物語をエンタメ的な「面白いかどうか」「感動できるかどうか」といった基準だけで判断するのは危険だと思う。
そこには傲慢な客の思考が潜んでいる。
「こっちはお金を払ったり、時間をつかってやったのだから、それ相応に楽しませてもらおう」という要求である。
こんな客がレストランにやってきたら嫌だろう。
店はさまざまな客のために開いている。だから傲慢だろうが、客として扱う。
客が感想を述べたり、不満を抱く自由もある。
しかし、提供しているサービスの枠を越えた要求には応えられない。一人のわがままな客を満足させるために開いてるのではない。
店側は提供しているものがあり、客はそれに納得して購入する関係でしかない。
くわえて言うなら、本の値段は物語の値段でもない。紙や印刷や、関わった人々の労力に対して価格が決まる。装丁が豪華だったり、発行部数が少なかったり、出版に手間がかかっているものが高くなっているだけで、内容に対する値段ではない。
もしも絵画や美術品のように、物語に価格がつくなら、人気のある作家の本が数億円するということになる。
「物語」に対して満足を要求するのは、端から間違いである。
だから売れているからといって、その物語に価値があるわけでもない。売れていなくても価値がある物語がある。
たとえ100人中99人の客が入りたいと思わなくても、たった1人のために開かれているレストランがあってもいい。
文学はそういうものである。
芥川賞はメディアでの影響が大きいため、発表される度に注目されて、普段は読まないような人が受賞作を手にとる。
それを文学を読み慣れていない読者は「面白くない」と言って断罪する。文学はエンタメではない。かんたんには「面白さ」がわからない。
文学には文学の読み方がある。それが分かれば面白くもなる。
旅行者に文化を紹介するコンシェルジュのように、少しでも文学の良さが伝わればいいと思う。読書会ではそういうことも目指せればいいと思った。
僕は文学は集合的コミュニケーションだと考えている。
太古の時代から、人間は物語を通して意思疎通を図ってきた。
物語を読むことは、作品を通して作者を理解して受け入れることであり、それはつまりは他者を受け入れることでもある。
エンタメ的な基準だけで、切り捨ててはいけない物語がある。そこには価値観に合わないものを排除しようとする思考がある。
きちんと物語を読むこととは、作者の本当にいいたいこと、もしかしたら作者自身も気づいていないような心の声に耳を傾けることである。
そういった集合的なコミュニケーションを通して、人々は分断を乗り越えていけるのである。
緋片イルカ 2020/09/11