物語への誠実さ(文学#73)

先日の分析会で「(作品について)不誠実なかんじがする」とおっしゃってる方がいました。

とても同感だったので、その「不誠実」という言葉が印象に残りました。

物語に対する誠実さとは何だろうか?

今回は、このことについて考えてみようと思います。

仕事への誠実さ

まずは別の職業、コンビニ店員で喩えてみます。

いつも例にあげる喩えですが、働いたことがある人も多いでしょうし、客として買い物したことがないという人はほとんどいないと思うので、考えやすい例です(ちなみに僕も10代の頃バイトしていました)。

コンビニ店員の仕事の範疇はいろいろありますが、とりあえず「レジで会計をする」シーンに限定します。

誠実な店員さんと言ったら、どんな印象が浮かぶでしょうか?

にこやかな笑顔、はきはきとした明るい声で、気遣い(レンジ温めや箸やスプーン)をしてくれ、スムーズにミスなく処理をしてくれる(最近は自動でレジも増えましたが)。

接客マニュアル見本のようですが、現実にこういった素敵な店員さんに出逢ったことがある人も多いのではないでしょうか。僕はあります。

そういう方の接客を受けると、こちらも嬉しい気分になります。

では、店員さんの接客ではなく「物語に接した」ときはどうでしょう?

読み終わって感動したり、「ああ、いいものを読んだな」と幸せな気分になる物語があります。

これはハッピーエンドかどうかといった問題ではありません。テーマや題材が、重く苦しいような物語でも、いいものに接した後はとても満足した気持ちになります。

また、読後感だけの問題でもありません。冒頭の数ページ(第一印象)や、読んでいる途中でも感じるもので、それは「続きを読もうか?」という気持ちにも関係します。

コンビニでも店員さんの「いらっしゃいませ」の挨拶がないとか言い方が悪いといって、怒ったり買わずに出ていってしまう人がいます。

客の側から過剰なサービスを求めることはいろいろと問題がありそうですが、物語の観客・読者は正直です。

目の前に作者がいるわけでもないので、本屋で手にとって、冒頭の数行を読んでいいと思わなければ置いて帰ります。

コンビニではお客さんは欲しいモノを手に入れるために「会計をする」必要がありますが、物語では読む必要はありません。

この点では、2つの似たような商品のうち、どちらを買いますか?という考え方にも似ています。

たとえば、戦争についての物語。

A「実際に戦争を体験した作者が、そこで感じた感情をリアルに描いた物語」

B「戦争についてはゲームやドラマで知っている作者が、取材もせずに想像で描いた物語」

どちらが誠実かは言うまでもありません。

戦争だと重く感じる人は「戦争」を自分の興味のある題材に置き換えれば同じです。

A「実際に世界中の食べ歩きをした作者が、多くの人が見たことも聞いたこともないような料理を紹介する物語」

B「世界中の食べ歩きについてテレビで見たり、マンガで読んだ作者が、取材もせずに想像で描いた物語」

もはや、Bの作品より、その作者がテレビで見たりマンガで読んだという「元の作品」を読みたいと思いませんか?

題材への誠実さ

では、戦争を体験したことがなければ、戦争について書いてはいけないのか?

そんなことはありません。創作は自由です。

ですが誠実に書かれていない戦争ものが批判を受けるのは当然でしょう。

ファンタジーに逃げることもできます。

「これは架空の世界だから、自分の書いたものがルールなのだ」と。

その態度こそが、やはり不誠実ではないでしょうか。

取材をしたくないとか、未熟さの言い訳のようです。

世界的に評価されているようなファンタジー作品は、架空の世界でも、現実を彷彿とさせるような設定など、とてもリアルです。

作者が現実社会の問題などに対して、きちんと向き合っていて、表現方法としてファンタジーを選択しているのです。

空想に逃げるのと、イマジネーションを駆使して現実を彩るのとでは、天と地ほどの差があります。

また、実際の体験者だからといって、何も調べず、聴く耳を持たないような態度で書くような「不遜さ」も、誠実さを失う危険性があります。

自分の体験ルポならともかく、物語にするときには自分の知らない部分が必ず出てくるでしょう。

取材なんか大変そうで、自分には書けそうにないと感じるのであれば、書かないことが誠実さです。

過信して何でも書けるなど思うよりは、よっぽど良いと思います。

あなたにしか書けない、あなたのテーマがあるはずです。

現代に生きる、自分の置かれている環境にもテーマは必ずあります。

それをつまらないものと切り捨てることは、同じような環境に生きている人をつまらないと切り捨ててしまっていることと同じです。

もし、切実に書きたいと思えるようなテーマが見つかったなら、自然ともっと知りたい、もっと調べたいと思うはずです。それが取材になります。

いい物語を書きたいと思えば、自然と誠実な態度になるのです。

なお、ストーリーサークルの観点でいえば、誠実さは「視点」に関わります。

「架空のファンタジー世界」という「題材」に対して、どういった「視点」を持っているか?

そこに「テーマ」が浮かび上がってくるのです。

また、「人物」=人間に対する「視点」は「描写」に出ます。

具体的には、言葉の選び方、キャラクターのセリフなどに、作者の誠実さは必ず反映されます。

技術への誠実さ

「いい物語を書きたい」という気持ちが誠実さにつながるのであれば、「何故、あなたは書くのですか?」という問いが必要かもしれません。

「仕事として」「お金のため」という答えも大切です。

そこには責任が伴います。

コンビニ店員という仕事で給料をもらうためには、最低限こなすべき仕事があります。

同様に「仕事としてお金をもらう物語」には、最低限のレベルが求められます。

競争という観点からも問われます。

人間(つまり観客や読者)の時間には限りがありますので、他の物語より優先的に選んでもらえないと売れない=仕事にならないのです。

「仕事として」「お金のため」物語を書こうとするのであれば、技術に関しては徹底的に磨かなくてはいけないでしょう。それがプロというものです。

しかし、より根本的な問いがあります。

「お金のため」と答えてしまう作家の物語は、そもそもが誠実なのか?

物語は何のためにあり、作家は何のために書くのか?

人生の余暇として、エンターテインメントを提供し、その物語に接している間だけ満足させる。そういう消費される物語もあります。

あなたが、あなた自身の人生の時間を掛けて書きたい物語が、それでいいのか?

YESと自信をもって答えられるなら、それは誠実な態度でしょう。

そこまで言うからには最高級にのエンターテインメントを提供して欲しいものです。

エンターテインメントは物語以外にもたくさんあります。それらを上回る満足感を提供できなければ、そもそも映画を見たり、小説を読んだりしません。

テーマパークで一日過ごしたような非日常感を、責任をもって提供して欲しいものです。

人生への誠実さ

消費されるだけではない物語があります。

職業や仕事としての作家ではなく、書くべくして書く作家がいます。

収容所や、孤独な病床の中で、言葉を捨てなかった作家がいます。

そういう誠実さで書かれた物語は、技術的には拙くとも、心を打つものがあります。

自分には物語にできるような重い体験などしていないと思う人も多いでしょう。現代日本では多くの人がそうでしょう(僕もです)。

そんな体験がないから、もう自分には書くものがない、作家などやめようと思うのであれば、それは人生に対して誠実だと思います。

自分に向いていない創作をつづけるよりも、もっと周りを幸せにできるような時間があるでしょう。

僕が以前通っていたスクールの友達は、多くの人が1年もしないうちに辞めていきました。

今はそれぞれの人生をとても幸せそうに送っています。

物語を、不満の捌け口に使っているような人もいますが、そういう人は書くことより、もっと根本的な向き合うべき問題があるように思います。

誰に何を言われようと、やめたくない、書きたいという思いがあるのであれば、まだ言葉にできていない何か、自覚できていない何かが、あなたの心の奥底にはあるのかもしれません。

その何かを、きちんと拾い上げることです。

物語論的な言い方をすれば、自分の「テーマ」と誠実に向き合うことです。

けして、珍しい体験や、苦しい体験だけがテーマではありません。戦争のような題材だけが価値があるテーマではないのです。

現代に生きるあなたにしか書けないテーマがあります。

それを切り捨てることは、自分自身を切り捨ててしまっていることと同じなのです。

最初は「書きたいという気持ち」だけでいいでしょう。

それは心の奥に灯った、吹けば消えてしまうような、ちいさな炎かもしれません。

けれど、書きつづけて燃やし続けることです。

お金にならないなら書くのをやめますか?

デビューまであと20年かかるならやめますか?

それでも書きつづける覚悟はありますか?

そういった問いにも、誠実に向き合って欲しいと思うのです。

迷いながらでもYESと言えるなら、その作家の書く物語には必ず何かが込められます。

拙くとも、誠実な物語になるのです。

緋片イルカ 2023.2.7

SNSシェア

フォローする