映画『アナと雪の女王2』(視聴メモ)

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※あらすじはリンク先でご覧下さい。

一個人の感想

「好き」3 「作品」3 「脚本」3

前作のキャラ人気に寄っかかっただけの駄作。前作同様、設定でストーリーを進めすぎていて共感できない。歌とCG描写(秋、ダム、氷全般)は素晴らしいが、つまりはエルサたちのミュージックビデオというかんじ。監督・脚本のジェニファー・リーという人は『シュガー・ラッシュ』の脚本で素晴らしい一人なのかと思っていたが、監督のRich Moore、あるいは共同脚本のJim Reardon、Phil Johnstonによるところだったのだと考えを改める。エルサのヴィジュアルにだけは力を入れているが、作品全体をディレクションする力が足りていない。別の記事でも解説はしているが「設定でストーリーを進める」ということを補足しておく。これは「アークが描けていない」「段取りくさい」「説明的」「理屈っぽい」ということとほぼ同義で、本作において一つ例を挙げるなら、エルサが「謎の声を聞いて、魔法の森へ目指す」というのがストーリーの始まり(カタリスト)になっているが、この「謎の声を聞く」というのはプロット上のイベントに過ぎない。「エルサが声を聞いて、森を目指す動機をしっかり描写すること」がアークを描くということ。観客が理屈で理解するのではなく、感情として共感するように進めること。観客に、たとえば「エルサ、行かない方がいいと思うけど、エルサなら行っちゃうよね~」なんて思わせることができたら、観客はすでに感情移入している。これはトップシーンから描写の中で、繊細にセットアップしていくことでカタリストが起きたときに「ああ、そうなるよね~」となるようにもっていくものである。アナたちとの日常やオラフのコントなどはショートムービー的で楽しげではあるが、キャラクターアークに無頓着にそういうシーンを入れているうちに時間だけが過ぎて、カタリストになってもキャラクターの準備ができていないという状況になる。そうなると「私を呼ぶのは〝善きもの〟よ」「魔法の力で感じるの」(※本作の字幕セリフより)といった強引な理屈(説明ゼリフ)で、エルサを森に行かせるハメになる。観客としては理屈は理解できる。だが感情移入はできない。「え、なんで善きものって思うの?」「ん~魔法の力って言われちゃ納得するしかないよな」と、エルサと距離感をかんじたまま、つづきを見ていくことになる。キャラクターアークを描くということは物語の本質といってもいいようなもの。描けるかどうかはライターの実力にも直結する。部分的に強引な展開になっていても丁寧に推敲していけば潰していけるが、そもそもの実力がない(腕が悪い)ライターの場合、あちこちで同様シーンが続く。こうなると演出でいかに素晴らしい映像や音楽を見せても白ける(※だから脚本は演出より重要なのです)。想像するなら、ファンでもないアーティストのライブへいって、どれだけ楽しめるか?ということ。ファンなら、何でも許せる部分もある。物語はふつうはキャラクターと観客は「初めまして」なので、まずはアクト1でしっかりキャラクターをセットアップして、観客に好きになってしまう必要がある。そこからアクト2に入ってドラマを進めるようなもの。本作のようなシリーズ作品では、前作でファンを獲得しているので、こういう丁寧なセットアップがなおざりになりがち。幸いというか、アナ雪は前作でもアークが雑なのに歌を中心にファンを獲得できているから、本作でも、エルサがかっこよければそれでいいという評価をする人も多いと思う。事実、エルサは映像的にはかっこよい。キャラクター達の感情もわかるという観客も多いと思う。そういう一般の観客の気持ちに水を差す気はないが、脚本を書く者は同じレベルで見ていてはダメ。見る側から書く側にならないと。ちおなみに個人的にはディズニーキャラの中でも、エルサもアナも好きな方である(オラフとクリストフは構成上、シーンの入るタイミングが悪いため鬱陶しいが)。キャラクターが嫌いだから、作品を悪く言うとかではないので、ファンの方はあしからず。むしろ、好きなキャラだからこそ失敗しているのが歯痒いのです。もっと感動的なストーリーにできるのに。

追記:『塔の上のラプンツェル』の優れているところは音楽シーンがストーリー上でも意義あるシーンになっているところが多くストーリーを停滞させない。アナ雪のただ歌っているMV感と比べるとよくわかる。ミュージカル映画の多くは脚本の観点から見ると失敗しているものが多い。

イルカ 2023.4.8

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