作家の腕とライターズコア(文学#79)

物語には「オリジナル」と「非オリジナル」がある。

非オリジナルは、マンガや小説といった原作があって脚本を書く「脚色」や、小説でも映画のノベライズ(たとえば小説 すずめの戸締まり)があるし、小説をベースにマンガにしたり(『バガボンド』)もある。

つまり、非オリジナルはフォーマットを変えているが、原作となる「オリジナル」があるといえる。

だが、そのオリジナルの物語でも、元ネタになるような話がある。

ディズニーアニメの多くはお伽話だし、現実の事件やニュースをモデルに書いたり、作者や身近な人の体験を元にする場合もある。

ファンタジーやSFのような異世界ものでも、やはり先行作品の影響がゼロというのは皆無に等しいだろう。

こう考えていくと、作品における「オリジナル要素」が影響する割合は少ないとも考えられる。

言い方がわかりづらいかもしれないが、非オリジナルと原作の関係は、オリジナルと「題材」の関係と類比にある。

非オリジナル:原作 ≒ 題材:元ネタ

「脚色」では原作のマンガや小説を、映像というフォーマットへ落と込んで処理する能力が、脚本家の腕のようなものである。

それは脚本家がオリジナルを書くときにも同じように必要で、原作ものを処理できなければオリジナルを面白くなんて書けないし、逆にオリジナルで面白いものを書けないのであれば「脚色」だって面白くできなどしない。

たとえば、自分の体験を元に書く場合、それは間違いなくオリジナルな要素ではあるが、うまく展開されていなければ面白くはならない。

ドキュメンタリーが面白いのは、編集が入っているからだ。

リアルを求める観客でも、一人の人間の24時間を編集なしに見ていたいなどとは思わないだろう。

気になる対象(推しとか)でも、その対象が無言で食事している時や寝ている姿を何時間も(早送りなしに)見ていたいか?と考えて欲しい。

「したい!」という病的な願望をもつ人もいるかもしれないが、実際にそんなことをしていたら、自身の生活は何もできなくなる。

リアルとリアリティは別物。

オリジナルとオリジナリティも別物。

自分の体験はオリジナルであっても、過去の先行作品と似てしまえば、他人からは「オリジナリティがない」と思われる。

そもそも物語はフィクション。

オリジナルであることより、オリジナリティが求められる。

そのオリジナリティを出すのは、まさに作家の腕である。

「構成」や「描写」といったテクニックと同様に、「テーマ」やキャラクターの感情にもオリジナリティを出すコツがある。
(参考:ストーリーサークル

話すのが上手い人(ラジオパーソナリティとか咄家)は、何気ない日常の話を、おもしろおかしく話す。

こういう腕のある人であれば、他人の話でも面白おかしくできる。嘘でも面白くできる。

ファンタジーでもSFでも、技術なくして空想しても面白くなどならない。「くだらないウソ」と思われて終わり。

オリジナリティを生み出す技術とは別に、オリジナルを追究することも大切である。

オリジナルは作家性につながる。

その人にしか語りえないもの。歴史上に残る思想や哲学をもった人は、そういった言葉を残している。

作家は自身の「ライターズコア」を追究しつづけるべきだ。

小手先だけの、深そうに見えるだけの「テーマ」など、コツをつかめば簡単に再現できる。先行作品があるから分析して寄せれば簡単に。

深そうに見えて、その実、掘り下げられていないテーマなど、それ自体エンタメみたいなもんだ。

一方で、自身のコアを見つけても、それを物語として処理する腕がなければ、きちんと伝えることはできない。

世間(観客)の多くは、メディアやSNSを見ればわかるとおり、自分で考えるより、うまいことを言う人の受け売りが大好きで、真実を語る人より「真実らしいこと」を巧く語る人に安易に流される。

物語は一流の技術とともにプロパガンダにも使われる。

技術だけある作家は、無自覚に民衆を誘導してしまう。

きちんと考え、きちんと伝える技術を持つことが作家には求められる。

考えるだけでは足りない。技術だけでも足りない。

両方を手にして、真の物語を伝えるのが、作家の役割ではないか。

イルカ 2023.4.6
読みやすく一部修正 2023.4.21

SNSシェア

フォローする