいった。
「卵は二つ? 三つにする?」
「三つで頼む。なんだか腹が減った。昨日はいろいろあったからな」
「いろいろって? 何かあったの?」
 娘がスプーンを持った手をとめて、俺を見た。
「ああ、たいしたことじゃない」
「誰か死んだとか?」
「おい、物騒なこと言うなよ。よくあるトラブルだよ。まあ、無事に片付いたからな。こうやって家族そろって朝食なんて、いいもんじゃないか」
 娘が俺を見つめている。
「パパ、電話鳴ってるよ」
 娘に言われて耳を澄ますと遠くに聞こえた。寝室からだ。戻って見ると、見覚えのない番号だった。
「もしもし……」
「あ、どうも。昨日、お話を伺った刑事のサトウですが……」
「ちょっと待ってくれ」
 サンダルをつっかけ玄関の外へ出てから続きを促した。
「すみません、朝早くに。お知らせしておきたいことがあって」
「なんだ? さっさと言ってくれ」
「犯人が捕まりました。アキさん――いや、あなたにはマキさんと名乗ってたんでした、彼女、ベテランでしてね。愛人関係にある男性があなたの他に六人もいたんです。凶器に使われたスカーフはそのうちの一人から贈られたもので、彼女の私物でした。奥様のものではありませんでした」
「家内を疑ってたのか? 見当違いも甚だしいな」
「まあ、刑事というのはそういう仕事でして……」
「とにかく事件は解決だろう。切るぞ?」
「あ、待ってください。つづきがあるんです。気になりませんか? 犯人が誰だったのか?」
「どうでもいい。俺にはもう関係ないだろう」
 サトウは勝手に話を続けた。
「犯人の男は、鍵の開いていた女性の部屋に忍び込み、眠っていた彼女を殺害。建物の裏口から出ていくところが防犯カメラに映っていて逮捕につながりました」
「ふん、ずいぶんお粗末な殺人だな」
「動機がもっとお粗末でして、彼女を殺してくれたら金を払うというインターネットの書き込みで引き受けたというんです。依頼殺人というやつです」
「そんなバカな話あるか。金を払うって詐欺みたいなもんだろう」
「ところが確かに二〇〇万円振り込まれてるんです。犯人の口座に、しっかりと。それで犯人の方もやるしかないと覚悟を決めて、お粗末な犯行に及んだというわけです」
「そんな依頼をされるってことはあの女、ずいぶんと恨まれていたんだな」
「問題はそこなんです。誰が依頼をしたのか、いや、それはもうほとんどわかってて、あとは証拠を集めて逮捕状をとるだけなんですが、僕がわからないのは彼女がどうしてそんなことをしたのか」
「依頼したのは女なのか? それなら嫉妬だ」
 妻の言葉が頭に浮かんだ。
「女は愛のために罪を犯すんだ」
「なるほど……あなたの話を聞いているとわかる気がします。彼女の気持ちが……二〇〇万円払って壊したかったもの。それは、本当は取り戻したかったものなのかもしれませんが、子供じゃないから取り戻せないこともわかっていた。だから壊すしかなかった……」
 電話を切って家に戻ろうとしたとき、何かを踏んだ。ぐにゃりとした、柔らかいミミズの死骸のようなもの。サンダルを通じて気色悪い感触が土踏まずに伝わった。足を上げると、それは花の蕾だった。白に薄桃色の筋の入った蕾が、潰れて汁を噴きだしている。
 どうしてこんなものが一つだけ落ちているのか知らないが、俺はその死んだ蕾をつまみあげ、植込みに投げ捨てた。
(了)

(緋片イルカ2018/08/18)

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