心理学では、他者に対する態度は、
相手に対する「好き」「嫌い」
相手と自分の立場の「上」「下」で決まると言われます。
表にすると以下です。
相手のことを「好き」で自分より「上」の相手を尊敬し、
相手のことを「嫌い」で自分より「上」の相手には恐怖を感じ、
相手のことを「好き」で自分より「下」の相手に同情し(ここには自分を越えない程度にしか協力しないという含みもあるそうです)、
相手のことを「嫌い」で自分より「下」の相手は嫌悪して、排除しようとする。
自分をふり返ってみれば、よくわかるかと思います。
また、自己肯定感の低い人は、相手を「上」に見る傾向が強く、誰かを神のように崇めたり、必要以上に怯えたりしやすく、
プライドの高い人は、相手を「下」に見る傾向が強く、攻撃的になったり、マウントをとりがちです。
誰かの「作品」を読むときの態度にも、これらと同じようなことが言えると思います。
ある作家を天才として持ち上げるのも、つまらないとコケにするのも「読み」として正しいとは言えません。
人の思想や感情に「上下」はないからです。作者も読者も同じ人間です。
教科書に載っている有名な作家の作品だからってすごいとは限らないし、無名のネット小説だってバカにしてはいけないのです。
これは「読み」の根本です。
けれど、表面的な差はあります。売れている、知られている作品は、多くの人の評価を得る何かを持っています。
人間は根本的には平等だけど、たとえば「収入」というものさしで見れば上下があるし、学力の「偏差値」なんかでもはっきりとした上下があります。これらを意味がないと切って捨ててしまうのも極端な考えです。
根本的には平等だけど、表面的な差は差として認める。
同時に、お金持ちでも東大を出てても、偉いわけではないように、表面的には差はあれど、根本的には平等。
矛盾するようですが、「作品」に対する根本的な敬意と、客観的な分析が大切なのだと思います。
売れていたり、認知されている作品は、表面的に「上」の部分があるのです。巧いとか、面白いとか。
それを素直に認め、技術的に分析することで、自分の向上にもつながります。
また、表面的な部分で、自分の「作品」が「下」と思われても、必要以上に落ち込む必要もないのです。表面的な技術を磨けばいいだけのことです。
「作品」が否定されても、「作者」までが否定されることはありません。
「好き」「嫌い」の基準の方は、主観的な感情なので、コントロールはむずかしいものです。
嫌いな食べ物を好きになるのも難しいし、身近な好きな友人を嫌いになれと言われても難しいように、意識的に操作できるものではありません。
けれど、好きだと思うなら好きな理由を、嫌いだと思うなら嫌いな理由を考えてみることで、より「作品」と向き合って「読む」ことができるのではないでしょうか?
嫌いは好きの裏返しであるように、関心があるということでは同じです。
注意しなくてはいけないのは「無関心」なときです。
街中で困ってる人がいても、無関心な人は気づきません。差別を助長するのも無関心です。
好きな作家、話題の作家、誰かに勧められた作品、そういうったものばかり読まず、ときには、普段なら手にとりもないしないような作品を読むことも、大切ではないでしょうか?
「読む」という行為は、楽しみや時間つぶしだけでなく、それ自体が、もっと深い文学的行為(集合的コミュニケーション)なのだと僕は考えます。
ちゅう‐よう【中庸】
①かたよらず常にかわらないこと。不偏不倚で過不及のないこと。中正の道。「―を得る」
②尋常の人。凡庸。
③(mesotēs ギリシア)アリストテレスの徳論の中心概念。過剰と不足との中間を思慮によって定めること。
(広辞苑より)
緋片イルカ 2020/07/07