https://shortshorts.org/2022/program/int/int-5/warsha/
(※2022/6/30までオンライン視聴できます)
ショートムービーはなかなか見る機会がなく、映画祭が終わってしまうと、見直すのも難しくなってしまいますが、6/30までは視聴が可能なようので、興味がある方は見てみてください。
この映画のショットは一見すると単調なショットに見えると思いますが、しっかりと考えられたショットで構成されていて、ストーリーや主人公の感情を伝えるショットとなっています。
映像リテラシーの低い人には「雰囲気映画」と見えるかもしれませんが、映像で伝えきれていない長く単調なだけのショットとは明確な違いあります。
まず、僕が初見でこの作品を見たときの印象を再掲します。
キャラクター、ショット、設定、キャラクターアークなど、よく出来ている。好みの範囲だが、クレーンに吊されて踊る演出が長い。見せ場なので長いことは良いとするなら、動きや見せ方にも工夫が少なかったため単調とも言える。とはいえ、全体の完成度は高い。良いショート。
ベストかどうかはともかく、間違いなくいい映画だとは思いました。
グランプリが発表された後に、改めて見直して、分析した内容を、以下に解説していきます。
長編映画では解説しきれませんが、短編なのでショットレベルでの分析をしていきます。
1「寝床で上空を見つめる主人公」
寝床という地面に一番低い状態から、上空を見つめているショット。初見ではこのトップシーンの意味はわかりませんが、最後まで見た人であれば、このショットがどういう意味を持っているかはわかるはずです。ビートでは「オープニングイメージ」として機能しています。テーマというよりは主人公の感情が重要な作品なので、同時に「主人公のセットアップ」的な働きもしています。ハリウッドのエンタメ作品のテンポに慣れている人にはショットが長すぎる印象を受けるかもしれませんが、この人物が主人公であり、この視点に意味があるということを伝える十分な長さです。短すぎると、ただの「寝ている」ことを伝えるだけの説明的なショットになってしまいます。どこまで長くとればいいかは、演出家のセンスによるので好みはわかれるところですが、全体としてのテンポが保たれているかが重要です。その点では、この作品は問題ありません。ショットの意義がわかった上で長すぎる短すぎると感じるとしたら、それはもはや好き嫌いの個人的なセンスに近いと思います(ただし、ここにも他の映画作品との相対評価という側面が含まれますので、映画をたくさん見た人とそうでない人では、大きく意見がわかれると思います)。
2「寝床のエスタブリッシュメント」
カメラを引いて、男が寝ている場所が映ります。時間や場所を提示するショットをエスタブリッシュメントショットと呼びます。状況設定のために必要不可欠なショットです。基本的な編集では、こちらから入ることもありますが、この作品では男の感情がテーマであるので、ショット1の寄りから入って正解です。首の動きに合わせて繋ぐのは、編集の基本中の基本で、わざわざ言うほどでもありませんが、そういう基本すら出来ていない繋ぎ方をしている作品が多々あるので、一応、指摘しておきます。
3「洗面所でのシーン」
いくつかのショットがありますがシーン2としてまとめて説明します。まず男は鍵を閉めて、ズボンから「赤い服の人間」の写真を出して眺めます。写真はポケットではなく下着から出したように見えます。性的意味合いを暗示しています。「写真を眺める顔」のショットは感情を伝えるのに最適なショットです。この顔への寄り方によって感情が伝わります。このあたりの動作をカメラを引いた一連の長回しで撮っていると、ただの動作の説明的なショットに見えてしまいます。しっかりと寄っているから感情が伝わるのです。「男が写真を飾る」。赤い服の人間は中性的な顔で誰なのかもわかりません。女性のようにも見えるし、LGBT的な意味合いを込めているようにも見えます。レバノンの映画で、イスラム教の文化的な背景への理解不足もあるかも知れませんが、日本人にも彼がこの赤い服の人間に憧れていることだけはしっかりと伝わるショットです。次にカメラは「鏡の中の主人公を映して」から、実物の主人公を映します。憧れと現実を対比させたショットが挟まれて、さらに「男の顔と写真の人間」とが同じショットに収まります。とても意味深なショットです。さらにカメラは男の視線に寄っていきます。前の顔の寄りよりも、さらにアップなのです。これらの一連のショットが、それ自体、キャラクターアークのように寄っていきます。ここで主人公のwant
は明確になりました。この作品を通してですが、主人公は一言もセリフを発していないことにも注目してください(歌は唄っています)。障害者の設定ではないと思いますが、セリフで説明などしなくても、ショットに意味を込めればきちんと伝わるという見本とも言えます。
仕事仲間にドアをノックされて、主人公の夢想に浸る世界は中断されます。男は「Mohammad」と呼ばれます。日本語でいえばムハンマドです。一般的な男性名称だと思うので、そのネーミングだけで預言者というテーマを込めるのは作りとしてはチープですが、そういう解釈ができる余地は残っていることは注目しておきます(この感覚を日本人名で喩えるなら、マサルという名前に「勝」という漢字をあてるか「優」という漢字をあてるかで、キャラの印象は変わります。それだけ、強気のキャラだから「勝」、優しいキャラだから「優」といったネーミングは安易ではあるけど、設定の一助にはなるということです)。「マスかいてたのか?」は、性的暗示のリマインドになってます。
「タイトル Warsha」
意味は知りませんでしたが「Warshaはヒンズー教の女の子の名前であり、この名前の意味は「雨」である。」と書かれている記事を見つけました。このタイトルが主人公とどう関わるかは、それぞれの解釈に任せます。
4「移動中の車」
運転手から映るのはエスタブリッシュメントです。あってもなくてもいいショットです。邪魔はしていないのであっても問題ない長さです。クラクション、同僚達の歌声、揺れる車内と、雑音の中、窓際の主人公はじっと丸くなっています。影になりがちで、とても小さな存在に映っています。観客はトップシーンから主人公の感情に注目し感情移入してきているので、この日常での主人公での様子に、苦しみのような感情が湧きます。監督・カメラマンは、こういうショットで車内の別の同僚を映してしまいがちですが、主人公に注目させるためには、一瞬足りとも、無駄な人物を大写しにしてはいけません。この考え方を理解するには、以下のような考え方をもってください。たとえばトータル10分の短編映画で1分ほど、主人公以外のシーンがあったとします。これは120分の映画で10分に相当します。サブプロットほどのキャラの尺です。では、この作品で、同僚がサブキャラクターというほど重要か?と考えてみてください。映す必要がないどころか、主人公以外の無駄な人物に尺を使ってはいけないことがお分かりになるかと思います。車内で歌われている歌は、文化的な理解不足でどういう意味が込められているか、僕にはわかりません。「とっととくたばれ、シリア野郎」という差別的セリフも、一言で主人公の設定を説明しています。間違っても「僕はシリア出身だから……」などと主人公に語らせるようなシーンを作ってはダメです。そういうものが「説明台詞」と呼ばれるようなものです。
5「車から降りる+事故の説明」
「主人公が車から降りて仕事場へ移動する」という説明的なショットです。そこに現場監督のような男のセリフで「事故が起きた」「代わりがいる」というストーリー上、不可欠な情報が説明されています。こういうものは説明台詞とは呼びません。ストーリー上、説明するべき情報はしっかりと説明しなくてはいけません。こういう情報を提示するときは、いかにスマートに、テンポよく、的確な情報だけを伝えるかと考えるべきです。これも、たとえば「事故があったらしいぜ」「いつ? どこで?」といった会話をやりとりさせると説明的なシーンになります。わざとらしいのです。いかにも観客に伝えるために、キャラクターに会話させているかんじです。現場監督らしき男は背を向けていて、顔を映さないところも良いと思います。この程度の脇役の顔は、ショートでは映さない方がブレません。
6「列に並んでいる」
列に並んでいる工夫たち。主人公の前後の男が、事故で死んだ男に関して会話をします。ここは、やや「説明的なシーン」だと感じます。会話の内容が前シーンと重複していないことがポイントです。前のシーンで「事故があった」「代わりがいる」という情報に対して「クレーンの事故」「死亡事故が起きている」という追加の情報が入ります。ここでくり返しのように「事故があったらしいぜ」「どんな?」とか言わせるとくり返しになってテンポが悪くなります(基本中の基本だと思いますが、これすら出来ていない脚本が世の中に多すぎるのです!)。また、事故の内容までを、前の現場監督らしき男のセリフだけで説明していたら、セリフが長くなってしまっていたでしょう。視点の違いもあります。前はどちらかというと上司にあたるような男の立場からの「代わりがいる」という意見です。それに対して主人公と同じ立場の男達からは、弱い立場の言葉でます。「ここじゃ俺たちは使い捨てさ」は立場が伝わるセリフだと思いますが、英語字幕では「Look at the shit tools they give us.」となっています。原語ではわかりません。非常に暗い場所で撮られてもいます。主人公の上向きの目線で、このシーンは終わります。決意したような良い表情をしています。ここまでの二つのシーンで「カタリスト」と呼んでよいでしょう。主人公の前に「危険のクレーン係が必要」という状況が起きたのです。
7「クレーンを見上げる」
男が工夫達と歩いてきて、主人公がクレーンを見上げます。歩いてくるときのショットは物を被らせて、盗み撮りのようなショットになっています。こういうショットは、かっこつけで演出家が使いがちですが、このショットを使う意味があるか?と考えて使うべきです。ここまでのシーンでは、主人公の存在を一貫してして小さく映しています。だからこそ、この物陰からのショットが活きるのです。無意味に物陰からのショットを挟むと、観客には勘違いや別の人物の視点を連想させてしまいます。「主人公が見上げてからのクレーン」高さを強調するショットです。カメラの技術的な操作はわかりませんが、雲の動き方から、意図的な強調(たぶんズーム?)を入れています。空の青さの綺麗さも、もちろん重要です。ここまでのショットで青い空が一度も映されていないから、見ている観客も「ああ、きれいだな~」と感じられ、主人公の気持ちに重なります。ビートで解釈するなら「ディベート」です。
8「クレーンに上る契約」
主人公は自らの意志で、クレーンに上ることを契約します。これはアクト2に入るための決断で「デス」といえます。クレーンで死亡事故が多発していることからも死が連想されます。一方で、上司などから白羽の矢が立てられるのではなく、自ら入っていくところが「ターニングポイント1」とも呼べます。長編映画では自らの決断のみでアクト2に入っていく映画は少ないのですが(割愛しますが、どこかの記事で説明してます。非日常とのバランスです)、短編ならではのアークともいえそうです。契約書を交わしてアクト2に入っていきます。ショットでも、上司の声だけで顔が一度も映らないところも徹底した演出です。こういう徹底さ、全体の統一感から、狙った演出なのか、偶然なのかはハッキリとわかります。この作品では明らかに演出されています。
9「クレーンに向かう」
歩く主人公の背後からカメラが追っていくショット。これも、かっこよさだけで多用されがちなショットです。ここでは主人公がアクト2に入っていくのですから最適なショットです。誰の、どこへ向かうショットなのか、それがストーリー上、観客に伝えたいものなのかを考えた上で使うべきショットです。
10「エレベーター」
エレベーターの列に並ぶ主人公。最後尾ではありますが、足取りはしっかりしているし、他の工夫たちと比べて、はっきりと映っています。前の前後に挟まれていたショットとは印象がちがいます。エレベーターの扉が閉まるところは「プロットポイント1」。的な門通過の演出にも見えます
エレベーターの中では、主人公がカメラの前にいます。存在感が強くなってきています。タバコについては、受け渡しの手元などの説明的なショットを入れなくて正解だと感じます。日本語字幕ではカットされていますが、タバコをくれる男はクレーンのことを「THE Beast」と呼んでいます(原語ではわかりません)。獣が性欲につながる野性的な感情を想起させます。タバコをくれる男を「ピンチ1」と見るのはやや無理があるので、ピンチはなしとします。短編はサブプロットは必須ではありません。
11「エレベーターを降りてから」
エレベーターから降りた主人公は、前とは逆のカメラに向かってくる前向きのシーンで映されます。足取りは、当然、向かうときとはちがって、ゆっくりで慎重です。主人公の表情もしっかり捉えています。クレーン自体を映すよりも、クレーンに向かう人間の反応を映すことで、クレーン(あるいはThe Beast)の存在感や、そこへ向かう緊張感を高めています。適切なショットです。
溜めに溜めて、切り返すと、主人公が細い足場に向かっていることがわかります。空の青さも映ります。再び、背中から追うショット。9のショットを「バトル」と捉えるなら、2回目のバトルというかんじもします。真上から俯瞰ショット、高さの強調。高所恐怖症の人はひやひやしそうなショットです。次のハシゴを登っていくショットでも、カメラは引いていく動きをして、高さを強調しています。
12「到着」
息を切らして運転席に飛び込む主人公。呼吸の乱れは、ここまでの緊張感を演出してます。あっさりと「着きました」ではいけないのは言うまでありません。ここで、プロットアークとしては「ミッドポイント」と呼んでいいでしょう。一番、高いところへ来たのですから、わかりやすいMPです。呼吸を整え、窓から天上からの世界を眺めます。単純に綺麗な景色です。ビルやクレーンなどの高さを比較すると、意図的に高さを強調した遠景のショットです。タバコを吸うことは、落ち着くための行動以上の深い意味はないように感じますが、タバコをもらう=ピンチとするのであれば、MPでのクロスといえます。
13「ラジオを見つけて音楽をかける」
ビート分析に慣れない人には混乱しやすいところだと思いますが、ここは「フォール」あるいは「プロットポイント2」です。全体の物語「男がクレーンに上って、帰ってくる」というストーリー上では、まだクレーンの上にいるので、MPあるいは非日常の世界にいると言えます。しかし、演出上のビートとしては、次の展開が始まります。この場合の「フォール」には落下の意味合いはありません。落下というより、むしろ、ここから、さらに上に上っていく印象があります。落下といったビートの定義は理解するための目安なので、本質的にはここで「次の展開=次のシークエンスに入っている」という感覚を掴むことが重要です。「赤い服を着て踊る」次のシーンをアクト3とするなら、ここが「PP2」となるという解釈になります。短編ならではの変則型ですが、短編にはよくあります(詳しく聞きたい人は分析会などで直接聞いてください)。ビートではなく、キャンベルの言葉でいえば「誘惑する女」に入っているといえます。ある音楽にラジオがチューニングされたとき、主人公は驚いたように鼻で笑います。僕の解釈では「なんで、このタイミングで、この曲が……」といったところでしょうか。冒頭でフリを入れていた赤い服の人間は、この歌の歌い手でしょうか? その辺りはハッキリしませんが、主人公がインパクトを受けたのは伝わってきます。男は例の写真を取り出します。いつの間にか破れたのか、丸まった桃のような形に切りとられています。女性的です。最初のシーンでは四角かったので、もちろん演出としてやっています。音楽に合わせて、踊って歌い出す主人公。欲望の解放。もちろん音楽による演出効果も付与されています。ビル群がオーバーラップして映されていますが、劇場の観客のようにも見えます。自分へ酔い痴れていき「父親との一体化」が起こります。
14「赤い服に変身してダンス」
イメージシーン。男の妄想シーンと解釈してよいでしょう。この手のシーンは演出上の面白さはあれど、ストーリーは停滞しているという欠点もあります。初見ではかなり長く感じましたが、2回目では、そこまでではないと思いました。ただ、演出的な物足りなさはあるとは依然、感じました。この作品の欠点といえる箇所です。クレーンにぶら下がって踊るシーンは面白くはあります。ですが、動きはクルクル回ったり、サーカスの空中ブランコのような印象も受けます。ダンスで感情を表現していると言えます。それは芸術表現としては高尚ではありますが、反面、映画としては伝わらないとも言えます。これが男の願望の実現であるなら、前半に写真を見る以上に肉体的な抑圧を受けている(たとえば寝床や車でも、いつも狭苦しさが表現されている)ことをセットアップしておけば、ここでのダンスがより一層、際立ちました。クレーンの運転席の中で踊っているところから、さらに外に出て自由に踊るという、ステージアップが見られることになりますが、そのあたりが、やや演出の勢い任せになってしまっている印象です。ストーリー的な意義でいえば、運転席より下がってしまっています。もっと空の上へと舞っていってしまえば、さらに高尚な次元、キャンベルでいうとところの「神格化」へも到達したと言えたかもしれません。個人の解放をしただけでは「神格化」には一歩及ばない印象があります。個人的な推測では、このダンスシーンは、特技監督のような別演出家がやっているのではないかなという印象を受けます。ストーリーテリングとしてはわずかにズレてしまっているのです。ですが、演出的には「神格化」的です。
15「夕方、仕事終わり」
無線の「ご苦労さん。明日も頼むぞ」で、仕事はきちんとしていたことがわかります。クレーンに上るというプロットアークが終わるという点で「プロットポイント2」といえます。現実に戻ります。
16「礼拝」
手と顔を濡らして、礼拝をします。濡らし方がトップシーンの洗面所と似ています。ツイストはありませんが短い「ビッグバトル」と言えます。エピローグと解釈しても構いません。短編ならではの変則型なので、自分が掴みやすいように解釈すればよいでしょう。
17「車で帰る主人公」
4の行きのショットとの対比です。車の外からのショットになっているので、車の中の喧騒さがあまり聞こえません。夕日が反射して、空が重なっています。見上げる主人公の表情はもちろんファーストショットのウケになっていて、「ファイナルイメージ」として機能しています。
緋片イルカ 2022.6.23