才能と作家性(文学#92)

物語を書く能力に、才能というものがあるのだろうか?

「ある」という人もいれば、「ない」という人もいる。

結局は水掛け論がつづくだけだが、自分に才能があるのかと悩んでいる人や迷っている人には、それでもヒントになるかもしれないと思って、あえて考えてみる。

無責任な周りの言葉

何らかの結果をだした人は「才能があった」と言われる。

前評判は関係ない。

結果を出す前に「あの人は将来、成功しそう」とか「あの人は続けてもダメじゃない?」とか、他人は好き勝手に言う。無責任に言う。

ファイト!

闘わないやつらは笑うだけ。

そういう人間に限って、結果を出した途端に掌を返してくる。

めちゃくちゃ余談だが、僕がテレビ局の脚本コンクールを受賞した途端に(この程度の結果でも)すり寄ってきた人がいた。「受賞の賞金でどこか連れてってもらおう」とか勝手に言っていて、その人間性に驚いた。

ともかく、そんな人間の言葉に自分の人生を振りまわされる必要はない。

大事なのは自分自身が「結果を出したい」と思うか、どうか。それが何より大事。

結果とは何か?

世間の基準でいえば、小説なら自分の作品が書籍になったとか、脚本なら映像化されて放映/上映されたとか、そういった他人にも目に見える「結果」はわかりやすい。

レベルもある。

書籍では、お金を出せば発刊できる自費出版では誰も評価してくれないが、本屋で平積みされている方が、レベルは高いと言えよう。

映画では、学生の映画祭と、世界的に有名な映画祭では、同じ受賞でも意義が違う。

一般的な基準としてはそうだ。

どんな業界でも一般人と業界人では基準がズレているということもあるだろうが、まあ、一般的に「すごい」と言われるような結果であれば収入も名声も上がる。

お金という数字にしたとき、他業種の賃金と比較もされる。

そんなのどうでもいい。

それも他人の評価に過ぎない。

本気で、そこまで思える作家は強いと思う。

真に書きたい者を追究できるアーティストかもしれない。

けれど、現実問題として、仕事として物語を書いていく上では「売れる」とか「人気」とか大人の事情を無視できない。

インタビューでどれだけ芸術家を気取っても、プロは商業主義の土台で生活をしている。

自分にとって「結果を出す」ということは、どういうことか?

目標とも言い換えられるか

プロ=物語でお金をもらっている作家といってもレベルがある。収入もピンキリ。

お金なんていいから、自分が納得いく作品を作りあげたいというのも素晴らしいと思う。尊敬に値する(見せかけでなければ)。

大事なのは自分自身が、結果を出したいかどうか? その結果とは何を意味するのか?

これは他人がどうこう言うことではない。作者自身の問題。

たぶん、考えていても答えは出ない。

時間だけが過ぎていく。周りの言葉にあちこち振りまわされるうだけ。

「やれるかどうか?」ではなく「やるか? やらないか?」

決断の問題だと思う。

やると決めたとき、問題は「やれるかどうか?」から「どうやったらやれるか?」に変わる。

才能とは何か?という問題は、目標に辿りつくルートを見つけられるかどうかに変わる。

決断のあと

「やる」と決断する。「やりたい」ではダメ。

「やりたいんだけど、仕事が忙しくて」

「やりたいんだけど、気分が乗らなくて」

「やりたいんだけど、機械が壊れて」

やりたいは願望で、この言葉の後には他責がつづけられる。

「やる」と決めたからには「やる」。

やるの後には、他責はつづかない。

「やるんだけど、仕事が忙しくて」とはならない。

「仕事が忙しいけど、やる」

「気分が乗らないけど、やる」

「機械が壊れているけど、やる」

決断するとは、やることを決定事項にすること。

「作家になる」ことは決める。

その上で「どんな方向で、どんな作家になるのか?」が決まる。

現実の問題はある。

トップになろうと決めても、なれないことはある。人生ではそんなの当たり前。

年をとれば、だんだんと身体的能力が衰えていきもするし、チャンスも減ってくる。

難しいかもしれない、限りなくゼロに近い可能性かもしれない。

けれど、作家に限らず、最初から100%保証されている人などいない。

少しでも可能性を高めるために努力をしているし、良い方法はないかと常に模索している。

そういう人には努力の大切さや、人との出会いや関係性の大切さがわかるはず。

向上心があれば、本当によい方法と、口先だけで無責任な発言との違いも見分けられるようになってくる。

目標達成の壁

目標達成のためには必ず障害がある。

石を穿つようにコツコツと努力して壁に穴を空けて越えるやり方もあれば、掘削機をもってきて一気に壊してしまう方法もあるかもしれない。

場合によっては、壊さずとも、壁の横をするりと回避ししてしまった方が早いかもしれない。

壁は人によって違うし、乗りこえ方も違う。

乗りこえた人の経験談は大いに参考にはなるけど、そのまま自分に当てはまるとは限らない。

目標を決めるのも自分だが、それを乗りこえていくのも自分でしかない。誰も代わりにはなってくれない。

以下では、いくつかの壁について考えてみる。

性格の壁
人と話すがの得意で楽しめる人もいれば、苦手な人もいる。

人間は苦手なことは避けがちで、やらなくて良いなら、やらないで済ませてしまいたくなる。電話が苦手だからメールで済まそうとするようなもの。

真に苦手なことであれば向いていないかもしれない。人間は何でもできる訳ではない。

不向きなことを続けるのは辛いし、不幸な人生になるかもしれない。自覚した上で不向きなことに挑むのであれば、また違うかもしれない。

得意そうに見える人も、最初から得意だった訳ではないかもしれない。努力や慣れで、その能力を身につけたのかもしれない。

目標に対して、乗りこえなくてはいけない壁だと、自分が思うなら、逃げていてはダメ。

やる、やらないの自由はあるけど、やると決めたからにはやった方がいい。

元から得意な人でも、嫌なことや辛いことが一切ないはずがない。

どんなことでも、どんな世界でも、嫌なこともあれば、いいこともある。

時間の壁
スポーツや勉強の例を出すまでもなく、何らかの能力を身につけるには時間がかかる。

学習能力によって必要な時間はかわるだろうが、テスト勉強しなければ、いい点数など出せるはずがない。

やるべきことをやるためには、それなりの時間を確保しなくてはならない。

苦手だと思うなら、他の人以上に時間が必要になるだろう。

けれど、時間をきちんとかかれば、効率が悪くても、いずれは壁を越えられる。

仕事をしながら書くとすると、時間の絶対量の問題も出てくる。

たとえば、現状の生活では、1週間に10時間しか学習時間がとれないとする。

司法試験でいえば最低5000時間は必要と言われる。500週間、ざっくり見積もって10年である。(※弁護士の平均年収は1,119万円、中央値は700万円)

実際は、これより早いかもしれないし、遅いかもしれない。

「一週間だけ適当に勉強したら受かってしまった」なんてことは、あり得ない(そんなマンガの天才キャラみたいなことを信じてる人は詐欺に騙される)。

10年かけてでも目標を達成したいか?

それでも「やる」か?

「やる」と思えるなら、やればいい。周りがなんといおうともやればいい。

無理だとか、バカだとか言うひとは多いかもしれないが、僕なら応援する。

ただし「やる」からにはちゃんと努力する人。

10年計画でやろうとしているような人は頑張って続けてほしいと思うけど、「やりたいけど~」で言い訳して逃げてばかりいる人は、むりじゃないかな~と思ってしまう。

10年を5年にする方法はないか?

1週間10時間を、1週間20時間に上げればいい。

そんなことは、仕事やプライベートを考えると不可能だという人もいるだろう。

仕事を変える? プライベートの時間を削る?

時間は全人類平等に与えられているものだから、誰にもどうしようも出来ない。

自分の人生をどう生きるか?というのは、自分の時間をどう使うかとも言えるかもしれない。

現実的問題として、10かかってでもやるのか、環境や状況を変えてでも加速するのか、決めるのはすべて自分。

参考に、僕の例をあげれば、僕は学習時間・執筆時間を確保したいと思って18歳の頃からフリーター生活を続けてきた。

10代の浅はかな考えだったので就職などから逃げている部分も多分にあった。

結果的に、いまは物語の仕事で生活ができているので、この生活でよかったと思える。

就職していたら書いたりしていなかったかもしれないし、就職してもちゃんと書いていたかもしれない。ifに過ぎないのでわからない。

僕は自分の人生を生きてきただけなので「作家になりたけりゃ就職なんかしてたらダメだ」なんて微塵も思わない。

就職していた人だからこそ書けるものも、たくさんあるし、それと同じぐらいに就職していなかった僕だからこそ書けるものがあるから、損得でもない。

自分がどうするかだが、時間の壁というのは確実にある。一定期間以上の努力をしていない人が結果を出せることは限りなくゼロに近いだろう。

結果を出したいと思うなら、時間の確保を考えるのは大切だと思う。

お金の壁
時間は時給換算すれば、お金に変わる。

だから、時間とお金はかなり関係している。

お金さえあれば働かなくていいとすら言えるだろう。

歴史的な作家でも、生活には苦労しない「いい御身分」で書き続けていた人もいる。

困窮や病気とか、命の保証もないような絶望的な状況の中で書き続けていた人もいる。

他人がどうであれば、自分は自分。自分の目標達成には関係ない。参考にならない例も多いだろう。

だがお金の問題を解決することができれば、目標達成は早くなる。

世の中には、将来の成功を前提に借金をするような人もいる。それで失敗する人もいるし、成功してしまう人もいる。

僕自身は、さすがに出来ないと思ってしまうが、無心する人の中には、それだけ固い決意があるのかもしれない(ほとんどが無責任なだけだろうと思うが)。

お金と時間の問題は数字なので、壁を越えやすい。

自分の生活にいくら必要か、下げることはできないか?

下げることをできれば、時間を作れるのではないか?

我慢や変化が必要な部分も出てくるだろうが、それも「やる」という決心の強さによるだろう。

「作家になるためなら他のことは我慢する」という気持ちがあれば、それはただの我慢ではなく、目標達成のための努力の一部になる。

身体の壁
体調、集中力、気分など、身体の調子ひとつで、人間の行動は左右されてしまう。

規則正しい方が調子がいい人もれいば、夜中でないと書けないタイプもいる。

自分がどういう時によくて、どういう時にわるいか?

わるいときは、どうすると改善できるか?

わるくならないように日頃から注意できることはないか?

基本的に心身共に健康である方が、どんな作業でもしやすいだろう。

若い頃はできた徹夜がだんだんと辛くなってきたり、年をとればとるほど身体のコントロールすることの意義が大きくなってくる。

作業する日、一日単位での、調子の作り方もあるだろう。

早起きしてやった方がいいか、場所はどこでやるか、食べものや休憩のとり方など、集中しやすいやり方がわかると、それだけで効率は上がる。

変わるということ

「作家でなかった人」が「作家になる」ということは変わること。

変わるというのは、周りの評価が変わることではなく、自分自身が変わることだと思う。

むしろ、自分自身は「作家になる」という道を、見えないぐらいの距離を毎日進んでいて、その結果として、良い作品が書けるようになって、周りが評価してくれるようになって、内外ともに「作家になる」のだろう。

運もある。とくに出会いという運は大きいとは思う。

実力が十分でも、出会いがないため、世間的に評価されていない人もたくさんいるだろう。

逆に、実力がなくても世間に出てしまう人も山ほどいるが、そういう人は消えていくか、続く場合は出たあとにしっかりと実力がついていく。

周りからの評価が遅かれ早かれ、自分自身は「作家になる」ために進み続けていなくてはならない。

その努力をしている人は、デビューなどしていようがいまいが、すでに「作家」なのではないかと思う。

一般的な意味でデビューなどしていなくても、素晴らしい作品を書く人を知っているし、その人は売れているだけのつまらない作品を書いている人より、よっぽど「作家」だと思う。

まだ、初心者で「作家」になりきれていない人は、ビートのような小手先の技術をいくら身につけても、いいものを書くことも、デビューすることもままならないだろう。

「作家になる」とは、作家として生きていくという決断をすること。プロかどうとか、年収ななんかもっと関係ない。

「そんな決意はなかなかできない。だけど書きたい気持ちだけはある」という人もいるかもしれない。

そう思えるなら、心の奥底では既に決意しているのかもしれない。そういう人は書くなと言われても書くかもしれない。

心の性根で「書きたい」と思えていない人は、向いていないかもしれない。

僕は高校時代、陸上競技の長距離走をやっていて、先輩に大学で駅伝を目指せと言われたけれど、全くやりたいと思わなかった。

数字でみればタイムとしてかなり差があったし、それで無理だと思ってしまう時点で、向いていないのだと思った。

向いているかどうかと、現時点での実力がともなっているかどうかは関係ない。

向いている、というより、好きかどうかに近いだろうか。

先日、話した人が、人間にはクリエイターのように「自ら発信する人」と、一般客のような「受け取って、あれこれ言うだけの人」がいると言っていて、それはもう先天的で変わることはないと言っていた。

その話も、実際、そういう傾向が強いこともわかる。

塾講師をしていたときも、勉強のできる子は最初から要領もいいしミスも少ない。

結果を出せない子は、宿題もやってこないし、生活習慣も乱れている子も多かった。

一緒に目標を立てて上げたりすると、やる気をだして頑張る子も多いが、一時的で大きく変わったという子はちょっと印象にない。

むしろ、もとから出来る子の方が、教えて上げると、さらに良くなるという傾向のが強かった気がする。

テストの点数だとか、スポーツだとか、そういったものは、完全な競争社会で、一点一秒でも上の者が勝者となる。

物語はどうだろう?

誰かと、別の誰かの人生のどちらかに勝ちとか負けがあるのか?

本の売上げとか、レビューの評価とか、そういう見せかけの数字は勝ち負けに見えるけれど、作者自身の人生に勝敗がついた訳ではない。

ゲームで対戦して、今回は勝った、今回は負けたという程度に過ぎないのではないか。

作家になるかどうかは、自分が決めること。

それがいいものかどうかも、自分の価値観で決めること。

作家は想像力豊かで、内面世界が豊かな人だなんて理想化する人もいるかもしれないが、作家なんて、部屋に籠もってパソコンに向かって、つまらない職業だと思う人もいるだろう。

ハッピーエンドの人生を肯定するような物語を書く人もいれば、ホラーやグロテスクな他人を不快にさせるような物語を書く人もいる。

自分は何を書くのか?

それも、自分が決めるしかない。

あなたの人生で、あなたが書くと決めて、あなたがいいと思うものを書いて生きていく。

それが「作家である」ことなのではないかと思う。

そういう生き方ができていれば、才能だとか結果なんて、どうでもいいのかもしれない。

緋片イルカ 2023.9.25

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