作者が楽をするということ(文学#81)

作り手が楽をすると、作品は良くはならない。

感覚的に共感してもらえると思います。

喩えるなら、スポーツの試合で選手が真剣に取り組んでいなかったら、観客は見ていて楽しめるか?ということ。

素人や子どもの試合でも、選手が一生懸命で、感情移入していれば応援したくなります。

実力の問題もあります。仕事になるかの問題とも言えます。

お金を払って観に行くようなプロの試合であれば、一生懸命なだけでは足りません。相応のレベルを求めたくなります。

「楽をしてはいけない」ということ

作者が「楽をする」ということはどういうことでしょう?

完成までにこんなに時間がかかったとか、取材でこんな苦労をしたんだというインタビューなどを聞くと楽はしていないように聞こえます。

ですが、作品を見てみると「苦労の甲斐」は見えるけど、作品としてあまりレベルが高くないということも、よくあります。

作者自身の労力と、作品への労力を履き違えてはいけません。

「楽をしてはいけない」というのは、作者の気持ちや生活の問題ではなく「作品のレベルで楽をしてはいけない」ということなのです。

具体的に、ストーリーで示してみます。

ミステリーだとします。

殺人事件が起きました。その部屋には三人が部屋にいました。容疑者です。犯人はこの中にいる。

あまり、そそられないシチュエーションです。

次の話と比べてみてください。

殺人事件が起きました。その部屋には誰もいなかった。被害者に恨みをもつ人間が三人です。犯人はこの中にいるはず。

密室殺人というのは、一見不可能に見えるから興味を引くのです。

でも、どうやって殺したんでしょう?

それを考えるのが作者です。

絶対に無理だと思うシチュエーションに対して、何とかアイデアを絞り出す。これが創作です。

「実は被害者は死んでなかった」など安易なオチに至ると、読者は興ざめです。

作者が楽をしてしまったようにも見えます。

「楽をしてはいけない」というのは、作者自身の気持ちの問題ではなく、物語の質を上げるために楽をしてはいけないということなのです。

要求レベル

「物語はこれで完成」「完璧だ」と作者が納得するレベルを「要求レベル」と呼んでみます。

作者の「要求レベル」とは別に、観客(読者)や依頼主(プロデューサーや編集者)の「要求レベル」があります。

①作者>依頼主>観客

「要求レベル」が、この状態であれば、作者は依頼主から評価され、観客の満足度も高いでしょう。プロとして仕事としてやっていけるでしょう。

②依頼主>作者>観客

新人の作家など、依頼主の要求に作者の腕が届いてなくても、観客を満足させることができれば、これも仕事としては成立するでしょう。

③作者>観客>依頼主

依頼主の要求が低くて、簡単に出版や映像化されてしまうような状況でも、作者自身のレベルが観客を越えていれば、これも成立します。

④観客>作者

依頼主がどうあれ、作者が観客の要求レベルに届いていなければ売れません。

結論をいれば、作者は観客の「要求レベル」を常に越えなくていけないのです。

このレベルは主観的なものではありません。

作者が「最高傑作だ」と豪語しても、客観的に観客のレベルに達していなければ独りよがりに過ぎません。

また、観客の「要求レベル」は売上げや興収のようなものとイコールではありません。

要求レベルに達していなくても宣伝効果で売上げは高くなってしまうことはあるし、ジャンルなどもあります。

ある特定の層に向けて作られた作品であれば、その層に対して「要求レベル」を越えているかが重要です。

十把一絡げに、売上げだけで評価することなど乱暴です。

特定の層のレベルをクリアしているなら成功ですし、逆に、売上げがよくても特定の層の要求を越えていないなら失敗ということもあるかもしれません。

主観的な要求レベル

客観的な「要求レベル」は、多くの人の観客の感想に目を向けたり、ニュースなどを見て時流を感じたり、物語を分析したり、様々なことから総合的な判断をするしかありません。

データは説得力を持っているようで、データだけに基づいたところで必ず成功するような作品は作れません。

これは、物語は完全にデータ化して評価することなどできないからです。

客観的とはいえ、実際は「客観的に捉えようとする主観的な姿勢」ではありますが、この感覚を養っていけば、ある程度の仕事をこなせるようになっていきます。

一方で、仕事としての「要求レベル」はクリアしてしても、そこで停滞してしまっている人もいます。

観客の「要求レベル」を5として、6の作品をコンスタントに作れるような作者です。

先ほどの「作者>観客」は満たしているので、プロとしての仕事はこなせます。

ですが、作者自身の「要求レベル」が6で止まっています。

「こんなもんだろう」と楽をしているとも言えます。

ある作者が高い向上心を持っていたとしまう。アーティストと呼べるような人です。

アマチュアで、仕事などしてしていなくても、7や8の作品を生んでいたら、どうでしょう?

依頼主の目に留まれば、すぐに仕事に繋がるでしょう。

クリエイターは、つまらない宣伝活動に力を入れるより、ずば抜けた作品を創ることが何よりも大切だとわかります。

それだけではありません。

レベル7の作品が観客の目に触れたあと、それまでプロとしてやっていたレベル6の作者の作品は売れなくなります。

観客の要求レベルが上がってしまうとも言えます。

映画や映像ドラマでいえば、配信によって国内の作品と、世界レベルの作品が同等に見ることができます。

面白そうなものを選んで、再生ボタンを押すだけです。

これを「世界に売れるようになった」など自惚れることは勘違いで「世界との競争に晒されるようになった」と捉えるべきでしょう。文明開化かもしれません笑

観客の「要求レベル」も、国内ではなく世界的な基準に合わせていかなければいけません。言語や予算など大きなハンデもあります。

そんな中で高いレベルを目指すには、作者は常に高い向上心をもっていなければいけないと言えるでしょう。

高すぎる向上心

一方で、高すぎる向上心は創作の弊害になってしまうことがあります。

こんな高いレベルのものは自分に書けないと、レベルの差に自信喪失してしまうようなものです。

ありきたりですが、誰でもいきなり高いレベルのものが書けるはずはありません。

どんなジャンルでもトップレベルにいる人は最低でも10年ぐらいの修錬期間を経ているという統計もあるそうです。

大切なのは、今すぐに、そのレベルの作品が創れるかではなく、将来的に到達する気持ちや覚悟があるかです。

練習をしなければ上達はしません。

作品を書いて、分析をつづければ、必ずうまくはなっていきます。

課題のような練習をするときには、課題用の仮の「要求レベル」を設定することが良いでしょう。

初めての人であれば「書き上げる」ことが目標でいいでしょう。

まずは、10本書き上げるとか、同じ目標をしばらく維持することも、慣れる上では大切です。

慣れてきたら「要求レベル」を上げる必要があります。

スクールなどで、だらだらと何年もいて向上しない人は、いつまでもクリアした「要求レベル」で書いているのです。「こんなもんか」のプロと同じです。

客観的な、世界的な基準での要求レベルを養いながら、そこを目標とした、今の自分にとっての要求レベルを段階的に立てていくこと。

山登りのようなものです。

頂上の位置は地図で確認し、そこまでの道を一歩一歩、進んでいくしか到達できません。

頂上(目標)を見失えば道に迷います。進まなければ、日が暮れます。

無理をしないことも山登りの基本でしょう。創作では、無理したところで死ぬ危険はないでしょうが、病むことはあります。

書けなくなっているときは「要求レベル」の設定を間違えているのかもしれません。

初心者だろうが、プロだろうが、適切な「要求レベル」を設定することが大切なのです。

イルカ 2023.5.17

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